竜胆、其の十五
明けて一月二日。午前六時にぱちりと起床した竹生は、やはりと言って差し支えないだろう、一向に変わり映えのしない朝を規則正しく送るというのをしていた。起きた後には半端な伸びをし、かけ布団や敷き布団といったのを丁寧に畳むことをし、着替えを手にした上で風呂場に行くことをし、そこで髪や体を洗うのをし、持って来た衣服を着るのをし、台所に行って簡素過ぎると言って良い朝食を拵えることをするのが、彼にとっての日課であり慣習であるというのに何ら変わりはなかったし、そういった一つ一つの行いが相変わらずのペースで成されるものだから、それらにかかる時間は自ずといつもと同じようになって乱れることはなく、その様はまるでダイヤグラムのように正確であると言えるのかもしれなかったが、彼自身にはきっちりと過ごそうとする気というか意識というかは実はさらさらなく、つまり彼はただただ時間の流れに身を任せてほどほどに過ごしているだけに過ぎなかったのだが、不思議と彼のリズムというのは少しも崩れることをせず、結局それらのことは何一つ変わらない機械的で決まりきったこととしてあるのに違いはないのであった。竹生にとっての時間というのはどうやら合わせるものではなくて、どうしてか自然と合ってしまうものであったらしい。そう、それはまるで運命のように。
朝飯を作り終えた竹生は今日もまた、水入りのコップと茶碗によそった白飯とを盆に乗せた上で仏間へと足を向けるのをしていた。いつもと同じ足取りで、いつもと同じようにして音も立てずに廊下を歩くことをしていた。竹生は部屋に入った。そこには朝の清々しい空気というか、朝だからこそ味わえる明るい雰囲気というかが満ちていた。それらはまるで今の彼の心の中を表しているようであり、だから彼はそこに入った時に少しほっとしていた。それはつまり、今自分はとても良い状態にあると素直に思えたということへの、ちょっとした安堵であった。でも同時に彼は、安心したのと同じ分だけ緊張してもいたというか、少しだけではあるが気が重いとも言えるというか、そんな言ってみればもやもやとした感情を抱いたりもしていた。そんなような何とも言えない心持ちで、彼はいつも通りに父母の仏壇の前で正座をし、手に持っているものを一旦近くに置くことをする。
「……」
竹生はゆっくりと一礼した。そして今置いたばかりの供え物を供え、ろうそくに火を灯し、その火を手に取った三本の線香にも移した。彼はそれらの火を手で仰ぎ消してから香炉に加えた。後は鐘を鳴らして合掌をした。彼は黙々とそれらの工程を済ませた。そうして竹生は亡き父母の写真と対面した。
「おはよう」
竹生はまずそう言って、それから一人で微笑した。「よくよく考えてみると変だよね、二人に話しかけたりするのって。父さんと母さん、ずっと前からいないっていうのにね。変だったよね、今までずっと。……もしかすると、二人はこんな俺のことを少しうっとうしく思っているのかもしれない。こんな風に朝からねちねちとしゃべりかけられるのは嫌だと思っているかもしれないし、そっとしておいてくれって感じてもいるのかもしれない。でも、それは何も二人に限った話ではないんだって今では思える。それはようするに、辛いなあ、疲れるなあって二人に毒を吐きたくなる時が俺にも確かにあったっていうことらしい。藍姉が俺に言ってくれたように、俺は俺の本当の気持ちに気付いていないふりをしていただけに過ぎなかったっていうことらしい」
竹生はそのように少々棘のある言い方をしたが、別段悪びれる風はなかった。彼はただ静かに微笑んだだけだった。すると彼の胸の内にあった言いがたい何かはすっと消えてなくなった。そのことは彼にとってはちょっとした驚きであった。それはつまり、父母の死という、彼にとっては長い間受け入れられずにいた事実がもう、今の彼の中ではすっかりと当たり前のこととして馴染んでいたというのに対する驚きで、彼はもっと悲しい気持ちであったり寂しい気持ちであったりをずるずると引きずっているのかもしれないと思っていたのだが、実際はそんなことはあまりなく、彼の心はむしろすっきりとしてさえいると言えたが、そんなややもすると人情味に欠ける心境になってしまった自分を卑下するといったことにはどうしてかならず、彼は依然として父母の前で屈託のない笑顔を浮かべるに留まっていた。が、そんな竹生は少ししてからまた話をし出す。彼はとても優しい表情をしていた。
「でも、俺は良かったって思ってるんだ。本音で二人に向き合えるということ。言いたいことを素直に打ち明けられるということ。そういうのって、何だか親子って感じがして良いでしょ?今まではあまり出来なかったことがようやく出来るようになったんだ、俺は今、二人にたくさん褒めてもらいたいって思ってる。たくさん二人に温かい言葉をかけてもらいたいし、『よく出来たね』って他でもない二人から頭を撫でてももらいたいし、俺はとにかく、二人の親としての愛情っていうのをもう一度じかに味わってみたいんだ。……いや、反対に、どうして今まで出来なかったのって叱ってもらうのも良いのかもしれない。どうしてお前はそんなに馬鹿なんだって、どうしてそんなにお前は我慢をしてしまうんだって、真剣に怒ってもらうっていうのも悪くはないのかもしれない。……俺はどうやらとても欲張りな男になってしまったらしい。二人はもういないっていうのに、今言ったことは全て叶わないことだって十分に分かっているはずなのに、俺はそれでも二人に求め続けてしまっている。はは。やっぱり俺ってとことん変みたいだ」「でも、良いんだ。それで良いんだ。二人のことを大切に思っていれば、自然とそういった気持ちになる。二人を大事に思っていればいるほど、二人を忘れるなんてどうしたって出来ることではないんだ。だから俺はずっと忘れないって決めた。ずっと二人と共にあるって決めた。そういった生き方が俺の思う以上に苦しく寂しいものなんだとしても、そういった生き方でもっと自分のことを傷付けることになったとしても、俺はそういう風に生きていたいって心から思ったんだ。だから父さん、母さん。俺、これからも二人のために生きていくよ。二人のために書道をしていくよ。……迷惑だなんて言わせないから。そんなことを言う気にもならないくらいに、俺は良い書を書き続けていくから、だから。これからも俺のこと見守っていて。側でずっと、見守っていて」
竹生は一息付いて仏壇に供えられている造花を見た。しっかりと死んでいるからこそ美しいそれは今日も変わらずそこにあり、変わらずに惚れ惚れするほどの美を周囲にふりまいていた。しかし、竹生はふと、造花ではなくて生花を供えるのももしかすると良いのかもしれないなと何となく思って、「いや、面倒くさいか」と一人で言って微笑んだ。
「これからも頑張って書いていくと二人に告げたばっかりなんだけど、でも俺、今日からしばらく書道をするのを控えようと思うんだ。冬休みの宿題はきちんと終わらせなくちゃいけないからね。でもその宿題は家ではやらないし、やるのはあの場所でともう決めてある。『いや、家で一人ですれば良いじゃないか。時間はまだあるんだし』なんて言われてしまいそうだけど、俺はそういうこととなるとてんで駄目だから、一人じゃ全くはかどらないし解けないしで泣きべそをかく羽目になるのはすでに目に見えている。はは。やっぱり俺には誰かの支えがどうあっても必要らしい。竜胆竹生、今日から今一度学生の本分を思い出し、しっかりと学業に力を尽くしていきたいと思います!……でもまあ、案外気楽なものだよ。俺は進学出来るほどの勉強をしてこなかったから、大学に通うなんて選択は元々考えすらしなかったし、だからなのか今はとりあえず、高校はちゃんと卒業しようっていう本当に軽い気持ちしか抱けずにいる。困ったものだね。なので勉強なんかはそっちのけで遊び呆けてしまったり、皆と一緒にだらだらと過ごしてしまったりってことに結局はなっちゃうのかもしれない。暇を持て余している花梨や林檎、それから藍姉なんかがいるだろうからなおさらね。……花梨や林檎は良い年を迎えられただろうか。藍姉は今何をしているだろうか。嗚呼、気になってしょうがないや」「じゃあ父さん、母さん。俺行くよ。今日も行ってくるよ。別に行かなくちゃならないなんてことはないけど、行かなくたって誰も責めてきたりしないけど、でも、俺行くよ。だって皆待ってると思うから。あの場所で俺のこと、きっと待ってるって思うから」
竹生はろうそくの火を消した。そして「俺の思い上がりだったらショックだけど」と言って笑った。竹生は一礼した。そして供物を取り下げて立ち上がった。そうして竹生は朝の支度の続きに戻っていった。