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花々の書  作者: 紙屑
6/15

竜胆、其の六

 竹生達が書道を開始したのは九時半ば頃だったけれど、時計の針は今やもう午後四時をぐるりと回っていた。冬にしては穏やかで暖かい日の光が降り注いでいた室内はもうすでに薄暗く、ストーブによる人工的でどこかしつこい暖気だけがその空間を埋め尽くしている感じではあった。定期的に換気をして部屋の空気の入れ換えを行うべきではあるのだろうが、如何せん竹生達はそういった雑事に気を取られている場合ではないというか、そういったことにまで気が回らないくらいに書道にのめり込んでいたために、そこはまるで夏のように暑苦しいところと化していた。そう、つまり彼らは昼食も休憩も取らずにぶっ続けで、しかも各々が一心不乱に集中しきった状態を約七時間ほども維持していたということになる。そしてそれは何もリラックスした体勢で行われているわけではなく、竹生達はもちろん書道をする上での基本姿勢であろう正座を長時間し続けたわけでもあって、もはや彼らは書道に勤しんでいるというよりも何かしらの修行を行っていると言うべきなのかもしれなかった。しかし当の本人達は何もそのようには思っていないし感じてもいない。ただただ楽しんでいたら時間が特急列車のように過ぎていってしまったくらいにしか考えていないのであった。

「ふー! 書いた書いたー!」

 今の今まで静まり返っていた室内に響き渡ったのは花梨の声であった。その声色は長時間正座し、休む暇も作らずに気を張り続けた人のものでは明らかになく、むしろ彼女は疲れるでも物足りなくなるでもないちょうど良い距離を、これまたちょうど良いスピードで走り切ったマラソンランナーのような朗らかさでもって続ける。「今日は滅茶苦茶調子良かったー! あー! 超気持ち良いー!」

 ぐいっと両手を組んで伸びをする花梨。目をぎゅっと瞑って「んー」と声をこぼす彼女は軽く汗ばんでいたが、それが暖房のせいなのかそれとも過度な緊張が継続したから生じたものなのかといった問題はもはやどうでもよく、重要なのは花梨がまるで一っ風呂浴びた後のような心地よさを感じていた点であった。すると彼女は恍惚の表情をして、自らが書き溜めた「竜胆竹生」と書かれた書の数々をうっとりと眺める。

「良いわあ。どれもこれも会心の出来! もしかして、いや、やっぱり私ってもしかしなくても天才なのかもしれない。……まあ『竜胆竹生』としか書いてないけど」

 花梨は「竜胆竹生」とだけ書かれているそれらを、まるで生まれてきたばかりの我が子を慈しむ母親のような目で見つめる。とても嬉しかったのだろう、「ふふ」と上品に含み笑う彼女は酒でもひっかけたかのようだった。するとそんな花梨の書を覗きにくる少女が一人。彼女の隣(竹生と花梨の間ではない方)に座る林檎はそれらを食い入るように凝視しながらに唇をきつく噛み締める。

「……」

「あら? 誰かと思えば林檎さんじゃないですか。ふふ。どうしたんです? いつもの林檎さんらしくありませんわね。悪口の一つでも言われるかと身構えておりましたのに何です? 黙りこくってばかりではないですか?」

「……」

 花梨は石像のように固まって書を見つめ続ける林檎に対して嫌に丁寧な口調で話をふってくる。しかし林檎はなおも口をきつく閉ざしたままに花梨の書を隅々までチェックするのを繰り返すばかりだ。

「ふふふふふ。無視ですかそうですか。どうやらあの天下の林檎様は私の書に文句を付けよう文句を付けようと躍起になっていらっしゃるようで。まああれですよ。言っても私が認めた書ですからどこかに不備が生じてくるのもまた当然のことです。どうぞ林檎様の気がお済みになるまで罵って下さいまし」

 花梨の慇懃無礼さはさらにひどくなる一方である。にたにたとドラマか何かの悪役のようにほくそ笑み、それに加えてへらへらと浮かれてもいる彼女は、へこへこと頭を下げながら林檎が自らの書に対して何も言えないでいるのに追い打ちをかける。しかしそれほどの挑発を受けながらも、未だに林檎はじっくりと花梨の書を吟味するだけで言葉を発しようとはしない。そんな林檎のぐうの音も出ないといったような態度が、花梨の肥大した自尊心により拍車をかける。すると林檎はきっと花梨の方を睨んだ。調子付いた花梨は一旦彼女によって釘を刺される。それには強打者との真っ向勝負の最中に、一塁でちょこまかとリードと帰還とを繰り返すランナーに対して送られる、牽制行為のような鋭さが秘められていた。しかし、花梨の方はやっと林檎が自らのからかいに反応してくれたと、むしろ上機嫌である。林檎はもしかすると火に油を注いでしまったのかもしれなかった。

「おー怖い怖い。林檎さん、今とても恐ろしい顔をしていらっしゃいましたよ。どうしたのですか? 私、何か悪いことでもしましたでしょうか? 申し訳ないのですが私には思い当たる節がございません。むしろ私は先ほどからどうか罵倒して下さいといった低姿勢を貫いている次第であります。さあ! どうか、どうか私めの書に盛大なる悪態をば!」

 手の付けようがないくらいに粋がっている花梨は、両手を林檎の方に広げてもう一度「さあ!」と大きな声で言った。とても楽しそうである。しかし楽しそうなのは花梨の方だけであり、林檎はやはり渋柿を食べた時のような表情で、「竜胆竹生」の文字を目でなぞるしかしなかった。とても悔しそうである。悔しそうではあるが、林檎はやはり花梨の書を酷評出来ずにいた。彼女は血眼になって粗を探してはいる。しかしそんなものはどうやっても見つけられそうにない。むしろ書に紛れているかもしれない粗のことなどどうでもよくなってしまうほどに、花梨の書は素敵過ぎたのだ。それは花梨がもっとあからさまに林檎にちょっかいを出していたのだとしても、林檎の機嫌がもっと悪くなっていたのだとしても変わらないことであって揺るぎようがない。そうすると、今まで歯をきりきりと言わせて、花梨の書を穴が空くくらいに見やっていた林檎は、はあとため息を一つ付き、弱々しくにこりと笑いながらに言った。

「とても良い。文句の付けようがない」

「……え?」

 花梨は満を持してとられた林檎の塩らしい態度にはっとなる。てっきりいつものように、返す刀できつい一言を贈り付けられるのではと、心の内では少々身構えていたからだ。花梨は小さな野花のように笑う林檎をまじまじと見返してみる。その様子は小学生がルーペを使って道端の蟻らを観察するみたいであり、今度は花梨の方が先ほどまでの林檎のような顔、つまりは目を凝らしてじっくりと対象を見つめているといった状態にはからずもなる。すると訪れるしばらくの沈黙。花梨と林檎は互いが互いを見つめ合う形に自然となっていた。

「聞こえなかった? 私は花梨の書をとても良いと褒めただけ。何も花梨が驚くようなことは言っていないつもり。違う?」

 林檎はまるで天使のような笑みを花梨に向ける。その顔があまりにも美しすぎて花梨は一瞬どきりとなった。瞬間花梨は林檎から目を逸らす。それは内心の動揺を林檎に悟られないための行動か、それともただただ気まずくなって目を背けただけなのか。いずれにせよ今の花梨は何だかとても恥ずかしい気持ちで一杯であった。

「いや、違わないけど。え、何、林檎は熱でもあるの?」

「熱? そんなものはない。私は正気で至って普通」

 花梨は明後日の方向を向きながらに林檎とのこそばゆい会話を継続する。頬を右手の人差し指で掻きながら聞き返した彼女には、先までのおどけた調子は微塵も残ってはいなかった。二人の間には校舎裏で愛の告白をし終えた時のような何とも言えない空気が流れている。一方はピュアなまなざしで相手をまっすぐに見つめ、また一方は大いにどきどきとしているせいでまともに相手と目を合わせられない。すると林檎はふんわりとした言わばらしくない口調で続けた。

「私の完敗。私は今日全く良い字が書けなかった。だからこそ分かる。今日の花梨の書がどれだけ凄い出来なのかが。天と地ほどの差が存在すると言っても過言ではないくらいに私達の書には歴然たる実力差が生じていて、もう一度言うけれど、私ははっきりと負けた。それだけのこと」

 そう言って微笑む林檎はむしろ実に誇り高かったと言えるのだろう。素直にライバルを称え、正直に己の書道が劣っていると認めることが出来る彼女は、さながら爽やかなスポーツマンのようであった。しかしそれは何も林檎が花梨に負けたと感じているのを前向きに捉えているという意味ではない。その証拠に、優しく清々しい表情を携えてはいる林檎の小さな二つの手の平は、両方ともに彼女の膝の上できつく結ばれていて一向に緩もうとはしない。まるで石のように固くなった拳はふるふると微かに震えていて、林檎はそれを必死になって収めようとはしている。だがその震えは林檎の希望や意志には反して決してとまろうとはしなかった。林檎が抑えようとすればするほどにむしろ力が込められていく両手。とめようとすればするほどに言うことを聞かなくなっていく両腕。するとまるで天女のような顔で花梨に対していた林檎は静かに俯き、それからはまるでコンセントの抜けている電化製品のようにうんともすんとも言わなくなった。……下を向いてしまった彼女が今一体どんな顔を浮かべているのかを花梨は何だか見てはいけないもののように感じた。それに、実際花梨は彼女を見られなかった。しかし、林檎の発言や一連の変化を彼女と目を合わせることはせずともひしひしと感じていた花梨はそれを素早く察する。が、察したは良いが花梨はそんな林檎にどんな言葉をかけて良いのかがすぐには分からずにいた。娘が父親の最も得意としていたテレビゲームでの対戦にはからずも勝ってしまった時のような気まずさが今そこにはある。またしても訪れる静か過ぎる時間。ストーブの熱風を吐き出す音だけが妙にはっきりと鳴っていた。

「しょ、勝負なんて最初からしてないし」

 するとその重苦しい雰囲気に耐え切れなくなったからか、花梨は早口でうなだれる林檎に対して言葉を投げた。慌てて口にしたからだろう、花梨は少しだけ言葉の最初を変に詰まらせてしまっていて、そんな自分が恥ずかしくなってしまったがために彼女はすぐに咳払いをする。花梨にとっては林檎を励まそうとして言ったことだったのだが、何だかむしろつっけんどんで彼女をはね付けてしまうような発言になってしまったのではないかと、言った後になって気にする花梨。そんな彼女の様子を俯きがちにちらと見る林檎。それにすぐに気付いた花梨はしかし、まるで気付いていないかのような調子でさらに続けた。いつの間にかではあるが、花梨は林檎をまっすぐに見つめていた。

「だから! 私は好き勝手書いてただけで別に林檎とどうこうしてるつもりなんてなかったの! 良い? 今日は名前を書くってだけがルールだったはずよ? つまりそれ以外は別にどうだっていいわけ! 勝ったとか負けたとかなんて本当にどうだって良いわけ! 分かる?」

 つんつんとした口調で林檎に対して喧嘩を売るようにして話をする花梨にはしかし、すでに承知のことではあるとは思うが、実に温かな人情というものが確かに備わっていた。目の前で落ち込んでいる好敵手に対して、しかもそれの正体がか弱い少女であるのならばなおさらに、手を差し伸べないというような真似をすることは、やはり彼女にとっては土台無理な話だったのである。いつもふざけていてへらへらと他人をからかうことばかりをしている花梨からはどうしたって、心根の優しい部分、あるいは言ってみるのならば男前な部分を拭い去ることは到底出来ないのであった(しかし、花梨を今男らしく感じるのは対しているのが林檎だからなのだろう。その証拠に好いている竹生と関わる時には、彼女は決まって女という特性を無意識に活用させている。男らしくもあって、しかしやはり女らしくもある。花梨というのは実に掴みどころのない性質を持っているのだった)。まあとにかく、一つだけははっきりとしている。何度でも言おう。花梨は本当に優しい子であった。

「ほんと、ばっかじゃないの? むきになっちゃってさ、あほらしい」

 林檎を罵倒しているかのような台詞にはしかし、邪気というものは一切合切含まれてはいなかった。花梨はむっとしながらも温かな目を林檎に向けている。その様子は道で転んで膝を擦り剥いた妹を気を付けなさいと叱り付けつつも、それが大した怪我ではなかったことに安堵する姉のようであった。すると林檎は恐る恐る顔を上げて花梨の方を見る。その目には一筋の涙がつうと流れていた。

「……『竜胆竹生』っていう文字を本気になって書けた。もうそれだけで良いじゃん。それだけでもう十分じゃん? だからさ、元気出しなよ。いつもみたいにさ、嫌みの一つでも言ってきてよ。そうじゃないと調子出ない。そんなことされてもこっちが困るだけなんだからさ。……ね?」

 花梨は言って、林檎の頬を伝う涙をそっと拭った。しかし拭った側から、それは林檎の目から堰を切ったようにしてあふれ出る。が、林檎はわんわんと泣き叫んでいるというわけではない。林檎の表情は微動だにせず、彼女はただ静かにまばたきをするのみである。ただただ涙だけが流れていく。そんな林檎をこれまた静かに見守るだけの花梨であった。

 花梨はふと林檎が今日認めた数枚の書に目をやった。すると花梨はなぜかぞっとしたのである。そのあまりの美しさに、そしてそのあまりの荒々しさに彼女は一瞬で心を奪われたのであった。確かに林檎が自分で言っていたように、今日の林檎の書は明らかにいつものそれとは違っていた。いつものような精密機械さながらの整え過ぎなくらいに整えられた字画とはほど遠いというのにも頷ける。が、その数枚には花梨が思わず恐ろしいと感じてしまうほどの竹生に対する何かが込められていたのである。剥き出しで、それでいて膨大で制御の効かない竹生への得体の知れない何かが、その書の中には色濃く刻み込まれていたのである。しかし花梨がそれらの書をぱっと見る限りでは、込められているものの正体が一体何なのかがはっきりとはせず、ただただ彼女は林檎の書いたそれらに対して戦慄するばかりであり、加えて花梨にとっては林檎の書を見てそんな感情になるというのは初めてのことで、彼女はしばらくの間絶句する以外のことを何一つ出来ずにいたのである。花梨の知っている林檎の書道とはとても美しくあり、それはまさしく優雅な仕上がりと形容するにふさわしいものであったはずだった。事実目の前に置かれているそれらは実にレベルの高い書であり、いつもとは明らかに異質な書であると述べてはいるが、もちろん林檎の認めたそれらが下手であるはずは毛頭ない。下手であるはずがないのは確かではあるのだが、しかしなぜだろうか、花梨がそれら数枚の書をやっとのことで言い表せるようになった時に真っ先に頭に浮かんできた言葉が、いつも彼女が抱く印象とは真逆のもの、それすなわち醜いという非常極まりない言葉であった。林檎が書いたものなのに、なぜかそれらはどうしようもなく醜い。それはもう拭いようのないことで、それに関しての嘘や偽りは全くもって介在してはいない。ひたすらにそれは醜い。醜い以外の言葉が見当たらない。花梨の頭の中にはそういった信じがたい言葉というのが、何度もしつこく呪詛のようにして、本人の意志とは全く関係なく唱え続けられていた。花梨はそれらを必死でとめようとはしている。しかし彼女がそう望めば望むほどにむしろそれらは頭から離れてはくれなくなる。すると今度は花梨の方が先の林檎のようにして俯いてしまって何も言わなくなった。林檎の目元に優しく添えられていた彼女の右手は力なくぱたりと落ちる。

「花梨。ありがとう」

 そんな花梨に対して声をかける林檎。胸につっかえていたものが取れたからか、それともただ単純に泣いてすっきりしたためか、花梨に相対する彼女の顔は心なしか晴れ晴れとしているようだった。だがほっぺには涙の流れた跡がうっすらと残ってはいる。

「少し元気になれた。全部花梨のおかげ」

 林檎はぽつりとそれだけを言った。まだ潤んでいる彼女の瞳はきらきらととても美しく光っている。その目には汚れというものが一切含まれてはいず、その代わりに映り込んでいたのはそう、明日からもまた頑張ろうという眩しい希望であり意志であった。すると林檎は下を向く花梨に対して「花梨」と声をかけ、そしてふんわりと彼女のしなだれたままの右手を両手で包み込むようにして握った。花梨の手にはじんわりとした林檎の手の温もりが伝わる。それが本当に優しかったから、花梨は辛うじて我に返ることが出来た。

「気安く触らないでくれる?」

 突発的に唇を尖らせてぴりぴりと言い放った花梨ではあったのだが、その投げ付けた言葉とは裏腹に、彼女の右手は林檎の小さくて柔らかな手の平をひしと掴んで離そうとしない。ぐっと、まるで握力計でも握るかのようにして林檎の手を強く握り締める花梨。歪む彼女の顔はいかにも苦しんでいるといった有様ではあった。しかしその顔を林檎はあえて伺わずにいる。しかし花梨の苦しむ面構えを見なくとも、花梨が何かに苦しんでいることを林檎は容易に想像出来た。林檎の手の平には鈍い痛みが徐々に広がっていく。が、それほどの強さで手を握り付けられている林檎は、表情一つ崩さずに黙って花梨に向き合い、彼女の次の発言をじっくりと待つしかしなかった。だが花梨は何も言わない。ひたすらに未だ自身の頭に次々と浮かんできてやまない、林檎の書が醜いという認識を改めようともがくばかりである。ゆえに二人の間には少しばかりの沈黙が訪れていた。そんな中花梨は唐突に口を開いたのである。

「『ありがとう』って何? ふざけるのも大概にして。私は何にもしてないもん。本当に何にもしてないんだもん。……林檎凄いじゃん。凄い字書けてるじゃん。何だ、やっぱり私よりも林檎は書けるんじゃん。こんなのはっきり言ってぼろ負けじゃん? 私なんかよりもずっと林檎は竹生のこと分かってる。それはその字を見れば誰にでも分かることで、そしてそれはどういうことかっていうと、結局は林檎の方が私よりも勝ってるってこと。あーあ。こんなのありっすか? どうやっても勝てっこないよ、ほんとに」

 花梨は何やら飲んだくれが愚痴をこぼす時のようにして話を進めている。「負けたわー」と一人で言ってがっくりと肩を落とし、「あーあ」とうなだれ、遂には机にぺたりと突っ伏す体勢になった。そんな花梨の様子を見て目を丸くするのは林檎である。彼女は目の前でへたり込んでいる花梨に対して、「花梨がなぜ落ち込んでいるのかがまるで分からない。一体どうして?」と言った。すると、そんな林檎の悪気の全く含まれてはいない率直な質問に対して、花梨はぶうぶうと答える。「『一体どうして?』じゃないわよ。ここまで相手をこけにしておいて自覚なし? 何それ滅茶苦茶むかつくんですけど」

「分からないものは分からない。教えてもらうことしか今の私には出来そうもない。……お願い出来る?」

「やだよーだ。何で私の恥ずかしい部分をよりにもよって林檎に教えなくちゃならんのですか?それこそ『一体どうして』だよ。あーもうやんなっちゃう」

「……」

 林檎は荒ぶる花梨にただただ戸惑うばかりである。しかし彼女には同時に、項垂れながらにしきりに文句を言う花梨が、先ほどよりも明らかに元気を取り戻しているようにも思えていた。張り詰めていると言っても過言ではなかった部屋の空気も、今となっては随分と弛緩していてもはやだらしない。しかし林檎にとっても花梨にとっても、その空気の和みはとても心救われるものであったのは確かで、やっとのことで二人はいつもの調子を取り戻しつつあったと言えるのだろう。気付けば林檎は低い声で、花梨に一つの疑問を投げかけていた。

「勝負をしていないって花梨は言った。なのに花梨は自分が負けたと言っている。この矛盾は何?」

「だから勝負はしてないじゃん? 私言ったよね? 今日は竹生の名前を書くことそのものに意義があるって。それを書けるだけでもう十分なんだって。でも私は負けたの! それでも私は負けたって言ってるのー!」

「さっぱり分からない。花梨の言っていることは支離滅裂としていてもはや理解不能」

「林檎ってそんなに頭悪かった? そこは察するのがベストでしょーが!」

「自分の語彙が足りないことを他人のせいにする方がよっぽどあほ」

 きつく啖呵を切る花梨とは違って、林檎は淡々とした口調で返答するを繰り返すだけである。その様子は突進してくる闘牛とそれをするりとかわす闘牛士のようであると言えるのかもしれない。花梨はむきになって大雑把に訴えることしか出来ず、一方で林檎はその大雑把な話というのを何となくで察することが出来ずにいる。しかし、二人は二人ともにこの何とも不器用な会話を何とかして繋げようと努力する。互いに喧嘩腰ではあるのだが、いや、喧嘩腰であるからこそ良かったのだと言えるのかもしれない。先のような重苦しい雰囲気でしんみりとするよりもやはり、こうやって好き勝手言いながらぶつかり合う方が、二人にとってはよっぽど気が晴れるのだろう。胸につっかえていたもやもやがどんどんと薄れていくのを、両者は共にはっきりと感じていた。

「きー! 何よ何よ! 偉そうにしちゃってさ! ますますむかっとくるわね、この女と喋ってると」

「それはこっちの台詞。意味不明なことを宣う輩に付き合っている方がよっぽど疲れるし神経を使うもの。当の本人にははかり知れないことなのかもしれないけど」

「何よそれ。それじゃあまるで私が頭の悪いやつだって言っているみたいじゃない」

「そう言っているつもりだけど? それにも気付けないとなると、いよいよ本格的に、花梨は馬鹿であると言わざるを得なくなってくる」

「私は馬鹿じゃないから。それを分かっていない林檎の方こそが馬鹿だから!」

「冷静に客観的に考えてみた上で言うけど、私は年のわりにはわりと頭の良い方だと自負している。ゆえに花梨から馬鹿だと言われる筋合いはないし、実際に言われると結構腹が立つ。今すぐ撤回して」

「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんですかー? 何も悪いことを言ってないのに何で発言を撤回する必要があるんですかー? そこんところをもっと詳しく教えて欲しいわね。まあ林檎さんには答えられるわけないかー。お馬鹿な林檎さんには絶対にね」

「私は馬鹿じゃない」

「何? 今なんて言いました? 声が小さすぎて聞こえなかったなー」

「私は馬鹿じゃない」

「なんて言いました? よく聞こえなかったのでもう一度お願い出来ます?」

「花梨の大馬鹿野郎」

「お?」

「唐変木。悪代官」

「え?」

「何?」

「いやいや、結構棘のあること言い出したなーって思って」

「林檎が何を言っているのかが全く聞き取れなかった」

「……畜生」

 揚げ足の取り合いであるとも呼べそうな、互いに罵り合っているだけの不毛極まりない会話にはしかし、スキンシップのような効果が実は内包されているのかもしれなかった。花梨の発言を林檎が否定し、林檎の発言を花梨が否定する。このサイクルを循環させることによって続いていく、一見すると意味のないように見えるやりとりの節々では、実に繊細な感情の探り合いが同時進行で行われてもいた。林檎に対して食ってかかっているように見える花梨の頭には、林檎が先にさらけ出した弱々しくて悲しい笑顔が今も鮮明に残ったままである。そして花梨に対して素気ない態度を取っているように見える林檎の脳裏には、花梨が少しの間だけ見せたいつもとは異なる神妙な一面が、未だにしつこくこびり付いて離れようとはしない。花梨も林檎も外面ではいつも通りにふるまってはいるが、二人の内にある心情の方は、まるで何かにびくつく兎のようにして、ふるふると震えてばかりいるのだった。二人して互いを罵倒し合うのは何も相手が憎いからではなく、むしろ相手が心配だからだとする方がしっくりとくるのかもしれない。汚い言葉をぶつけることで相手が一体どんな反応を示すのかを注意深く伺う。挑発して応戦する気があるかのような素振りをしてみせてはいるが、その裏では相手のことをこれ以上ないほどに気遣い慈しんでもいる。そんなような微妙な心境を胸中に秘めながらに、彼女達はまるで触診するみたいにして言葉を交わし続けているのだった。するといがみ合ってばかりだった二人の会話に少しばかりの変化が訪れる。きつい目つきで林檎の方を睨んでいた花梨は「まあ」と一言断ってから言った。

「悪かったわよ。からかい過ぎたかもしれない」

 ばつの悪そうな顔をして向かいの林檎にそっけなく謝罪をした花梨は実はほっとしていた。それはつまり林檎にいつもと同じように接することが出来たという安堵である。そう、花梨は林檎と普段通りに話せた。それはつい先ほどまで胸中で渦を巻いていた林檎の書、引いては林檎そのものが醜いといったような感情を完全に自分の中で推し殺すことに陰ながら成功したのを意味していた。突如として生まれた冗談ではない本気の嫌悪、本気の悪態というものによって、花梨は林檎を傷つけずに済んだ。林檎に自分の恐ろしいほどに尖った敵意を悟られずに済んだ。花梨はそれらの点においてそっと胸を撫で下ろす。いくら林檎が花梨にとって気に食わない存在なのだとしても、いくら林檎が花梨にとってそりの合わない相手なのだとしても、それ以上に花梨は林檎のことが好きだった。大好きだったのだ。だからこそ花梨は必死で隠し通した。大好きな林檎に抱いた、抱きたくもなかった強烈な悪意を彼女は懸命に自分の中で整理し、そして心の随分と奥まったところへと強引に閉まい込んだのである。しかしそれは花梨が林檎のことを好いていたからこそ生じた感情であるとも言えるのだった。花梨は林檎が好き。それなのに彼女は林檎が書いた「竜胆竹生」という書を見た時に思わず醜いと感じてしまった。その書はとても素晴らしいもののはずなのに、林檎にしか書けない賞賛すべきものであったはずなのに、花梨はそれを出来ずにただそれを醜いとするので手一杯だった。自分でも扱いに手こずってしまうほどの強大なその感情の正体、それはつまりは何でもない、ただのちっぽけな嫉妬であったということである。

「花梨が素直に謝るなんて珍しい。赤飯でも炊く?」

「林檎が冗談言うなんて珍しいわね。かなりつまらないよ」

 そう言って花梨はきひひと笑った。そんなつまらないと言った傍から笑う花梨を見て林檎もまたくすくすと笑う。二人の間にはもはや和やかすぎるくらいに和やかな時間が流れていた。すると花梨は言う。「今度は負けないから」と実に景気の良い顔でそう言う。そうすると林檎の方もまた「私も負けない」とだけ言った。そして後は二人してこそこそと笑い合うのであった。こうして二人だけの勝負ではない勝負とやらはようやく幕を閉じたのである。

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