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花々の書  作者: 紙屑
2/15

竜胆、其の二

その行き先というのは歩いてすぐのところにあった。しかし竹生は歩いてその場所に行ったわけではなかった。玄関を出た後、持っていた鍵で戸の施錠をした彼はそれをするりとポケットに滑り込ませた。そしてすぐさま自宅の軒下にあったおんぼろの自転車(鍵は壊れているが乗れる)に跨がりに行って、磨り減ったペダルをぐいと踏み締めることをした。竹生は歩道に出た。いつもと変わらない車の横行の少ない細道を行く竹生の視界に入ってくるのはこぢんまりとした家々だった。東京の墨田区といっても下町の部類に属するために、軒並み古めかしい家屋の数々はまるでぎゅうぎゅうと押し合うようにして立ち並んでいた。竹生はそんな中をゆっくりと進んでいく。しかし目的地まではそう時間はかからなかった。効きの弱くなったブレーキを何回かに分けてかけた竹生は到着した地で停止して立つ。降りた自転車を所定の場所に移動してから、彼は目の前に立つぼろりとした家屋の二階部分を見上げる。そこには「川住」と書かれた大きな看板が設置されていた。実に見事な楷書で書き記されたその文字はしかし雨風の影響によってだろう、ペンキが所々剥げ落ちてしまってはいた。だがそれによって文字本来が持つ力強さというか荘厳さというかは一向に損なわれてはいず、むしろ欠損しているからこそその趣は一層増していると言えるのだろう。すると唐突に二階の窓が開いた。そこから土筆が生えるようにして顔を覗かせてきたのは一人の少女である。少女は竹生のいる方を見て開口一番「やっと来たー!」と言い、続けて室内の方に半分顔を向けて「ねえ先生! やっと来たよー!」と言った。そしてもう一度竹生を向き直した少女は明るい澄んだ声で間髪入れずに声を上げる。「玄関の鍵空いてるからねー! 分かったらさっさと上がってきて!」

 その少女は開いた窓をぴしゃりと勢い良く閉めて部屋の奥へと戻っていった。微かにではあるが「竹生来たよ! ほーら起きて! ねえってば!」という話し声が聞こえてくる。竹生はそれを聞きつつ玄関の戸を開けて中に入った。戸からはがらがらという昔ながらの音というか、建て付けが悪いからこその風情のある音がした。竹生は今開けたばかりのそれを閉めながら「お邪魔します」と一言断った。そして靴を脱ぎ、また着ていたダウンジャケットも脱いだ。彼は中に上がり階段のところまで進んだ。家での時のように音も立てずに階段を上り終えたら、ほんの少し廊下を歩き、彼はそっと階上の一室へと入っていった。

「おはよう竹生! えっとー、ご機嫌うるわしゅう?」

 そこに入るや否やとんちきな挨拶をふっかけられる竹生。声の主は誰なのかというともちろん、先ほど窓のところから声をかけてきていた快活な少女その人だった。その少女は名を(やま)()()(りん)と言う。

「おはよう、花梨」

 竹生はふんわりと返答する(彼は窓際の長机の下に中腰でダウンジャケットを置いた)。優しげな声色で朝の挨拶をする彼は「今日は結構暖かいね」と付け加えた。まだ眠そうな目をしている。ぼんやりとしている中で支度をしてきたからだろう、今朝整えてきたはずの彼の髪の毛はまだ少しばかりぴょんとはねていた。そんな竹生を見て花梨は「うん! おはようおはよう!」とにこりと微笑んでみせる。そして「眠そうだねー竹生。ちょっとだらしない顔してるよー」と彼の腑抜けた面構えを軽くからかった。一方の花梨は竹生とは対照的にすっきりとした面持ちをしている。くすくすと笑っている。彼女がそんなようだからか、ただでさえ眩しい彼女は竹生には一層眩しく見えていた。すると花梨は机と机の間をすいすいと小走りして彼のところに寄ってくる。彼女のその様はまるで小型犬が餌をねだりにいくみたいだった。

「ところで竹生君!」

 ずいとその端正な顔を竹生に接近させ、竹生と目をしっかりと合わせる形になりながら花梨ははきはきとした口調で言う。背丈を補うために爪先立ちをして竹生と目線を合わせる状態になっている花梨は、傍目から見ると恋人が口付けを交わす寸前のような格好になっていた。

「……朝ご飯、ちゃんと食べてきた?」

 きらきらとした瞳をまっすぐに向けて優しげに花梨は言う。そう言いながら彼女は静かに爪先立ちをといた。その行為は言わば小説の書き出しに用いた一工夫のようなもので、花梨が竹生への印象を強めるために行ったある種のアピールであったらしい。しかし依然として二人の距離は近しいものであって、互いの顔はやはり目と鼻の先にあると十分に言い表せる。そして最も特筆すべき点はそう、彼女の雰囲気が先までの少しおどけたものからは一変していて、表情も真剣そのものだったという点であった。

「昨日はちゃんと眠れた? 怖い夢は見なかった?」

 続けざまに問いかける花梨。彼女が言葉を発するたびに、彼女の微かな吐息が竹生の顔にかかりそうなくらいだった。竹生よりも四つも年下であるはずの花梨がその時は何だかとても大人びて見えたことを否めない。「嫌なことはなかった? 今日もちゃんと元気?」

 ここまで一方的に質問をされる側であった竹生はしばしの間、花梨の淀みのない澄み切った瞳に吸い寄せられるようにしていた。強い引力のような何かが働いているその目からは逃れようにも逃れられない。見つめれば見つめるほどにむしろ見つめられていると思ってしまうといった奇妙な感覚が彼にはあった。耳の奧の方が熱を帯びているような気にもなった。竹生は何だかそういった感じに耐えられなくなってとりあえず「はは」と笑む。小休止。しかしその後に竹生は「うん」と一つ頷く。「まずは朝ご飯。ちゃんと食べてきたよ」「昨日はあんまり眠れなかった。でも怖い夢は見なかったかな」

 そう続けた竹生は花梨の両肩をそっと掴んで今の今まで彼の目前にあった彼女の顔を少し遠ざけた後、彼女の頭に手をぽんと置いた。そして「嫌なことはなかったよ。大丈夫、ちゃんと元気」と言いながら、花梨の頭上に置いてあるほっそりとした手を優しく動かし、彼女の頭をふわりと撫でた。すると花梨は可愛らしく恥じらいながら、さっきまではあんなにもどうどうと竹生に対していたはずなのに、ふいに顔を俯きがちにして逸らし、後は「そう」と一言だけ返答するに留まった。しかし花梨の現状は竹生の行った何気ない行為に照れているというだけではないらしく、花梨は何だか悲しげな表情をしてもいるというか少し悔しがってもいるというか、そんな微妙な面立ちを携えているとも言えた。だがそんな様子を見せていたのはほんの一瞬であり、花梨はすぐに竹生に向き直って「まあまあかな!」とはにかみながら言ってのけた。そしてさらに「ち」と可愛らしく舌打ちをして、後は「べー」と竹生に舌を出した。しかしそれは何も竹生を嫌っているからした行為ではないことはすでに明らかであろう。むしろ竹生はそんな彼女の行動をとても好意的に受け取ったものだった。

「ありがとう花梨。いつも心配してくれて」

 竹生は思ったことを素直に告げる。でも言葉とは裏腹に視線は空をうろうろとして定まらない。自分の気持ちに正直になるというのは彼にとっては案外恥ずかしいことであったのだと言った後で気付く竹生である。

「ん? 今さら何言ってんのさ。そんなの当たり前のことじゃん?」

 花梨はそう言った後「だって」と続けた。そしてその直後「あ、やっぱり秘密」と言ってにひひと笑った。それを聞いて竹生もまた「はは」と笑う。世界中でここだけにしか存在しない二人だけの時間が、まるでピアノの旋律のようにして流れていた。が、そんなような言ってみるならば甘酸っぱい時間に割って入ってくる少女がいた。少女は言う。「竹生。早く書こう?」

 聞こえるか聞こえないかが定かではないくらいの音量で彼女は言って、竹生の上着の裾を少しだけきゅっと摘まむ。少々むっとした表情で頬をぷくりと膨らませている少女の名前は()(ばし)(りん)()、つまりは花梨の敵対者に他ならないのだった。

「早く」

 竹生の横顔を見つめながら、まるで小さな子供が菓子をせがむ時のようにしている林檎は、摘まんでいる竹生の衣服を今よりも少しだけ強い力でぎゅっと引っ張った。そして竹生の横に並び立ちつつ、しかし竹生の後ろの方に隠れたがってもいる彼女の目は、じっと目の前で相見えている花梨の目を捉えて離さない。「早く」という言葉をかけられたのは竹生だというのに、当の本人はまるで蚊帳の外、そこには花梨と林檎の二人だけにしか通じ合えない何かが展開され始めている。

「ちょっとちょっとー。林檎さん、今良いところですので邪魔しないで下さいますかねー? いくら超優しいで有名な花梨ちゃんでもー、されたら嫌なことぐらいあるってもんですわよ」

 竹生に接していた時のようにおどけてはいる笑顔の花梨は目だけをまるで氷のようにして言う。そしたらそれに対する林檎は急に黙り込んだ。彼女は言い返す言葉に詰まっているようで、竹生の服の裾を掴んでいる指にはさらに力が入る。その力というのは林檎の見てくれから想像される力よりもずっと強く、彼女が力を込めれば込めるほどに服の布地はみるみるとひん曲がっていった。そんな調子でももじもじと恥じらってはいる林檎に向けて、花梨はさらに畳みかけるようにして言葉を投げ付ける。

「あれれー? 林檎さんもうねんねの時間かなー? まあそりゃそうだよねー。子供はやっぱりよく寝て育つ! ちゃんと良い子で寝てなきゃ駄目だよ、寝ぼすけさん」

 ふふんと鼻を鳴らしながらに胸を張って花梨は言う。そして一杯食わせてやったと言わんばかりの勝ち誇った顔を林檎にずいと近づけ、にたにたとしながらに人差し指を林檎のでこにつんと当てる。

「……」

 林檎はまだ口を閉ざしたままである。花梨に一矢報いるための文言を何か考えているようで、ぷくりとほっぺたを膨らませながらに逆転の一手が頭の中に浮かんでくるのを今か今かと待っているというような塩梅だった。しかしそんな林檎の言い淀む様は花梨をますます調子付かせる一方であり、気分を良くした彼女は遂に馴染みある子守唄なぞをひけらかしてみせるのである。「へっへー、降参ですかな寝ぼすけさん! だったら竹生は私がもーらう!」

 花梨はそう言った後で林檎が竹生を掴んでいるのとは逆の方にすっと移動し、手と同様に細々としていて色白であった彼の腕に思い切り抱き付くことをした。花梨の小さな胸は竹生の腕に押し付けられるようになり、それに言うまでもなく気付いた彼は少しばかり照れている。それを意図していたとばかりに花梨は竹生の顔を見やって悪戯っぽく笑み、そして竹生と同じように少々照れくさそうにしてもいた。

 勝負は決したとばかりに花梨がそういった行動を取った直後、今まで閉口していた林檎はぽつりと、咄嗟に言ったというよりかは自然と口からあふれてきたというような感じで、「寝ぼすけさん。竹生も今日寝坊してきた」と呟いていた。そして一瞬だけぱあと明るくなりながら「似た者同士。まるで夫婦」と言って、するとまた気分を平常に戻した。で、今度は林檎の方が竹生の腕に抱き付いた。しかしそれは花梨の時よりも控えめでおどおどとしてもいて、彼女はとても恥ずかしそうに唇をきゅっと噛み締めていた。だが決して竹生の腕から離れようとはしない。加えて、かく言う林檎の方もまた、胸(花梨よりも明らかに豊満であると言える)を彼の腕に密着させるというのを行っていた。すると花梨は「なっ、何言ってんのよ! しかもどさくさに紛れて何してくれちゃってるのよこのー!」と大声を出す。「ふ、ふーんだ! 似た者同士が何だって言うのよ! というかそもそも何その言い草、無理矢理にもほどがあるってもんでしょーが!」

「うるさいやつがいる。竹生、私のために追い払って?」

 ぎゃあぎゃあと反対側でわめき散らしている花梨をちらりと流し見ながら、取って付けたような女性らしい台詞を、今でももじもじとしてばかりいる竹生に対して、齢十四であるか弱き少女はぼそりと口にした。分かりやすく言うのであればこの林檎の発言というのは花梨への当てつけであり、また先ほどまで散々からかわれてきたことに対する彼女なりの細やかな逆襲でもあった。

「う、うるさくなんてしてないもん! ……ねぼす……いや、えーと」

「余所者は入ってこないで。竹生、早く」

 花梨は先までのへらへらとした余裕綽々の態度とは一変、まさに蛇に睨まれた蛙と成り果て、林檎と竹生とのやりとりに茶々を入れるのに必死だった。しかもその茶々というのは何とも歯切れの悪いものであり、むしろ自らで墓穴を掘り、この微笑ましい対決のゆくえを不利な方向へと誘ってしまってもいる。そしてここらでついでに補足しておくとするならば、二人の何ともむず痒い会話を二人の間に挟まれながらに何とも言えない心境で聞いている竹生はというと、とにかく両腕に押し当てられているものに気がいってしまっており、以前としてただただ困惑するばかりであった。「大分林檎の方が育ちが良いようだ」などといった感想がわいては消えわいては消えを繰り返し、どうどう巡りの思考の中で軽く混乱してしまってもいた。しかし決して悪い思いというのにはならない。それの理由は果たして何であろうか。男としての性が働いているからだろうか。それとも二人の可愛らしい交流に心が和んでいるからだろうか。そもそも二人の自分に対する好意は本気なのだろうか。単に二人が二人して盛り上がるための道具として扱われているだけなのではないだろうか。竹生の頭の中にはこのような疑問や考えがまるで気泡のように次々と浮かんできていた。とにかく考えがまとまらない。竹生の体はますます熱くなっていく一方である。

「け! 何が『まるで夫婦』よ! 良いじゃん! 性格とか好みとか趣味とか価値観とかが丸っきり正反対だとしても! 何も悪いことなんてないじゃん! それに、むしろそっちの方が意外と上手くいったりするっていう考え方だってあるじゃん! そうだよ! 似た者同士よりもずっと相性が良いのは結局は似てない者同士なんだよ! ようするに竹生にふさわしいのは林檎じゃなくてやっぱり私だっていうこと! なーんだ簡単なことだった! ちょっとひるんじゃった自分が恥ずかしい。あーあ、焦って損したー!」

「何を熱くなっているのかは知らないけど、結局大切なのは相性どうこうではなく互いを愛する心。そういうことで言えば花梨よりも断然私の方が竹生を愛している」

「いや、話をすげ替えないでよ! さっきまでの言い分はどうしたのさ? ほら、言ってみ?私の指摘が的確過ぎて言い返せなくなったから話題を逸らしましたーって!」

「話は変わったのではなく次の段階に移行したというだけのこと。それに論点は最初から『私と花梨のどちらの方が竹生に似つかわしいか』というので変わってはいないと思うのだけど」

「いーや違うね! 痛いところを突かれたから強引にはぐらかそうとしてるだけ! 良い? 竹生に本当にぴったりなのは私で間違いないの! あんたは友達どまりね! せいぜい私と竹生のことを遠くの方でうらやんでなさいな。それくらいのことは許してやっても良くってよ?私はあなたとは違って友達を大事に出来る心優しい女の子ですからね」

「友達を大切に出来る? 心優しい女の子? 冗談も大概にした方が良い。それは即刻『友達がほとんどいない』、『心根の粗悪な珍獣』というように訂正すべき」

「……言ったわね?」

「言ったけど?」

 花梨と林檎の言い争いはどんどんとヒートアップする。気付けば二人の可愛らしい顔は怒りによってひどく歪んでしまってはいた。しかし彼女達にはそんなことにまで構っている余裕などなかったらしく、二人が元来持ち合わせてはいる造形美が崩れるのに一向に歯どめがかけられないまま、二人は互いにますます激しく睨み合うのをするばかりだった。そんな二人の喧嘩の原因である竹生はというと、未だに二人の間であたふたと気を焦らせるしかしないでいた。どうしたものかと真面目に悩んではみる彼は上手い言葉がかけられず、また矛盾するようではあるが、そもそもこの喧嘩というのは果たして本当に喧嘩と呼べるのだろうか、単に二人で仲睦まじくじゃれ合っているだけではないのかといった疑問にも苛まれ、しかし現に二人が汚い言葉で罵り合っているのは確かな事実ではあるし、二人が二人共に本気で熱くなっているのもまた本当であるしと、彼の思考はみるみると乱れてしまっていた。中学生らしからぬ子供っぽさ。そして中学生らしからぬ大人顔負けの熱意。そんな両極端な反応を示し続ける二人に対する竹生の頭はまるでぐつぐつと茹でられているようだった。

 そんな時、竹生が先ほど上がってきた階段の方から、「はっはっは!」という至極大きくて快活な笑い声が聞こえてきた。それが誰の声だったのかと言えば、この「川住書道教室」の師範代である(かわ)(すみ)(すい)(せん)のそれであった。

「はっはっは! 竹生は人気者だな! 朝っぱらから両脇に女を侍らせていちゃつくとは。ううむ、うらやましい、実にうらやましいぞ!」

 渋い紺色の和服を着こなしながらも土木作業員のようなたくましいがたいをしている水仙は、大声で晴れやかな笑い声を上げつつ竹生に声をかける。「よ! この色男! お熱いねえ!」

「師範。笑い事じゃないです」

 水仙から一声かけてもらったことでやっと話す機会を得た、つまり水仙に助け船を出してもらった形の竹生はこう言うだけで精一杯といった慌てようである。「どうしよう」と本気であたふたとし、「ま、まあまあ」と二人を宥めようとはするのだが、やはり二人の険悪な雰囲気に気圧されてしまっていまいち事態を収められずにしゅんとなってしまう。

「ねえ先生! 林檎ってば酷いんだよ? 竹生は私のなのに、絶対に私のものだと決まってるのに、いっつも私よりも竹生といちゃいちゃしようとするの!」

「竹生は私のもの。だから私が竹生を独占するのはとても自然なこと。必然」

「違うもん! 私のだもん!」

「違う。私こそが竹生にふさわしい」

「違うもーん! ねえ先生! 違うよね? 絶対竹生は私との方がお似合いだよね? ね? ね?」

 二人はなおも竹生に引っ付いたままの状態でばちばちと火花を散らせている。だが花梨の方はそんな二人だけの戦いの最中にありながらも、自分こそが彼の隣にいるべきだという主張を水仙にまでふりまくのを怠らず、またそれの同意を得ようとやけに必死になっていた。そうすると、花梨からの切実な問いに対して「ふむふむなるほど」と何やら得心していた水仙は一言、「こりゃ重傷だわな」と言ってがははと豪快に笑いこける。そして「竹生は幸せ者だが、同時に苦労人でもあるようだな! はは! 結構なことじゃねーか! いやー、若いって良いねえ! 青春だねえ!」と一人で納得してもいた。

「ねえ先生! 私の話聞いてた? どっちなのよ!」

 花梨はむきになってさらに水仙への問いを続ける。一方の林檎は黙ってはいるが、その答えが一体どうなるのかと聞き耳をこっそりと立ててもいた。

「うーんそうだなー」

 水仙は竹生のようにあやふやなぼやきを返すばかりだ。しかしそれには竹生のような純情さというものがまるで介在していない。返答の仕方は一緒でもそれの実態は似ても似つかぬ代物だということである。水仙の迷いは「花梨と林檎のどちらが竹生に見合っているか」ではなく、「花梨と林檎のどちらをどうすれば面白くなるか」といった方向に集中していて、そういった下心はすぐさま二人にばれてしまう。

「先生ってばふざけてるでしょ! ちゃんと答えてよお願いだからあ!」

「そんなこと言われてもなー。分からんものは分からんしなー」

「もう! そこを何とか答えるのが先生ってもんでしょ?」

「まあそう言われればそうなんだがなー」

「じゃあ答えてよ! ねえ、どっち?」

 花梨に執拗に問われる水仙はとぼけたふりをしていた。しかし、ここまで風に吹かれる柳の枝のようにしてのらりくらりと質問をかわしていた彼はぱっと明るい顔になる。何か名案を思い付いたようで、白い歯を見せながらににやにやとほくそ笑む水仙は、聞いてきた花梨に対してではなく、今やもはや立っているのも憚られると言ったら大袈裟なのかもしれないが、少なくとも落ち着きを保てているということは断じてない竹生に向けて、「ねえ、どっち?」とがつんと言い放った。その瞬間竹生は「え?」と言い、後は「はい?」と言った。いきなりの話のふられようだったのでおそらくは頭が追いついていかないのだろう、竹生はきょとんと首を傾げるばかりである。

「……ねえ竹生。私を選んで?」

 すると今度は花梨が竹生に対してアプローチをしかけてくる。その様子からは今まで表立って出現していた憤怒の感情とは全く別の艶やかさというか色っぽさというか、そんなような大人の色香が漂う何かが見てとれた。花梨の表情は真剣な風である。まっすぐに竹生の横顔を見つめ、今の問いかけの答えが自分の望んだものになるのを待っているといった感じであった。彼女の両目は蕩けるようだった。巻き付く体は嘘みたいに熱い。

「竹生。花梨を選んじゃ駄目」

 すると今度は林檎が竹生に向けて言葉をかける。彼女の方はというと花梨とは真逆で冷静沈着である。しかしその発言に込められた思いは言葉の調子とは裏腹で熱く重い。二人の関係は竜虎のようであり、または風神雷神のようでもあり、太陽と月のようでもあった。正反対の性質を持ち合わせながらも共に語られる存在。しょっちゅうつんけんしてはいるが二人は根本では案外通じ合っているのかもしれなかった。林檎の方も竹生の横顔をじいと食い入るように見つめる。巻き付く体は嘘みたいに冷たい。しかしそうやって迫られている竹生は黙ったままでちらちらと二人へ視線を送るばかりである。どうやら二人のそのような表情に対している竹生の方も、ついつい彼女達の圧に当てられてしまっているらしい。そして今の竹生にとってはそれこそが最も危険なことであったのは疑いようもない。竹生の頭はショートした。二人に抱き付かれたままの体勢で竹生はへたりとその場に座り込んで動かなくなる。

「……竹生? 竹生、大丈夫? ……ねえ、竹生ってばあ!」

「……竹生? どこか具合でも悪くした?」

 二人は竹生に呼びかけた。竹生の体を揺すりながら「おーい竹生、竹生ー!」と名前を連呼し続ける花梨と、一声かけた後は静かに彼の容態を見守る林檎。そんな二人の、いや、竹生を含めた三人の様子を見ていた水仙は辛抱堪らず大いに噴き出すのであった。

「ぷふう! お前ら良い! お前ら良いよ、ほんとに!」

「笑い事じゃないでしょ! 元はと言えば先生のせいだからね!」

「わはは! 悪い悪い。ついな」

「『ついな』で許されることじゃなーい!」

 花梨は水仙に対してこう叫び、後は竹生の介抱に徹するのみだった。ぐるぐると目を回す竹生は嘘みたいにくたくたになっていた。するとそんな様子を楽しげに見ていた水仙は、「よーし。それじゃあもういっちょ盛り上がっていくとするかー!」と言ってさらに声を張り上げる。

「さあお前ら、お待ちかねの書道の時間だ!」

 早朝より執り行われてきた花梨と林檎の、竹生を巡る一騎打ちに一旦の終止符が打たれた瞬間であった.

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