竜胆、其の十二
そこまで思い出した竹生は一旦筆をとめた。過度な集中のせいだろうか、それとも睡魔が襲ってきているからだろうか、竹生のこめかみはぴりぴりと痛んでいた。彼はふと外の方を見やった。そこらは竹生が書道を開始した時よりもさらに暗くなっていて、しかもしんと静まり返っていた。それは今が何時かを考えればとても当たり前のことではあるのかもしれない。日付はもう変わってしまっていて、時計は午前二時をいくらか過ぎたところを指し示していた。
竹生は父母が死んで以来、字典を用いての書道をめっきりしなくなっていた。いや、正確には出来なくなってしまったとする方が合っているのかもしれない。その字典を使って書道をしようすると、彼の頭にはどうしてか、父母の死ぬ間際の光景がまざまざと浮かんできた。しかし彼は父母が事故にあった現場に実際に居合わせたわけでは決してなかったし、実際にそれを目にしたことはなかったはずだった。それなのに、その字典を前にすると、見てはいないはずの父母の死に顔が目前に迫ってくる錯覚を覚えた。竹生はそのことに単純に恐怖した。だから彼はその字典を段ボールの奥底にしまった。そしてそれを押し入れの奥の方に押し込んでもきた。込み上げてくる得体の知れない心象から逃れるために、竹生はそれを自分の目の届かないところにしまい込んできたのだ。それは当時の彼からすれば背筋が凍ってしまうような体感ではあったのだろう。そう考えると竹生が取った行動というのはとても健全で当然のことだと言えるのかもしれない。だが彼は今になって思う。その錯覚というのは何も怖いことではなく、むしろ肯定的に受け取るべきことだったのかもしれないと。拒絶するでなく、はねのけるでもなく、反対に迎え入れるべきことだったのかもしれないと。父母は化けて出てきたわけではない。父母はきっと側で見ていてくれただけなのだ。自分が書道に励む姿をずっと近くで見てくれていただけなのだ。そう、全ては自分のために。全ては竜胆竹生という一人の人間のために、父母は命を落としてもなお尽力してくれていた。死んでも変わらずに自分を見守り続けてくれようとしたのだ。竹生はそうやって何度も思い直す。自らの過去の認識を繰り返し改めることをし、そうすることによって彼は一つの問いを自身に投げかける。それは一体何であろうか。それはつまり、自分は一体誰のために書道をしているのかということである。誰のために書道をするべきなのかということである。竹生はそれを思うと再び筆を手に取った。そしてまるで殴り付けるようにして字典の文字を再度書き連ね始めた。猛烈な勢いでもって、それはまるで火が出てしまいそうな速さでもって、彼は一心不乱に紙面を黒くさせていく。竹生は反芻する。筆を激しく動かすに従って、彼は頭の中で何度も同じようなことを言い聞かせる。誰のために書かなければならないのか。誰のために、誰のために自分の書道はあるのか。誰のために書家になりたいと思ったのか。誰のために書家にならなければならないのか。誰のために、誰のために。……答えはとうの昔に出ている。全ては父母のため、そう、全ては父母のためなのだ。父母のために書く。二人に報いるために書く。竹生の手はとまらない。強烈で歯止めの利かない彼の信念はその時ごうごうと燃え盛るようにして彼の中にはあった。冷え切る部屋とは裏腹のその熱き思いが、彼の頭を、腕を、とめどなく動かすことをしていた。体の至るところからは汗が噴き出してきていた。加えて彼の意識はもはや朦朧としてきているとさえ言えるのかもしれなかった。しかし、それでも竹生は筆をとめることをしなかった。書に食らい付くようにして、背中をぐにゃりと曲げ、目をひんむくようにしながら、彼は猛然と筆を紙面に叩き付けていく。彼はこの時不敵に笑んでいた。父母のために書く書道。父母のためにある書家という夢。彼の中にそういった答えがようやく見つかったからだった。いや、見つかったというよりかは思い出したとする方が合っているかもしれない。そう、彼はやっと完全に思い出せた。いつも考えていたようで実は薄れていく一方であったそれ。一番近くにありながら、一番遠くへと追いやってしまっていたそれ。最も忘れてはならないことが実は忘れ去られようとしていた。慣習というものが竹生の書の本質を少しずつねじ曲げてきてしまっていた。だからこそ自分の書く書は駄目であったのだ。だからこそ自分の書は藍に零点であるなどと言われてしまったのだ。そのことをはっきりと理解した時、竹生の中に僅かに潜んでいた迷いや絶望といった類いの一切が消え失せた。それだからもう竹生の筆を惑わせるものは何もなくなった。後は書くだけだ。この父母のために書くという思いをしかと持ち、後はただただ書くだけなのだと彼は強く思う。気付くと外は明るんでいた。眩しい陽光が彼の認めた黒々とした書をきらきらと照らし付けていた。そうして竹生は朝方まで父母のための書道というのに邁進し続けたのである。