竜胆、其の四
竹生は持ってきた水仙の道具一式を机上に展開し出した。使い古されているそれらはしかし手入れが隅々まで行き届いていて、今まで大事に扱われてきたことがよく分かる体を成していた。竹生はまずとても高価な石で作られたであろう趣ある灰色の硯を正面よりやや右の位置にことりと置いた。そして次は下敷きと呼ばれているものを正面に敷く。そして後は文鎮、大筆、小筆といった細長い形状のものを所定の位置、つまり文鎮は下敷きの上方に、大筆と小筆は硯の隣にそっと置くだけだ。竹生は息を一つ吐く。それはつまりこれで道具の展開は概ね完了したというのを意味する行為に他ならない。書道を始めるにあたっての準備というのは、細かなことは他にもあるのかもしれないが、差し当たってはただ必要なものを目の前の決められた場所に展開するだけなので簡単である。世には様々な準備というものが存在するが、書を認めるためのそれは至って簡易な部類に属するのだろう。道具さえ揃っているのならば後はそれを目前に並べるだけで始められるのだから非常にとっかかりやすい(というか、書く何かと書かれる何かさえあれば優に書道は書道に成り得る)。書は誰にでも簡単に始められる。まずはこれに尽きるのであろう。しかしそれは何も書が簡単であるという意味ではないのは言わずもがなである。書は誰にでも始められる。これは確かではあるのだが、誰でも簡単に楽しめるのかと言われれば多分そうではない。書を楽しめるか。書を好きになれるか。書を理解出来るか。そして書の奥深さの一端に触れることが出来るか。当たり前のことではあるがそれらは全て書を行う当人に委ねられている。いくら周りが口を酸っぱくしてそれらを説いたところで、書を行う本人がそれらを受け入れようとしないのならば、やはり結果書というのはつまらないというレッテルを貼られてしまうのだろう。ゆえに書というのは難しい。自分から面白がろうとする気概が他よりも必要だということ。技術的ではないこのような点が書道のとても難しい点ではあるのだろう。書の世界というのは一見すると最初から芸術的で、自由で、さらにはたくさんの人に対して開けている存在であるように見えるのかもしれない。しかし書というものの実際は先に述べたように全てが本人の取り組み方次第で変わってしまうものである。ようするに書の始まりというのは他よりも顕著にやる気なるものを必要とし、それゆえにそれはとても不自由でかつ間口が狭いものなのだ。加えて当人の興味うんぬんでいつでも捨てられてしまう危険を孕んでいる脆い存在でもあるのが書道。書くという行為が元々身近なものである分、それはとてもはっきりとした特徴であるとさえ言える。もしも書というものに仮に人格があったとしたなら、きっと書は暗く寂しがり屋で、もしかするとその身に抱える不安ゆえに少しばかりやさぐれた性格をしているのかもしれない。
しかしだ。だからこそ書というのは面白いと言えるのかもしれない。そんな書なのに、とても難しく、不自由で閉じられているはずの書なのに、書き上げた書の何と自由なことであろう。ある書によって優しい気持ちになる人がいる。一方でその書によって爽やかな気持ちになる人がいる。喜ばしい気持ちにもなれる。楽しい気持ちにもなれる。それらは書いてある文字によるものではない。それらは書いてある書によるものだ。書というのはこんなにも広がりを持ち、そして何よりも自由な存在であるのだ。だから書は面白いと呼べるのだろう。この書道というのに内包されている矛盾が、不自由であり自由でもあるというパラドックスというのが、書というものの根底にある醍醐味に違いない。自身の束縛と自身の解放。サディズムとマゾヒズムの自家発電。何より、自由はこんなにも近くに転がっていた!
竹生は水差しを使って硯の中に水を入れた(水は先ほど水差しに入れてきたものだ)。その水は硯の「海」という部分に貯められるのが常である。次に竹生は小さな木箱の中に収められた固形の墨を取り出す。それを右手で持った段階でほとんどの準備は整ったも同然だ。竹生は持っている墨を硯に入れられた水の中にそっと入れた。そしてその水を硯の「陸」と呼ばれる部位にまで引っ張っていってゆっくりと墨を擦り始めるのだった。
墨を擦るというのでおおよそ想像されるのは頭をまっさらにすることで己の集中力を高めるといった効果なのだろうが、その行為はむしろ、何かについての思考を存分に働かせるためにだって使えるのだろう。竹生は今書に対する期待で頭を一杯にしているのと、書のために余計な雑念をふり払って頭を空っぽするのの両方を行っていた。しかしこの逆説は思考に関してのみに適応されているわけではない。同じような論理で自身の心、つまりは心的な作用についても同様の考え方が出来るのであろう。墨を擦る。ただそれだけの所作の中に頭と心とを無にするか有にするかの相反する事象が内在している。そしてまだまだこれは書道という深みへと至るための始まりに過ぎない。
竹生はゆっくりと墨を擦りながら自身を落ち着けつつも、頭と心とで自然と巻き起こる書くのが楽しみであるといった熱く激しい衝動を抑え切れずにいた。「海」に貯まっている少量の水が黒く染まっていくのに比例して、竹生のボルテージはぐんぐんと高まっていく一方だった。早く書きたい。しかし焦ってはいけない。落ち着きを保て。しかし胸に灯る熱き思いを決して消すな。書道には随所で駆け引きが存在する。
早く済ませるべきというのと、いいや、じっくりと行うべきだというのとで行き来していた竹生は遂に墨を擦り終わる。すると竹生は彼の左隣でまだ墨を丹念に擦り続けている林檎に向かって、「半紙もらっても良い?」と本当に細やかな声で聞いた。林檎はそんな竹生の問いに対してこくりと一つ頷いて了承した意を伝える。竹生は林檎の持ち物の中から半紙を一枚もらって折り目を付け始めた。これは書く時に字のバランスを取りやすくするための言わば目印のようなもので、このようにして折り目を付けることによって格段に書きやすくなると、竹生は以前に水仙から教わっていた。書とは字だけではなく何も書かない部分、つまり余白の部分もよく活用して全体のバランスを考えていくという側面もあり、筆と墨を使って字を書くという言ってみれば単純な行為の中には実にたくさんのことを吟味し模索している事実、つまり実に複雑な一面が確かに存在しているということに他ならない。
竹生は均等な升目が付くように折り目を施した半紙を開いて下敷きの上に敷いた。そして彼は文鎮を使ってその折り目を付けたことによって曲がった半紙を剥くようにして平らにする。しかしこれまで行ってきた折り目を付けるだとか文鎮で皺を正すだとかは、竹生がより充実した練習をするための補助的な一工夫及び癖でしかなく、本番、つまり清書をするとなった時にはそれらはむしろ控えるべきことだったりするのかもしれない。しかし前提として書道に決まりは少なく、いや、ないに等しいと言っても過言ではないのだろう。どこかで先に述べた事柄をテクニックとして有効的に活用し、思う存分書を楽しんでいる輩がもしかするといるのかもしれない。
全ての用意が完了した。瞬間、竹生の胸は大きく一つ鳴る。その時にはもうすでにまるでピアノ線のように張り詰めた緊張感が竹生には降りかかってきていた。またそれと同時に風に揺れる風鈴の音を聞いている時のような穏やかな何かを感じていたりもしていた。書く。竹生は右手に大筆を持ち、それを今し方作った墨液の中にそっと付ける。じんわりと筆の先端に染みていくそれの香りはいつだって仄かだった。竹生はすうと筆の穂先を「陸」の方へと持っていって余分な墨を省いた。そしてさらにその穂先を撫でるようにして整えていく。もはや今の竹生の意識の中にあるのは一本の筆とそれから紙だけになった。書く。竹生が胸の内で再度それを呟いた時、竹生は思わずはっとして筆をまた元の場所に置いた。そしてぽつりと声に出して呟く。「何を書くのか考えてなかった」
うっかりしていたとばかりにしばし呆然とする竹生は、姿勢良く背筋を伸ばして正座していたのを一旦崩す他なかった。すらりとした美しい姿勢は途端にそのなりを潜め、竹生の本来の出で立ちである何とも自信なさげな猫背へと変貌すると、竹生は自身の細腕を組んで一人頭を悩ます。
「うーん」
竹生は頭を捻り今日の書を一体何を書くことによって成すのかをぼんやりと考える。しかし竹生の脳裏にはそれが何一つ浮かんでこなかった。ただただ先の過度な集中によってくたびれた神経があり、竹生の身はまるで鎖で締め付けられているかのようだった。正座をしている時には気が付かなかったが、竹生の足にはじんわりとした痺れが回ってきている。
「ふっふっふー。悩んでいるようだねー竹生君」
竹生の右隣から声をかけてきたのは花梨だった。いつの間にか花梨の方も書くまでにすべき諸々の準備を済ませたようである。花梨の場合は面倒くさい、そして早くて便利という理由で墨を擦るというのを墨汁を使用することで補っているから、竹生よりも随分と早くにそれを終えていたのである。花梨はこの時を待ち望んでいたとばかりに竹生の丸まった背中にぽんと手を置く。花梨には何か考えがあるようで、それを早く竹生に伝えたくてうずうずとしているようだった。
「君に救いを与えよう!」
花梨は唐突に言った。しかし竹生はそれにはあまり反応せずに未だに何を書いて今日という日を過ごそうかと一人思案している。聞く耳を持たないというよりかは聞く耳を持てないと言った方が正しいのかもしれない。一人であれにしようかこれにしようかと思いあぐねている竹生。しかしそれは何も苦しんでいるわけではなく、むしろ彼は心底楽しそうにして頭を悩ませていたのだった。
「ねー、話聞いてるー?」
花梨はふくれっ面で竹生に再度呼びかける。しかし竹生はまだ返答しない。ぶつぶつと一人きりの世界にこもって何を書くかの案を出しては捨てるというのを繰り返している。それに辛抱堪らなくなった花梨。竹生の耳元に自身の口を近づけて「竹生。私を書いて?」とそっと囁いた。するとさすがに今まで無反応だった竹生は「え?」と花梨に対して答え、そして瞬間、自分が何かやましいことを言われたような気がしてきてあたふたとなる。すると花梨はそんな竹生の慌てようを見て意地悪く笑い、「あれー? 私、何かおかしなことでも言ったかなー?」と言った。わざととぼける。分からないというふりをする。花梨というのは存外賢く、また竹生というのは実にからかいがいのある男であった。
「いや、言ってはないけど」
「けど?」
花梨はまたしてもぐいと竹生の耳のところに顔を接近させてぽつりとそれだけを呟く。何も言い返せずに視線をさまよわせる竹生。男子高校生が女子中学生にいとも容易くたしなめられてしまうという絵面が、あまりに簡単に出来上がったのであった。
「竹生照れてる。可愛い」
そう言ってまたにひひと笑む花梨。すると彼女は今度はふんわりとした口調で言う。「私を書いてっていうのはね、私の名前を書いてって意味」
「え?」
「さっき言ったでしょ? 君に救いを与えようってね。何書くか決められないんなら、私の名前書いてよ。私達付き合いは長いけど、意外とそういうのってしたことなかったんじゃない?」
花梨はにこりと優しく微笑む。そして最後に「ね? 良いでしょ?」と実に無垢に念を押すのだった。
「いや」
すると今度は左の林檎がいきなり口を開いた。どうやらやっと墨を擦り終えたらしく、林檎は手に持っているそれを静かに硯の近くに置いた。「それじゃあいや。花梨だけずるい。平等じゃない」
「何よー林檎。私の考え凄く良いでしょー? けちの付けようない気がするんだけどなー?」
「けちしかつけられない。花梨の卑怯者」
「な! 卑怯者とは何よ卑怯者とはー!」
「でなければジャブ女とでも呼んでおく? 竹生にジャブばかりを打つからジャブ女。とても適切な表現」
「は? 何それ?……良い加減にしなさいよ林檎」
二人は再度竹生を巡っての言い争いを突発的に始めた。結局二人がいがみ合うきっかけというのは竹生をおいて他にはないのである。竹生を境にしてまたしても揉め始める花梨と林檎は早速だが挑発し合う。「私は怒ると凄いわよ。それでもやるっての? 臆病者さん」「臆病なのはむしろ花梨の方。それを分かっていないようじゃまだまだ小者」
しかしそれに対する竹生は慌てなかった。竹生ははっと何かを閃いた様子で手の平をぽんと打ち合わせる。そして「二人の名前を書こう!」と珍しく元気の良い声で言い放ったのだった。
「……え? ちょっと竹生、それはないでしょ」
林檎と二人してさらに盛り上がろうとしていた花梨は、少しばかり驚いた様子で竹生のその発言に対応する。彼女が何に驚いたのかと言われればそう、竹生が二人の思惑や気持ちといったものに全くと言って良いほど気付けていなかった点にである。花梨はしばし目をぱちくりとしばたかせながらに竹生を見ていたが、花梨の瞳に映るのは大層自信満々に名案が浮かんだという調子で嬉々としている彼ばかりであり、その姿は花梨の本意とは須く異なるものであるのは言うまでもあるまい。花梨ははあとため息を付きながら、「竹生ってばしっかりしてよー」と少々呆れ気味に言う。すると今度はさっきまでは花梨と敵対する立場であった林檎が、珍しく彼女に同意するという形でもって口を開いた。「今だけは花梨の言う通り」。林檎の方もまた興が冷めたと言わんばかりの口調でそう吐き捨てる。彼女もまた花梨と同じように、竹生の喜ぶ横顔を見てむしろ残念がる他なかった口だ。しかしその一方で非常に良い案を出したと自分では思っている竹生はというと、想定外な反応をとってきた二人に対しての戸惑いの念が次々と浮かんでくるばかりであった。竹生は自らの提案のどこがどう悪かったのかがまるで分からない。ぽかんとした面持ちで二人をちらちらと見やる竹生には悪意というものは一切存在していない。ただただ純粋に彼は「え? 何が?」と返答するだけで手一杯である。そんな竹生の鈍感さに当てられてさらに呆れる花梨。今度は少しばかり怒気の含まれた話し方で「あーもう!」と、まるで針穴に糸がなかなか通らない時のような苛立ちを声にした。
「二人の女の子に迫られてるんだよ? 何というかさー、一緒くたとかまとめてとかそういうんじゃなくてさー、もっと竹生には責任を持って欲しいというかー」
いらいらとしてはいる花梨の胸の内にはしかしとても切実な思いが秘められていた。つまり花梨は竹生と二人きりで互いの名前を書き合うということがしたかったのである。だが竹生にはまだそれが伝わらない。よって花梨の怒りはさらに増す一方だった。
「竹生には権利と義務がある。もっとそれらを理解して」
一方の林檎は表向きは花梨に同調するということをして、懸命に二人の、いや、自らのみの気持ちを竹生に説こうとしている最中であった。はからずして林檎もまた花梨と同様、竹生と二人だけの時間を過ごしたいと切に望んでいたのである。しかし当の竹生はというと、「うーん。そんなに悪い考えだったかなあ」と、二人の話を余所にして考え込んでしまっていた。するとそんな竹生のどっちつかずな態度に遂に辟易した花梨は、敵である林檎の先の発言に対して「そうそうそういうこと! 何だ林檎分かってるじゃーん!」と同意を示すというやけを起こしていた。竹生と自分とで書道をしたい。林檎に竹生を譲りたくない。こんな風に花梨が思っていたのは確かなのだが、この調子だと竹生には自分の気持ちが伝わらず終いなのもまた事実であってと花梨は考える。そういった懸案に対する苦肉の策というのがそのやけの正体であると言えるのだろう。
「私達は分かっていて当然。というか、気安く話しかけないで」
「な、何よ! せっかくこの私が褒めてやったのに!」
「花梨に褒められてもちっとも嬉しくない。むしろいらいらが増すだけ」
「くうう! 何よ何よ! そうやってお高く留まっちゃってさあ!」
一旦は同盟を組んで竹生に対していた花梨と林檎の結束はあっという間に破れ去ってしまった。やはり本心では敵同士である二人が徒党を組むことなど土台無理な話だったのかもしれない。するともはや堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりの花梨が今度は竹生へのやつあたりを始めた。
「というか竹生も竹生よ? 何で分かんないのよ私達の気持ち! こんなにも竹生のこと思っているのに、こんなにも竹生と二人だけで書道がしたいと思っているのに、どうして竹生はそんな無神経なことが言えるの? どうして『二人の名前を書こう』なんてことが言えるのよ!」
「……花梨、竹生に当たるのは筋違い。ルール違反」
「うるさい! 林檎はちょっと黙ってて! ねえ竹生どうして? ちゃんと分かってよ、私の気持ち。分かってくれなきゃ嫌だもん。絶対絶対嫌だもん!」
花梨はあふれ出てきた感情を抑えきれないままに竹生に問う。反対に林檎の方はあふれ出ているであろう思いをぐっと堪えて竹生の返答を待っている。そんな二人の様子を見て今まで一人で考えを巡らせていた竹生は、言ってみれば神妙な空気に包まれているこの場面には似つかわしくない笑いでもって花梨への返事とした。竹生は「はは」と笑んで述べる。
「選べないよ。だって、本当に二人の名前を書きたいんだもん」
竹生は一点の曇りのない実に晴れやかな顔をしていた。花梨と林檎がその竹生の充実した表情を見て、今までの彼に対する怒りめいた感情をすうと引かせてしまうくらいに、竹生は本当に楽しそうに二人に笑いかけるのだ。
「な、何笑ってるのよ!」
花梨は思わず竹生に問いかける。しかしそれは竹生の意外な反応に驚きを隠せなかったから言ったというわけではなく、むしろその竹生のあまりにもまっすぐで淀みのない真意を彼女の方が正確にくみ取った結果、何だかとても恥ずかしい気持ちになってしまったから言ってしまったとする方がきっと合っているのかもしれない。今の花梨の中にはとにかく先までの怒りのようなものとか竹生への不満であるとかではなく、心底自分の方こそが竹生の気持ちを理解出来ていなかったという、分かりやすく言うのならば後悔の念に近しいものがぐるぐると渦を巻いていたのだった。収まりのつかなくなった花梨はどうしたら良いのかが分からないままにその胸の内を竹生にぶつけるだけで一杯一杯だった。
「何よ。……何よ何よお!」
そんな花梨の様子を見た竹生は「ははは」とさらに声を大きくして笑う。竹生の笑い声は明るくて温かくて、何より優しさで満ちあふれていた。彼は続ける。
「俺は二人のことが大好き。そう、大好きなんだ。だから二人の名前を書きたい。俺が言っているのは何も難しいことではない、本当に簡単で単純なこと」
竹生は右隣で俯きがちに両手をもじもじとさせている花梨の頭に手を置いた。そして竹生の左側で静かに竹生の話に聞き入っている林檎の頭にも彼の左手を持っていく。手を頭の上に置くという行為は、どうやら竹生が相手に対して何かを伝えたい時にする癖であるようだった。仕草自体は何気ないものではあるのだろうが、花梨と林檎はそんな些細な竹生の行動一つでいつも胸をどきどきと高鳴らせてしまう。
「花梨の明るいところが好き。いつも元気で活発で、そしていつも周りを楽しませてくれて。それは俺には真似出来ない花梨だけの良さで。俺はそんな花梨と一緒にいることが出来る。それってどれくらい幸せなことなんだと思う? ただ好きな人の近くにいられる。それがどれほど貴重なことで恵まれていることなのかを、花梨はきっと十分に分かっているのだろうと俺は思っていたんだけど」
竹生は花梨に優しく、本当に優しく、まるで赤ん坊をあやすみたいにして語りかけていく。しかしそれには花梨は何も答えない。黙って竹生の話に耳を傾けるしかしない。
「花梨のちょっぴり意地悪なところも好き。俺は馬鹿だからさ、花梨が俺をからかってくるのに対していつも上手に返してあげられずにいる。それがとても悔しくて残念で嫌なところでもあるんだけど、でも目の前で楽しそうにしている花梨を見ているとそんなことどうでも良いかと思えてくるんだ。花梨が笑っている。それだけで俺は本当に嬉しくて、何度だってからかわれてやろうって気になれて、そしてそんなことを思っていると今度はこっちが笑えてくる。こんな俺のことを花梨は何度だって笑わせてくれるんだ」
竹生はとつとつと言葉一つ一つを噛み締めながらにゆっくりと語っていく。目を瞑りながら、まるで自分にも言い聞かせるようにしながらのんびりと喋っていく。
「そして何より、花梨の優しいところが好き。花梨、今朝、俺にいくつか質問してきたでしょ?『ご飯はちゃんと食べてきた?』、『夜はぐっすり眠れた?』って具合にね。花梨はいつも俺のことを心配してくれる。いつも俺のことを気遣って偽りのない優しさを俺に分け与えてくれる。でも花梨は同時にいつだっておどけていて、ふざけていたりもして、正直俺は花梨が本気で言っているのかそうではないのかの区別があまりつけられずにいる。俺はどの花梨が本当の花梨なのか、そして花梨の本心は一体どういったものなのかが未だにあまりよく分かっていないんだ。……でも一つだけは例外。それはそう、花梨は優しい子だってこと。これだけは馬鹿な俺でもとてもよく分かる。花梨は優しい女の子。皆にも、そしてこんな俺に対しても凄く優しい。もしかすると花梨は何気ない気持ちで自然に優しく出来るのかもしれない。あるいは花梨は俺が思っているほど優しくしているとは思っていないのかもしれない。……でも。それでも俺はその無自覚な優しさに救われている。いつだって俺は花梨の優しさに助けられているんだ。それがどれほど俺を支えているのか、どれほど俺の力になっているのかについては、多分花梨には分からないだろうね。俺は花梨にはかり知れないくらいの感謝を抱いている。それがまた嬉しい。俺は嬉しいんだ」
竹生はそこまで話すと花梨の頭の上に乗っている右手で包み込むようにして彼女を撫でた。いつもは終始おどおどとしていて自信なさげで、はっきりと形容してしまうのならば頼りなく見えるのであろう竹生ではあったのだが、この時ばかりは竹生が何だかとても男らしいというか安心感のある存在であるように花梨や林檎には感じられていて、いつもの竹生によく見られるなよなよとした感じが心なしか薄れているようであった。竹生は話をするのをまだやめない。竹生は今度は林檎のことをまったりと話し出していた。
「次は林檎についての話をしようか。林檎の好きなところはそうだなあ、まずはうん、俺よりも年下なのにとても頼りになるってところ! 林檎にはね、普段は無口であまり多くを語らないってイメージを勝手にだけど持っている。林檎のそんなところに俺は親近感を抱いていたりもするわけなんだけど、でもだからと言って俺と林檎が似ているという風にしてしまうことは出来そうもないなあって。だって何度も言うようだけど、林檎って俺よりも四つも幼いのに凄くしっかりしてるんだもん。誰かの世話を焼くのがとても上手で、厳しくて冷たいように一見すると見えるのかもしれないけど、本当はとても優しくて温和で。今でも十分に林檎は大人の女性だと思うけど、林檎がもっと年を重ねて、精神的にってだけじゃなく年齢的にも大人になったって時にはきっと、今よりもずっと綺麗で素敵な女の人になっているんだろうなあ。……花梨と喧嘩している時はまだまだ子供で可愛いなあなんて思っていたりもするんだけどね?」
竹生はのどかに緑道を散歩している最中のような温度で話をする。そして一人で、「というか、花梨との喧嘩って本当は喧嘩とは呼べないのかもしれないよね。俺には二人がとても仲良く話をしているようにしか見えないんだよ」と本音をぽんと言って、それから「まあそんなことはどうでも良いか」と続けた。「はは」とまた軽やかな笑い声が竹生からこぼれる。
「後はそう! 林檎は字がとても上手いよね! 俺もここで書道を教わっている身だからさ、字に対する興味は否応なしに兼ね備えているわけなんだけど、林檎の字は本当に手本に忠実で抜け目がない。それに林檎は元よりバランスを取るのも上手いし筆遣いも相当巧みだし、何よりも字に対してとても真面目に向き合っている。黙々と一生懸命に書道というものに取り組んでいるその姿勢に俺はただただ感心するばかりでさ。嗚呼、何て素敵な書を書くんだろう、何て書というものに誠実なんだろうと密かに尊敬の念を抱いているくらいで。そしてそれが俺にとっては嬉しかった。純粋にそして素直に凄いと思える相手がこんなにも身近にいたってこともそうだし、それにそれを自分ではっきりと認められるってこともそう。林檎はいつだって俺に書道ってどういうものかを再確認させてくれて、いつだって俺に色々なことを気付かせてくれたりもして。感謝してもし切れないくらいに俺は林檎からたくさんのものをもらっている。それはきっと俺の分かっていない部分ででもそうなんだろう。林檎は俺にとってとても刺激的で凄く大切な書道仲間なんだ」
竹生ははにかみ少々照れくさそうにしていた。しかし、内心では思っていることを率直に言うことが出来て良かったとほっとしていた。そんな竹生のことを林檎は一体どんな風に思っていたのだろうか。林檎も花梨と同じく下を向きながら竹生の話を聞いていることしか出来ずにいるので、竹生が彼女の表情を伺い知ることは今のところ叶わずにいる。ぎこちない、それでいてまるで牛の歩みのような緩やかなやりとりはまだ続く。竹生は言った。
「最後に林檎と俺の関係性についてを俺が思っている範囲で話しておこうかな。俺と林檎。出会ってからはもう結構な時が経つけど、何というか、付き合い方自体はあんまり変わっていない気がするなあ。俺達って互いに人見知りだと思うからさ、何を話すにしても緊張しちゃったり変に構えちゃったりするところがあるというか。俺の方は例えば書道のことだったり例えば学校でのことだったりを林檎に聞いてみたいっていうのを常日頃から持ち合わせてはいるんだけど、それがなかなかどうして上手く聞けずにいる。いざ聞くってなると頭の整理が付かないというか、口が思ったように動かなくなるっていうかさ。本当に何気ないことが聞けない。そんな何でもないことでさえも聞くのを躊躇してしまうほどに度胸のない俺。そう考えてみると俺って本当に情けないやつだよね。俺は林檎に上手に話しかけられない。それはきっと林檎も感じていることだとは思っている。……でもね? 俺は別にそれで良いとも考えているんだ。もちろん上手く話せるに越したことはないよ? でも思ったように話せないのだとしても、林檎と俺は肝心なところで繋がっているって感じがするんだ。林檎はいつも俺なんかのことを『好き』って言ってくれる。俺なんかのために林檎は『好き』っていう言葉を使ってくれるんだ。俺はそれだけで嬉しい。多くの言葉を交わす必要なんてない。俺はその一言をもらえるってだけで凄く幸せな気持ちになれるんだ。それさえ二人で分かり合っていれば良い。それだけのことなんだよね、きっと。だからさ、結局何が言いたいのかというと、こんな俺のことを『好き』って言ってくれてありがとうってこと。林檎、本当にありがとう。俺も林檎のこと、大好きだよ?」
竹生の顔は実にほころんでいた。すると彼は林檎の頭に添えられている左手で、今度は花梨の時のようにそっとではなくわしゃわしゃと、まるで飼っている子犬を愛でるみたいにして少々乱雑に、けれども愛情をたっぷりと注ぎ込んで彼女の頭を撫で回すのをした。それは伝わったようで伝わらなかったのか。それとも伝わらなかったようで伝わったのか。竹生にはそういったことを判断することは出来ない。彼は彼女達の頭の上にある手を自らでどけようとはしなかった。そうすると今の今まで口をつぐんでいた花梨が突如として声を張り上げる。
「あーもうやめやめ!」
花梨は頭の上に乗ったままだった竹生の手の平をぱっとふり払い、すっくとその場に立ち上がってふんと踏ん反り返った上で竹生を見下ろし、彼女のほっそりとした人差し指を竹生のでこの近くにびしりと突き立ててから言う。
「全然竹生は分かってない! 私のこと、本当に全然分かってない! 竹生にはうんざりしてばっかりだよまったくー! やっぱり竹生って正真正銘のお馬鹿さんだよね!」
花梨がそう述べた直後、今度は竹生の左手の方がゆっくりと下ろされて竹生の太ももの上にさりげなく戻される。すると林檎がこほんと一つ咳払いをしてから口を開いた。
「全く持って同感。これだけ長々と話しておいて、ただの一つも私について理解している節が見当たらない。これはもはや幻滅する、驚くというのを超えてむしろ感心するレベル」
「やっぱり林檎もそう思う? そうだよねー、これだけ筋違いな話をされちゃうとさー、聞いているこっちはもはやその見当外れ具合に唖然とするしかないというかさー、何かそんな感じ」
「そういうこと。咬み合わなさが異常であるとしか今は言えない状態」
「だよねー! なーにを言ってるんだか竹生は!」
つい先ほどものの見事に崩落したばかりであった花梨と林檎の結託はいつの間にか復活せしめていた。彼女達は口々に竹生の渾身の告白、と言っても花梨と林檎に対する愛の告白とははっきりと違うのだけど、それでも多少なりとも竹生が勇気をふり絞って二人に告げていた、的確過ぎるほどに的確な甘い言葉の数々を、二人は揃って真っ向から否定する。
「大体私への褒め言葉、林檎のよりもあっさりしてなかった? ラーメンで例えるなら私は塩味で林檎は豚骨味みたいな? それってつまり私への興味は林檎よりも薄いってことにならない? え、何それ、大分悲しいんですけど」
「いや、花梨の方が大分まし。……興味を持っているから良いとか、そうでないから悪いとかいう話ではないと私は思う。竹生の長々とした私への独白の内容が、花梨の時よりもずっと的を射ていなかったという話なんだと私は思う。それを考えると私はとても悲しい。花梨以上の悲しみが込み上げてきてやまない」
「いーや、こっちもそんなに良いものじゃないって! 誰にでも、そしてどんな時でも言えるような謳い文句。そんなんじゃ女の子はときめいたりしないよー?」
「いや。私の方こそそんなに良いものじゃない。人からの評価というのは適切でなければただのお節介にしかならない。つまり竹生の話は言ってみるならば何の意味もない時間だけをひたすらに浪費していたおべっかそのもの」
「そうそう! そして思ったんだけどさー、あんまり好き好きばっかり言われるのも何だかあれね、案外気持ちが冷めるというかちょっと引くというか」
「好意を伝えるというのはやはり時と場合が大事だということに他ならない。竹生にはその辺りを考える余裕もなければ、そもそもそんな考えに行き着く頭すらないというのが立証された」
「あー結局そう言うことかー。やっぱ竹生って頭悪いんだー、へー」
「そういう風に言わざるを得ない。竹生は大馬鹿者」
あーだこーだと彼女らは二人して仲睦まじく竹生への悪態を口にしていく。しかしそれらは不思議と竹生の気分を害すものではなかったように思う。それはなぜか。それはつまり花梨と林檎が実に楽しそうにしてそれらを語っていたからに相違ない。つまりは一見すると竹生への悪口を言っているようではあったのだが、実際のそれらは悪口などでは断じてなかったということである。「好きな人に『好き』と言われた時の感情の吐き出し方」。それが今の花梨と林檎には備わってはいなかったということである。ひたすらに恥ずかしくて、しかしひたすらに嬉しくて、でもそれを伝えるのも何だか気が引けて、恋愛で言うところの「好き」では決してなかったというのに、決して偽物ではない本物の「好き」がちゃんと込められていて、竹生は二人をにこにことしながら見守っていて、それが本当にいらっとする、まるで噛み付きたくなるような表情でもあって。花梨と林檎は正直戸惑っていた。胸の内にどんどんとわき上がってくる「竹生が好きだ」という気持ち。「嗚呼、この人がどうしても好きなんだ」というどうしようもない事実。二人は心底幸せだった。いつまでもこの幸福を感じていたいと願っていた。しかしそれを正直に言葉にするのは今の二人には到底出来ることではない。彼女達の小さな胸中に広がり続けるはち切れんばかりの大きな思い。二人は二人ともに紛れもない純情を感じていた。だからこそ二人は竹生に罵詈雑言を浴びせる。自分の純粋で大切な部分を悟られるにはまだ早いと、二人は必死で竹生を貶す他なかった。純白の好意に黒の恋心を差すより他はなかったのだ。
「『まあまあ』。今朝私が竹生に言ったこと、あれね、やっぱなし! やっぱり竹生は『駄目駄目』だったわ! 何にも分かっていないお馬鹿さんにはこの言葉はお似合いね! それがまた笑える。あまりにも滑稽でさ!」
「花梨に全面的に同意する。今の竹生にはその言葉はぴったり」
そう言った林檎はすると竹生にすっと顔を近づけた。そうすると今度は花梨の方も林檎に負けじとその顔を竹生にぐいと寄せる。立ったままの花梨の顔は竹生の右上方、座ったままの林檎の顔は竹生の左下方へと接近した。そうして花梨は「だからね? 『駄目駄目』の竹生を『ぴかいち』にするためにね? 今日だけは竹生の好きにさせてあげる。……仕方なくね? 仕方なくなんだからね?」とひそひそと言う。そして林檎の方も「今日は竹生のわがままを受け入れることにした。もう好きにすれば良い。だから早く書こう?」と囁く。それらに対して竹生は「うん」と頷いた。隣では花梨が笑っている。隣では林檎が笑っている。すると竹生は座り直し筆を取った。竹生は書く。ようやく竹生達は書き始めたのだった。