竜胆、其の三
――早朝から相変わらずぽかぽかとした季節外れの陽光が差し込んできていた窓際の畳の上でしばらくの間休んでいた竹生は目を覚ました。い草の仄かな匂いが彼の鼻をつく。
「……」
竹生はまだぼんやりとしている両目を擦った。そうすると視界はさらにぼやけた。彼の頭は空っぽの屑かごのようであり、竹生は今の状況を正確にははかり切れていない。あれからどのくらいの時間が経ったのだろうかと彼は思った。だから竹生は壁にかけてある古びた丸い時計を見やった。時刻は午前九時を軽く回ったところを指し示している。
壁面にはそれの他に数々の賞状が立派な額に収められた状態で飾ってあった。水仙の名前が書き記されたものがぽつぽつとあり、竹生の名前が刻まれたものはとてもたくさんあった。しかし竹生はそれらを愛でたかったわけではもちろんなくて今の時刻を知りたかっただけだから、今が何時かを知れた彼の意識はまた現状を把握しようとすることの方へとすぐに向いていた。彼は上体を起こした。すると聞き慣れた声がする。花梨の声だ。
「あ! 竹生がやっと起きた!」
花梨が竹生の方を向いていた。少しだけ心配そうな顔をしながらも、彼がちゃんと起きて自分の声に反応したのを見て、大事ではないのをすぐに理解する。花梨はにかっと笑い、「もー! 二度寝はいけないんだよ? まあ気持ち良いっていうのは分かるけどー」と言った。「昨日あんまり寝られなかったって言ってたもんね。しょうがない! 許してやるかあ! あ、でもさ、竹生ってばやっぱりへたれだよね。ちょっと女の子に迫られただけで倒れちゃうなんてー!」
花梨は書を書き始める準備をしながらに竹生に次々と話をふる。その準備というのは硯や半紙を用意したりするのを指していた。彼女はさらにやたらと上機嫌な様子でとても楽しそうにしつつ、「ま、そこが可愛いとこでもあるんだけどね!」と一人で言った。少々高揚している。長期休暇特有のテンションなのだろうか。どきどきとした高鳴りは依然として花梨の胸の内に居座ったままだ。
「……」
竹生の思考はようやく冴えてきたらしかった。さっきまで竹生の身に降りかかってきていた花梨と林檎による飛び火を鮮明に思い出した彼は「はは」と苦笑するが、竹生と花梨の間にはまたもや、あの何とも甘酸っぱいソフトでウェットな空気がほんのりと漂い始めていた。
「竹生。起きたのなら書く。早く」
そんな二人に対して鋭く割って入ってきたのはもちろん林檎だ。彼女は花梨と竹生が良い雰囲気になるのが大いに悔しく妬ましいといった調子で語気を強めて言ってきていた。彼女の方もまた花梨と同様、道具を机の上に広げて書き始めるための準備を着々と進めている最中である。
「……そうだね。ごめん」
竹生は後頭部に手を当てながら申し訳なさそうに一言謝った。水を差された形の花梨はというと、「ちえ。まーたお邪魔虫だよ」と林檎への不満を洩らして、「しゃーない。私も始めるとしますかな」と渋々作業を再開させていた。
「さて」
竹生はふうと息を吐いた。彼も二人と同じように書を始める準備に取りかかろうとする。しかしそこで竹生はあることに気付いた。竹生は「あ」と言った。「道具を家に忘れてきた」
冬休みに入って普段とは少しだけ違う心持ちで起床したのが原因なのだろうか、竹生のいつも使っている書道道具は現在自室に置いてきぼりになっていたのである。起きる時間はいつもと少しも変わらなかったが、やはり休みというのは否が応でも、彼の意識にいくらかの歪みを生じさせるものではあったらしい。しかし今日彼が道具を忘れてきたのはただ単に、彼が生来よりのほほんとした性格をしているからだとも言えそうである。何にせよ竹生は現在手持ち無沙汰だった。するとそんな彼を見かねた花梨は、まるで大海原を遊泳する鉄砲魚のようにして彼のいる窓際まで飛んできた。
「はい! 私の使って良いよ! 竹生は少し抜けてるところがあるからねー、もしかしたら今日は何か忘れてくるんじゃないかなーって勘ぐってはいたわけよ。そしたら案の定! やっぱり竹生には私がいないと駄目だね!」
花梨は手に握り締めていた大筆をずいと竹生へと差し出した。そしてさらに「あ、忘れたっていうのは道具全部のことだよね? なら半紙も貸してあげなくちゃだし硯も貸してあげなくちゃだし文鎮も貸してあげねばだし!」と、わざとらしく悩んでいる風を装って言ってきた。花梨はまだ続ける。
「困ったなー。私の道具全部貸してあげなくちゃ竹生書けないじゃんねー? そして私の道具を一式貸してしまうとなると、今度は私が書けなくなっちゃう。貸すと私が書けない。そして貸さないと竹生が書けない。うーん困ったなー」
花梨はにやにやとしながら、この事案に対する明確な答えを持ち合わせていながらも、それをまるで思い付いていないかのような素振りで竹生に接している。すると花梨は正座している竹生にすりすりとその身を寄せながら、「どーしよっかなー? ねえ竹生、どうしたら良いと思うー?」と、まるで猫が飼い主に甘えるようにして言った。自分で答えを用意しているというのになおも竹生にそれを言わせようとする花梨は意地悪だったろう。しかし同時に「ふふ」と微かに笑い、体を竹生に寄せながら恥じらうことをする花梨というのは、とても可愛らしい乙女であるとも言えるのだろう。
「えーと」
それに対して竹生はおろおろとするばかりである。「えーと」ともう一度言い、だんだんと熱くなる自身の頭を何とかコントロールしながら、「家に取りに帰るとか?」と口にした。瞬間、花梨はじろりと竹生の横顔を見やって「ん? ごめん竹生、聞こえなかったー。もう一度教えてくれない?」と心底冷め切った声で言う。花梨はにこにことした笑顔を彼に見せている。が、その笑顔こそが竹生にとっての畏怖すべき対象であったのは言うまでもあるまい。花梨は隣で竹生にぴったりと寄り添いながら「ゆっくりで良いからねー」と言っていた。しかし、その言葉とは裏腹の「早く答えろ」という意志が竹生には嫌というほど伝わってきていた。
「うーん」
竹生は花梨のそのうやうやしい調子に合わせる他ないといった具合で、端的に述べるのであれば追い詰められていた。そしてここらで断っておくとすると、竹生という男というのは女性に関することに悉く鈍いとするのが適切ではあるのだろう。身近で接してきているはずの花梨や林檎のことでさえ未だによく理解していないし、理解しようと努めてはいるのだがどうにも肝心なところはいつだって分からず終いであるのが常である。しかしそんなような竹生であっても、今花梨が自分に何を求めているのか、そして何を言って欲しいのかには察しが付いていたのだ。悶々としていた竹生は厳かに口を開く。
「一緒に書く?」
直後花梨は「くう!」と唸って、さらに「はい! 頂きましたよ『一緒に書こう』!」と大きな声で続けた。瞬時に花梨の心はるんるんと弾む。この言葉をずっと待っていたとばかりに竹生に向けて、「ピンポーン! そうでーす! 花梨ちゃんは『一緒に書こう』って言って欲しかったんでーす!」と本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしながらに言った。花梨は竹生の体をぶんぶんと揺すってはしゃいでいる。綻んだ彼女の顔は幸せで満ちていた。
「そう言ってもらえて私は嬉しいです」
すると花梨は竹生の体を放してすっと正座をした。そして今度は妙に畏まった態度で先の言葉を竹生にかけた。その様子はさながら嫁入りを告げに来た婚約者のようであり、事実花梨の仕草はやけに慎ましく淑やかだった(しかしそれは悦に入っていると言い表すことも可能であるのかもしれない)。――竹生とふいに目が合った。すると花梨は顔を下に向けて竹生からぱっと視線を外す。その顔色はまるで風呂上がりの時のそれだった。しばしの間二人に沈黙が訪れた。竹生の方はおずおずとしているし、花梨も花梨で先のような状態にあって平常であるとは言いがたい。とてもゆっくりとした時間が二人には流れていた。しばらくの間二人は何もせずにいた。が、そうしていると今まで口を閉ざしたままでいた花梨は言った。
「当たり前のことが嬉しい。ただあなたの側にいる。それがこんなにも私の心をときめかせるの。ありがとう。『一緒に書こう』って言葉をもらえて、私は本当に幸せです」
斜め下を向いている竹生に対して変に演技がかった台詞を述べる花梨。彼女は竹生の顔をちらりと見た後、「あ、あの」とたじたじとした調子で何かを切り出そうとした。
途端に竹生の左隣(彼を背面より見て左)に座る者がいた。言わずもがなそれは林檎である。彼女は自身の道具をいつの間にかそこで展開していた(別の場所で進めていた準備は途中で切り上げた)。平然とした様子で、まるで側で何も起きていないかのような態度を示しつつそれらを広げる林檎。そして彼女は「茶番は終わった?」と二人に対して告げると、竹生の目前に彼女のものではない一本の大筆をとんと置いた。
「先生のやつを借りれば良い」
林檎は至って冷静にそう告げる。それから自分の持ち物の中から取り出した半紙を竹生に差し出し、「紙は私のを使って」と言った。そして自分の作業に戻った。
「……嗚呼!」
花梨は先ほどとは別の類いの唸り声を上げて、後は意気消沈、がっくりと肩を落としてしょんぼりとするのであった。そんな花梨のていたらくぶりを見て竹生は思わず「はは」と笑ってしまう。そして花梨達に水を差した林檎の方もくすくすと笑っていた。竹生はいつの間にか落ち着きを取り戻していた。彼の周りはいつもと同じ空気で満ちている。いつもと同じ時間が流れている。いつもと同じ場所で、いつもと同じように笑い、そしていつもと同じように書く。何も変わらないということ。これが今の竹生にとっての最大の幸せであったのだろう。竹生は林檎から言われた通りに備え置いてある水仙の道具を取りに行ったり、後で使うことになる水を汲みに行ったりして、ようやく書道をする用意を整え始めた。そしてこの間に花梨はちゃっかりと、竹生の右隣(彼を背面より見て右)に道具を移し始めていた(二人が横に並ぶのを今日の竹生は許した。落ち着いているとは言ったが、彼は案外浮かれていたのかもしれない)。