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花々の書  作者: 紙屑
7/15

竜胆、其の七

 しかし彼女達の脇で未だに自らの書に向かい続ける猛者が一人いた。その人物とはもちろん竜胆竹生である。彼は隣でのことなど知ったものかと言わんばかりに一心に書いていた。で、そんな竹生にふと気付いた花梨は何か一声かけようと思い立った。しかし彼女がそう思った矢先、部屋の外から「おーい。誰か開けてくれえ」という声が聞こえてきた。その声の主は川住水仙である。

「あーはいはい。ちょっと待ってー」

 竹生に声をかけそびれた花梨は、「まったく。自分で開けろよ」と小さく言ってしぶしぶ戸を開けに行った。彼女はがらがらとそれを開く。すると開いた先にいる水仙は「よーし皆の衆!今日はもう終わりにするか!」と言い放った。静かだった室内には彼の野太い声が行き渡る。彼は花梨に「ありがとな」と一言礼を述べてから中に入った。花梨は開けた戸を閉めた。そしたら水仙は「しかし暑いなこの部屋!」と一人で続け、「すまん。窓も開けてくれないか」と再度彼女に対して言った。そう言われた花梨はまたしても嫌そうに「はいはい」と言って、締め切られていた窓をからからと空けた。そうすると寒々しい冬風が控えめにすうと入ってきた。外はまだ暮れ泥んでいる。夕焼け空がとても綺麗だった。すると水仙は右手で持ってきていたものを竹生達の使っている机の隣にある長机の上に置き、また左手に持っていたものの数々もそれの上に置くことをした。それらが一体何だったのかというと、すでに四つに切り分けられている大きなケーキ皿に乗ったクリスマスケーキと、それらを取り分けるための人数分の小皿と四人分のフォークであった。彼は後は腰を下ろして何とはなしに窓の外を眺めた。そして窓を開けた花梨も意味なく外の方を見ていた。五分くらいが経っただろうか、換気をし終えた花梨は窓を閉めた。そして彼女はまた竹生と林檎の間に戻って座った。そうしたら水仙は花梨に改めて「ありがとう」と言った。そして「どうだ? 良い字は書けたか?」とおもむろに尋ねる。

「当たり前でしょ? 私が良い字を書けない日なんてあるわけないじゃん」

「お! 何だ何だ? 調子の良い花梨なんざ珍しいこって。赤飯でも炊くか?」

「いや炊かんで良いし! というか林檎と同じこと言ってるし! つまんな!」

「ん? そうなのか? はは! まあいいじゃねーかそんな細けーことはよ! それよりもほら! 見せてみろ、その絶好調の書とやらを!」

「それはやだ」

「何でよ? 良いやつ書けたんだろ? 良いから見せてみろって」

「やだって言った」

「……ちえ。しけた野郎だな。良い字だって思ったんだろ? だったら恥ずかしがってねーでどうどうと見せろって。それとも何か? 良い字が書けたってのは嘘っぱちですかい? 俺からするとそれが一番しらけるってもんなんですがね」

「恥ずかしがってないし! 嘘でもないし!」

「じゃあ」

「でも駄目なの!」

 花梨は頑なに水仙の要求を断ることをする。彼は何が何だか分からないといった調子で花梨をじとりとした目つきで見ていたが、彼女のこれまた何とも言えない顔つきに何やら得心するところがあったらしくふむと頷き、後は「まあいいや」と言って話をうやむやにした。花梨からすると今日の書だけは林檎以外の人に評価されたくないという気持ちが瞬間的に働いたのであろう、「そうそう良いの!」と半ば強引に話を逸らして自身の本日の格闘を二人にしか知り得ないものとするのである。そんな花梨は話題を変えようと、水仙が持ってきていたケーキのことを話し出した。

「というか先生、それって」

「ん? ……知りたいか?」

「いや、知りたいも何もケーキでしょ? 見れば分かるじゃん」

「ん? 違うぞ?」

「え? 違うの? じゃあ何?」

「『川住水仙特製ケーキ』だぞ?」

「いやケーキじゃん!」

 花梨ははあと大袈裟にため息をしてみせた。それを見た水仙は一体何が不満なんだとでも言いたげに彼女を睨め付ける。しかし花梨はそれには全くと言って良いほど動じず、オーバーな仕草でやれやれと肩をすくませるばかりだった。

「つれない奴だなー花梨は。こんなにも愛情の込められた一品を前にして何も感じないとは、もはや人としての何かが欠けていると言っても過言ではないぞ? もっとこう、『わあ、凄ーい!』だとか『ありがとう!』だとかを言ってみたらどうだ?」

「わー凄ーい。ありがとう」

「棒読みかよ! それって悪く言われるよりも辛いことなんだからな!」

「意図的にそうしてるつもりだけど?」

「ひん曲がってやがるわこいつ」

 水仙はぷりぷりと怒って「何だよもー」といじける。そのがっくりとした姿はさながら彼氏に持っていったプレゼントを酷評される彼女のそれであった。がっちりとした体型の雄々しいとさえ言い表せる水仙が、自作のクリスマスケーキをいまいち褒めてもらえずにしょんぼりとするというのは案外可愛らしいと言えるのかもしれないが、如何せん声が渋すぎてむしろ少し気持ちの悪い言動に聞こえてくるのはもう仕方のないことであり、それについてを言及するという野暮を花梨はもちろんしないでいるし、これはこれで哀愁漂う良いシチュエーションと呼べるのかもしれなかった。

「お前らが書いている間ずっとだぞ? ずっと俺はお前らのためだけに丹精込めて、あれやこれやと試行錯誤をしてこれを作ってたんだぞ? それが何だ? 一蹴されて終わりかよ。もっと喜ばれるだろうって思ってたのに。もっと俺はお前らの喜んだ顔が見たかったっていうのに! こんなのってありかよ。なあ!」

 水仙の落胆ぶりはもはやうっとうしいものと化していた。彼はちらちらと花梨と林檎、それから竹生を順番に見て回って物欲しそうな顔を浮かべながらにぎこちなく笑む。嘘でも良いから褒めて欲しいといった魂胆が丸分かりのその所行は三人にとってはストレスにしかならず、しかし当の水仙はそれを全くと言って良いほど理解していないようだったが、もしかすると彼はそれを分かっていながらにして、花梨達に自身が望む返答を強要しているとも言えるのかもしれず、彼女達はより一層反応に困るというか手放しに喜びたくないというか、そんなような心情にさせられてしまうのだった。何かを強いられると無性にそれに抗いたくなる心理というものが否応なしに三人の胸中にはわき上がってきている。すると、水仙は今度は林檎に対して話し始めた。

「なあ林檎。お前は俺のこの頑張りを認めてくれるよな?」

「……」

「林檎ちゃん? おーい、聞いてる? いや、もちろん聞いてるよね、結構近くで話してるしな」

「……」

「ただただ絶句かよ! 一番ショックだわ!」

「……」

「なおも押し黙る! そしてその顔をやめろ!」

 林檎はまるで能面のような表情を浮かべながらに水仙の方をぼんやりと見つめている。虚ろな目で、しかも黙したままに呆けている彼女からはもはや生気すらも感じとることは難しい。「ほら林檎! 刮目せよ! これが『川住水仙特製ケーキ』であるぞ! どうだ! 旨そうだろう!」

「……」

「もう一度言う! 旨そうだろう!」

「……」

「駄目だ埒があかねえ! うんともすんとも言いやしねえぞ!」

 水仙は頭を掻きむしりながら「嗚呼!」と吠え、自身が一生懸命に作ったケーキが評価すらしてもらえていない今の現状を大いに嘆く。しかしそれは何もそのケーキが不味そうだからではないのは先に記しておくべきだろう。そう、水仙の作ったそれは実はとても美味しそうなのである。ケーキを飾り立てている色取り取りのフルーツはまるできらきらと光る宝石のようではあるし、きめの細かい生クリームはまるで初雪のように真っ白で美しいと言うことが出来る。丁寧に施されたであろう細やかな装飾もまた目に楽しく、いよいよクリスマスが到来したという実感がそれを見れば自然とわき上がってくるといったような塩梅であり、そのクリスマスケーキはやはりとても質が高く、自作したとは思えないくらいの出来映えを誇っているのは一目見ればすぐに分かることであり、どこかの店で売り物になっていても何らおかしくはないくらいに作り込まれたものであるのは確かだった。それなのに三人はその見事と言う他ない品に対して肯定的な反応を示そうとしない。とても綺麗なのに、そして何よりとても美味しそうなのは間違いのないことではあるのに、三人はただひたすらにその特製ケーキとやらから目を背けようとするばかりである。一体なぜなのか。それはもう皆まで言わなくてもきっとすでに伝わっていることだろう。

「竹生。お前は分かってくれるよな? この芸術と呼ぶにふさわしい一品の価値を」

 水仙は遂に竹生に話をふった。花梨にも林檎にも冷たい反応を示されてしょげている彼はもはや神にでも縋るような勢いで竹生に喋りかける。水仙は一言で言うのならば狼狽していた。どうか自分の努力を認めてくれと懇願するその様はもはや少し恐ろしいくらいであるとも言える。するとそんな水仙を見かねた竹生は筆を一旦置いて手を休めた。そして彼はこれ以上ないほどの苦笑いを浮かべながらに、「美味しそうですね」とだけを呟くのである。

「竹生。お前は、お前ってやつは。……嬉しすぎて何だか泣けてきた。竹生よ、よくぞ言ってくれた。その言葉が、その言葉だけが俺は聞きたかったんだ。良いか? ようは何でもそうだ。何かを成す。そうなった時に一番手に入れたいものって一体何だと思う? 地位? 名誉? 財産? いいや違うね。それはそう、言葉だ。ちっぽけだって構わない、それはつまりは賞賛の言葉なんだよ! ありがとうよ、竹生。俺はお前に救われてばかりだな。でもな、たまには俺が竹生に礼をしねえとばちが当たるってもんよ。だから竹生。思う存分食え! 食って食って食いまくれ! また良い書が書けるように食え! さあ竹生! 食うんだ!」

 適当に調子の良いことを口走って竹生に微笑みかけてくる水仙。しかしその水仙の屈託のない笑顔が竹生にとっては途轍もないほどの恐怖であり、気付けば竹生はぶるぶると身震いをしていた。水仙とは対照的な引きつった笑みを浮かべるしかない彼は「いやー」とどっち付かずな返事をする。しかしそれが水仙にとってはどうしてか感嘆の一声に聞こえるらしく、彼は手放しに喜んで、「そうかそうか。竹生はそんなにも喜んでくれるのか。いやー嬉しいねえ。これぞ作った甲斐があったってもんよ」と見当違いな思い込みで悦に入っている。しかし、その一方で竹生の額からはたらたらと冷や汗が流れ始めている。いよいよ竹生はこの見た目はとても素晴らしいケーキを食さねばならない状況に追い込まれてしまった。だが竹生にとっては当然、何とかしてこの苦しい立場を逃れたいというのが本心ではある。

「師範。実はあんまり腹が空いていなくて。作ってもらったことに関してはとてもありがたいと思っているのですが、食べるのはまた今度にさせてもらうというのでも宜しいでしょうか?」

「ん? あーそうか。まあ竹生は元々あんまり食べる方ではないしな。それに加えて今は腹も空いていないと」

「そうなんですよ。ですから気持ちだけ受け取っておくというので一つ手を打ってもらいたいです」

「なるほどな。よし分かった。俺が今からこのケーキがいかに腹に優しい一品であるかを説けばいいってことだな?」

「……え?」

「いやだから、俺のケーキは小食な竹生でも難なく食べられるくらいにヘルシーだっていう話だろ?」

「いや、そんな話でしたっけ?」

「そんな話さ。良いか竹生、そもそもの話をすると俺は実はとても優しい人間だ。それも超弩級のそれであるのはもはや疑う余地もないだろう。つまり俺の性分は何だかんだ言って人の嫌がることはしないというので出来ているんだよ。そう、つまりは俺は何もお前に対して無理に食べろとは言っていないんだ。お前があまり物を食わないやつだっていうのも長年の付き合いだ、よく知っているに決まっているじゃないか。そんなお前にたくさん食べろと強要することがお前にとって嫌なことであるのを分かっていないわけないじゃないか。でもな、いや、だからこそとここは言うべきだろうか、俺はそんなお前にこそこの品を食べて欲しいと願っている。小食なお前でもぺろりと平らげてしまえるほどにこのケーキは食べやすい。そして何よりこのケーキは旨い。驚くくらいに旨いんだ! だから竹生、もう一度だけ言う。食べてみてはくれないか、俺のこの自慢の一品をよ」

 水仙は妙に畏まって竹生にケーキを勧めるということをする。自身の作り出したものは間違いなく旨いのだから試しに食ってみろとうやうやしく竹生に促す(しかしそういった行為は普段の水仙からは凄く考えづらいことではあった)。すると、彼のその意表をつくふるまいが功を奏してだろうか、それともその変に神妙な態度に竹生が当てられてしまったからだろうか、竹生は師範がせっかく作ってくれたクリスマスケーキを、頑として拒み続けている自分が、心底情けないといった気持ちにだんだんとなってきていた。竹生は目前で懇願する水仙の気持ちをふと思う。きっと彼は皆の喜ぶ顔が見たくてこのケーキを作ってくれたのだろう。皆で楽しい聖夜を過ごして欲しいと願った上で、真心を込めてこの品を作ってくれたのだろう。それなのに自分は何て薄情でわがままなことを師範に対してしてしまっているのだろうか。時間をかけてこんなにも丁寧に作ってくれた品を粗末にするような真似を、自分はどうしてしてしまっているのだろうか。竹生の胸には次第に水仙に対しての罪悪感というのが芽生え始めていた。そしてそういった感情こそが竹生の秘めたる迷いを一気に払拭するための引き金となったのである。竹生は果たして言った。

「分かりました師範。俺、このケーキ食べます。いや、食べさせて下さい」

「え? 竹生、何言ってるの?」

 すかさず話に割り込んできたのは花梨であった。竹生の発言が心底信じられないといった驚愕の表情を浮かべながらに、彼女はもう一度竹生に「何言ってるの? え? 食べるの? これを?」と問う。そうすると竹生はまるで戦場に赴く前の兵士のような顔をして「うん」とだけ言った。竹生は未だにたらたらと冷や汗を垂らしている。

「やめておいた方が良い。間違ってもこのケーキは食べてはいけない」

 今度は林檎が竹生をとめる。彼女の場合はとてもはっきりとした口調で「食べてはいけない」と釘を刺すのみであり、それ以上のことはあまり話そうとはしなかった。いや、正確に言うのならば話す気がないとする方が合っているのかもしれない。

「そうだよ竹生。やめといた方が良いって」

「竹生。再度忠告する。それを食べては駄目」

 花梨はふるふると顔を左右にふって竹生を促す。そして林檎の方は竹生をじっと見つめながらに彼を制止させようとする。しかし竹生はそんな二人に対してにっこりと微笑む。「大丈夫」という一言だけを彼女達に残して、彼は机の上に置かれているフォークをいざ取ろうと立ち上がった。しかし竹生の足はがくがくと彼の意志に反して震えている。その様はまるで生まれたての子鹿のようだったと言えるのかもしれない。が、竹生はまだそれを取ろうと歩を進めようとする。でも竹生の歩みはどうしてかフォークのあるところには至れない(というか竹生は一歩としてその場を動けてはいなかった)。するとそんな思考と行動とが伴わない竹生を傍から見守っていた水仙は、「やれやれ」となぜか嬉しそうにしながらに言った。そして、水仙は長机に置かれるがままになっているフォークを勢いよく手に取ったのである。

「竹生は素直じゃないなー。分かった分かった。良いからそこに座ってろ。で、ちょっと口開けろ。俺が食べさせてやるからよ」

「え?」

「しょうがないから俺が食わせてやるって言ってんだよ。ほら、さっさと口を開けろってんだ」

「いや、良いですよ師範。大丈夫です、自分で食べられますから」

「良いから気にすんな。男が男に物を食わせるのなんて別に何でもないことだろ? こんなんで恥ずかしがってたら逆に男が廃るってもんよ。さあ、分かったらさっさと食っちまえよほら」

「いや、でも」

「往生際が悪いぞ竹生。つべこべ言わずに食え。な?」

「……分かりました。では、お願いします」

「おうよ。それじゃあ、いくぞ?」

 水仙は竹生の了承を半ば強引に得た上で、一口分のケーキをゆっくりと竹生の口元へと近づけていく。ただし、その行為はどうしてなのかは定かではないがいかがわしい雰囲気に包まれてしまっていた。電灯も付けてはいない暗くなった室内には柔らかな夕日だけが差し込んできている。そんな薄暗い一室で一体自分は何をしているのだろうと竹生は今さらながらに思っていた。しかし、そんな竹生の思いを余所にしてどんどんと接近してくるケーキ。竹生の心臓はばくばくと異常なまでに鼓動してやまない。成されるがままの竹生に対して水仙は「あーん」ととても渋い声で言って、いよいよ竹生の口の中にそれを入れようとする。食べさせられる方である竹生は「儘よ」と思って、後は目を瞑って静かに祈るのみだった。そんな時である。花梨と林檎は全く同じタイミングで水仙の腕を噛むように掴んだ(花梨は左手で前腕を、林檎は右手で上腕を)。そして二人はその掴んでいる手を彼の口元へと無理矢理持っていき、竹生に食べさせようとしていたケーキ一口分、いや、掴んだ拍子にぽろりと多くはこぼれてしまっていたのだから残っているのはほんの少しだけなのだったが、それを彼の口の中にえいやと放り込むことをした。

「いや、駄目って言ってるでしょ」

「二人とも何をしている? 何度も同じことを言わせないで」

 花梨も林檎もこれ以上ないくらいに冷め切っていた。呼吸一つ乱れないままに眉だけをしかめている二人はきっと竹生の方を睨む。彼女らの面構えはまるで金剛力士像のように厳めしいものであると言えた。しかし、竹生はただただ呆気にとられてしまっていて言葉が一つも出てこない。彼は呆然としながらに二人の形相をおずおずと眺めるしか出来ずにいる。そんなような中で突如、「ひゃあ!」という至極間抜けで甲高い雄叫びが上がった。竹生を含めた三人が声のした方へと視線を送ると、そこにはやはりと言ってしまって差し支えないだろう、床でだらしなく伸びている水仙の姿があった。……この瞬間に竹生達のクリスマスは閉幕し、水仙による幾度目かの試みは今年も失敗ということで片が付き、そして水仙の記憶はまたしても彼方へと飛んだのであった。

「ほーら。やっぱりこうなった」

「目に見えた結末。それゆえに悪いのは食べると一度でも言ってしまった竹生なのではと私は思う」

 水仙が卒倒しているというのに全く動じない二人である。しかし竹生はというと「え? 師範、大丈夫だよね?」とおろおろしながらに彼女達に確認するばかりであった。水仙の顔からは血の気が引いており、まるでそれは毒でも盛られたかのようなひどい有様ではあったというのに、なおも花梨と林檎は平静を保ったままであって全く動揺してはいず、むしろこれが当然の結果であるという態度を一向に崩そうとしないわけであって、水仙の身を案じる竹生の方がむしろ変であるといったような妙な状況になっているのをまるで省みようとしない彼女達は、なおも竹生に対しての説教めいた文言をつらつらと並べ立てるのみであった。しかしそれはどうやら本気で怒っているわけではないようである。

「大丈夫だって。何か泡とか吹いちゃってるけど大丈夫なんだって。それよりも心配なのは竹生の方なんだよ? これは食べちゃいけないものだって私言ったよね? 何でそれをちゃんと守らなかったの? これを食べてしまったらああなるってことくらいもう分かるはずだよね?なのにどうして食べるなんてことが言えたのかな?」

「先生の作ったそれを食べ物と思ってはいけない。これが私達の間での鉄則になっていたはず。なのに竹生はそれを無下にした。くだらない情に流されるということをして竹生は約束を守らずにこれを食べようとしてしまった。これはもはや罪に値すると言っていい。強く戒めておくべき」

「そうだよ。私達で決めたことじゃん。先生が何を言ってきたって守るべきことだったんじゃん。竹生は私達との約束よりも先生とのことを優先するの? ねえ竹生、竹生は私達よりも先生の方が大事なの?」

「最も罪深いと言えるのはその点。私達の言うことよりも先生の言うことに従う。竹生はいつから先生の犬に成り下がった?」

 次々と竹生に対しての鬱憤を吐き出していく二人。しかし彼女達は胸の内のみで、しゅんとなっている竹生のことを愛おしいと感じていたのである。四つも年上の異性がまるで寒さに凍える小動物のようにして縮こまるのを見て楽しむ。二人の嗜虐心は少しばかり旺盛なようであった。一方の竹生はというと、花梨や林檎の心情をてんで読み取れずにいたために、本気でしょんぼりとしてしまっている。叱責されていると勘違いしているというのの他にも竹生の中には、自分がケーキを食べなかったせいで結局は水仙が苦渋を飲む羽目になってしまったという申し訳なさが生じていたのもあって、彼はやはり意気消沈し、二人の冗談交じりの文言に対して、「はい。はい」と小声で返事をするに留まるのである。それがなおのこと彼女達のいたずら心を刺激するといったようなからくりであるのは疑いようもないことで、竹生が落ち込めば落ち込むほどに二人は嬉々としてくるといった不可思議な状況に陥っているのであった。ちなみに一言断っておくとすると、花梨や林檎が再三に渡って言っている先生のケーキを食べてはならないという約束は、最初から存在すらしていない(食べてはならないものであるというのは三人とも十分に知り得ていたのだが)。つまり、竹生は彼女達がその場ででっち上げてついている嘘を丸々鵜呑みにし、勝手に困っているという次第なのである。

「ごめん。二人の言うことに耳を貸そうとしなくて。やっぱりそれはその、危険だった」

「でしょ? やっぱり竹生はどうしようもなくお馬鹿さんだね。素直に私達の言うことを聞かないからそうやって肝を冷やすことになるんだよ? 気分はどう? きっと最悪だよね? それもこれも皆竹生が人の話を聞けない悪い子だからそうなっているんだよ? そう、竹生は悪い子。物の分別を付けられない悪い子なのよ。そんな竹生には何かお仕置きが必要みたい。んー、何にしよっかなー?」

「打ち首獄門」

 林檎は世にも恐ろしい文言をぽつりと呟き、後はいやらしく含み笑いをするのみであった。花梨はそれに対して「あはは!」と短く笑って返す。そして二人のやりとりを聞いていた竹生はアクションを起こすでもなくただ俯いてだんまりを決め込むだけだ。

「それにしようか! 竹生、打ち首獄門っていうのはねー、よーするに首を切ってそれを人前に晒すことなんだってー。私林檎に聞くまでそれを知らなかったからさー、竹生は知ってるかなーって思って聞いてみたんだけどどう? というか首を切るって本当に痛そうだよねー。いや、でも、もしかするとそれは一瞬の出来事だから痛みとかむしろ感じないのかなあ。それとも痛い以外の感想が浮かんできたりなんかしちゃうのかも。例えば熱いとかさ? どうなんだろー、ねえ、竹生はどんな風だと思うー?」

「……」

「……無駄話はやめにしようか。それじゃあ竹生、覚悟は良い?」

「……はい」

「……じゃあいくよ?」

 花梨はそう言った後で腕をがっと上げる。しかし、当然のことではあるが彼女は竹生の首をはねるような真似はしなかった。では何を行ったというのか。その疑問にはつまり、彼の頭の上にぽんと左手を置いたと答えるのが合っている。……花梨はゆっくりと話し出した。

「ひどいこと言ってごめんね?」

「……ううん。良いよ。だってちゃんと気付けたし。花梨が人の首を切ったりなんかするわけがないって、俺ちゃんと気付けたし」

「ふふ。いや、それ当たり前のことだから」

「え? そうなの?」

「うん。そうだよ?」

 花梨は竹生に優しく笑いかける。彼女の顔はやはり相当に美しかった。一方の竹生はきょとんとした間抜け面とも呼べる面持ちを携えており、それがなおのこと花梨の笑いを誘う要因となっている。呆ける竹生を見て朗らかに笑う花梨。そんな花梨を見ているうちに自然と笑みが浮かんできていた竹生。そんな中で花梨は竹生との会話を続ける。

「もう一度謝らせて。竹生、きついこと言っちゃって本当にごめんなさい」

「うん。良いよ。だってちゃんと分かってるから」

「ん? 何を分かってるの?」

「花梨が本当に優しい女の子だってこと」

「……」

「俺はそれだけは分かっているから。花梨が本気で人を傷つけるようなことを言うはずがないって俺、それだけはちゃんと知ってるつもりだからね?」

「……ふふ。それだけしか私のことを理解していないなんて、竹生はやっぱり馬鹿だよね。本当にもう、どうしようもないくらいの馬鹿。……でも」

「……でも?」

「でも、竹生は本当に素直で可愛い人。私だってちゃんと分かってるんだから」

「……はは。花梨にはやっぱり、敵わないなあ」

 竹生は目を細めて静かに笑う。すると花梨はそんな竹生の表情を見てしまったがためにぱっと視線を外さざるを得なくなる。しかし、彼女は俯きがちにではあったのだが竹生の頭を添えていた手で優しく撫でるというのをした。花梨の心臓は彼に触れているという事実があるだけでどきどきと高鳴る。

「花梨?」

「今朝のお返し。何? 悪い?」

「いや、悪くはないけど」

「私が今、無性に頭を撫でたい気分だから撫でてるだけよ」

「そ、そうなんだ」

「そうなの」

「ちょっと恥ずかしいね、頭を撫でられるのって」

「私の方が恥ずかしいわよ」

「恥ずかしいのなら無理しなくても良いんだよ? 俺も、今度からむやみに人の頭を撫でるのとか、やめようかな」

「やめないで! やめたら私が許さないから!」

 花梨はがばりと頭を上げて竹生を直視する。彼女の大きな瞳は力強くそのことを訴えてきていた。だから竹生は「う、うん。分かった」と小さな声で返事をする。そして後は唇をぎゅっと結んで、じっと強引に覗き込んでくる花梨の目をただただ見つめ返すばかりであった。

「竹生の書いた書。見せて」

 唐突に話に割り込んできたのは林檎である。彼女は机の上に置かれてあった二枚の書を自分の方へとそっと持ってきて早速鑑賞し始めた。その二枚の書というのはもちろん、竹生が今日認めた「山田花梨」と書かれた書と、「戸橋林檎」と書かれた書を指している。

「あ。林檎ちょっと。まだあんまり出来が良くないから、出来れば見て欲しくはないというか、そんな感じなんだけど」

「つべこべ言わない。というかもう見てしまっているのだからその申し出はすでに手遅れ」

「……はは。そりゃそうか。なら、どうぞ宜しくお願いします」

「静かにして。今見てる最中だから」

 ちょっとした応答ではあったが林檎は竹生に対して厳しめの態度を示していた。どうやら花梨と竹生が二人してべたべたしているのが感に障ったらしい。林檎は竹生が書いたその二枚に顔を近づけ、それらを隅から隅までじっくりと眺めるということをする。するとむきになっている林檎にちょっかいを出し始めるのが一人。花梨はへらへらとしながらに林檎に話を持ちかけた。

「あれー? 林檎さんってば大分お怒りのようで。そんなにかっかしてると竹生に嫌われちゃうよー?」

「……」

「反応なしですかそうですか。まあいいや。それよりも私も見ようっと。ねえ林檎、私にも見せてよね」

「……」

「またしてもですかそうですか。まあいいや。竹生、私にも見せてね?」

 竹生ははにかみながら「う、うん」と言って了承した意を花梨に伝える。花梨は「ありがと!どれどれ……」と言って林檎が持っている二枚をひょいと覗き込んだ。刹那、花梨の目にはとんでもない良書が飛び込んできたのである。

 それらはとにかく素晴らしい書だった。彼女にとってはその書が非の打ち所のないひたすらに完璧で秀逸な書に見えていたのだ。花梨は驚愕する。これほどの書を竹生は認めることが出来るのかと大いに驚いてやまなかった。そして林檎もまた花梨と同じような反応を示している。上手い。ただそれだけを思って後は絶句するしかしない。いや、正確に言い表すとするのならば絶句するしか出来ないということなのだろう。竹生の書にはそれらを見た者に感想すら抱かせないといったような、言わば圧力にも似たものが生じていると言ってしまって良いのかもしれなかった。そう、竹生の書にはどこにも指摘するべき箇所がない。どこをどう見てもそれらはどうしようもないほどに完成されていて文句の付けようがまるでないのだった。

「すっごーい! 竹生、竹生はやっぱり天才だよ!」

「そ、そうかな?」

「そうだよ! 何というかうん、竹生はそう、天才以外の何者でもない」

「はは。言い淀んでるじゃない」

「違うんだって。あまりにも竹生が凄すぎて逆に言葉が出てこなくなってるんだって。ねえ林檎、竹生の字、すっごく上手いよね?」

 花梨はとても嬉しそうにして林檎に話をふる。純粋で無垢な笑顔を向けられた林檎の方もまた花梨と同様、いや、それ以上に喜んでいた。しかし林檎の場合は花梨のように分かりやすく表情として喜びが表れるというわけではないようで、彼女の見てくれだけを見たのならばいつもと何ら変わった感じはない。しかし林檎は確実に心躍らせていた。これ以上ないくらいの物凄い書を目にすることが出来た。そしてそれを書いたのは竹生であるという現実を強く噛み締めることが出来た。だからこそ彼女は胸中で喜びをあふれさせずにはいられない。すると花梨は、そんな彼女の胸の内を察して相乗的に嬉しさを募らせていったらしく、二人は顔を見合わせながらに、竹生についてをまるで自分のことのようにして嬉しがっていた。

「とても上手い。上手すぎてむしろ何も言うことがない」

「だよね? 何というかその、びっくりするよね? こんなに上手く字って書けるんだあって感心するというか何というかさ。とにかく上手く言葉に出来ないんだけど、それがまた心地良いっていうか、簡単に言い表せないことがむしろ合っているというか」

「花梨はとても適切な表現をしている。言語化出来ない上手さ。それこそが竹生の書だということに他ならない」

「まさにそれ! 何だよ、林檎もたまには良いこと言うじゃん。ちょっと見直したかも」

「この分だと竹生の夢はすぐに叶うと思う」

 林檎はにこりと竹生にあどけない笑みを向ける。それにつられて花梨もまた声を大にして林檎に同調した。花梨と林檎にとっての最も喜ぶべき事案は竹生の夢の実現。その竹生の夢というのはつまりは書家になること、ようするに書道のプロになることなのである。

「絶対に叶うよ! だってこんなに竹生の書は上手なんだもん。誰よりも圧倒的に上手なんだもん! それにさ、何てったって私達が応援してるんだよ? 竹生のこと誰よりも何よりも理解していると言っていい私達が叶うって言ってるんだよ? 叶わないわけがない。竹生は書家になれる。超凄くて超偉大な書道家になれるんだよ!」

「竹生。自信を持って。竹生の書には誰からでも上手だと評価されるだけの力が確実に存在している。竹生はもっと胸を張った方がいい。もっと自分の書を信じた方が良いと私は思う。……夢を実現させた竹生はきっともっとかっこいい。そんな姿を私は竹生の側で見ていたいと願っている。頑張って。竹生なら必ず成し遂げられる」

 花梨と林檎はそれぞれが抱えていた思いをそれぞれの言葉でもって竹生に吐露する。そんな彼女達の告白を聞いた竹生は何だか照れくさい気持ちになっていた。面と向かってそんなことを言われるのがとても恥ずかしかったからだろう、竹生はもじもじとしながら「はは」とそっけない笑いを返すだけである。しかし彼女達はそんな竹生の煮え切らない態度を受けても優しく笑い返してくれた。花梨も林檎も竹生のことを信じて疑わない。まるで真珠のように輝く目を二人して彼に向けるのだ。そうすると花梨は林檎が手にしている書のうちの「山田花梨」と書かれている方を手に取って言う。

「竹生。これもらっても良いよね?」

「え? あ、うん。良いよ。でも良いの? こんな中途半端な書で」

「まーた竹生はそんなこと言う。良いに決まってるじゃん。だって竹生が書いてくれた私だけの書だよ? むしろもらわない理由の方が思い浮かばんわ! 林檎にも言われたよね? 竹生はもっと自分に自信を持つべきだって」

「……そっか。うん。じゃあ、どうぞもらってやって下さい」

「うん! ……大切にするね?」

「うん。ありがとう」

「へへ。どういたしまして!」

 花梨はもらった書を温かな眼差しで再度見つめる。そんな彼女は何とも可憐であると言うことが出来るのだろう。あるいはストレートに愛らしいと表現してしまうのもきっと良いのかもしれない。花梨はくしゃくしゃになってしまわぬように、万が一にも破いてしまわぬようにと、見ていた竹生の字の書かれた半紙一枚を、両手で自身の持ち物の中に慎重に加える。するとそのタイミングで、今度は林檎の方がもぞもぞと話をし出した。

「私の書いた書を竹生にもらって欲しい。竹生みたいには書けなかったけど、それでも私は竹生にもらって欲しい。どう?」

 林檎は塩らしい態度でもって竹生に提案する。彼女は俯きがちだった。林檎のその様はまるでバレンタインデーにチョコを渡す時のようだったと言えるのかもしれない。大いに恥ずかしがる彼女の綺麗な顔はまだ差す夕日に照らされてもいた。すると竹生は急に妙にどきどきとしてしまう。林檎の恥じらう姿がその時竹生にはとても愛おしく感じられていた。林檎はもう一度「駄目?」と小さな声で言って、首を傾げながらに竹生を見上げる。彼女のさらさらの髪はその拍子に微かに靡いた。林檎はそうやって竹生のまっさらな心根を切実にくすぐる。そして竹生は彼女の裏にある策略にまんまとはまってしまう。彼はだんだんと頭がくらくらしてきていた。返答を求められてはいる竹生はまだ何も言わない。しかしかといって林檎がとやかく言ってくるといったようなこともなく、彼女はじっと竹生の返事を待つばかりであった。

「私の書いたのももらって欲しいんですけど? 駄目でしょうかね? 竹生さん」

 竹生と林檎の間に割って入ってきた花梨の声には怒気が多分に含まれていた。分かりやすくいらいらとしている彼女には、唐突に発生した二人の上品な雰囲気をぶち壊しにしてやろうという明確な意志があった。すると、花梨はずいと自身の認めた「竜胆竹生」という書を竹生に向けて突き出す。ぷんすかと怒る彼女は「はい」とだけ言って、竹生とは顔も合わせようとしない。

「い、良いよもちろん。というかどうかもらわせて下さい」

「あっそう。じゃあはいどうぞ」

「あ、ありがとう」

 強引に押し付けるような形になってしまった花梨の書の譲渡は彼女にとって不服であったらしく、花梨は「ち」と舌を鳴らして、後はぷいとそっぽを向いてしまった。そうすると今度は林檎の方が「花梨の書いたものは素直にもらうのに」とだけ呟いて、その後は仏頂面で自身の書いた「竜胆竹生」を竹生に言葉なく渡した。で、彼女は無言を貫いたまま、「戸橋林檎」と書かれた書を自らの荷物の中にしまい込んだのであった。するとそんな二人を見た竹生は、何とも歯切れの悪い乾いた笑いを口にしながらに言う。「あ。でもどうやって持ち帰ろうかな。俺今日手ぶらで来ちゃったし。このまま持っていくと破いてしまいそうなんだけど」

 それを聞いた花梨と林檎は呆れるしかない。しかし当の竹生には悪気がない。そして的外れな提案をしているという自覚もない。よって彼女達は同じ言葉を声高々に叫ぶしかなかったのであった。「じゃあ返して!」

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