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花々の書  作者: 紙屑
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竜胆、其の十一

 竹生が書き出したのは先ほど開いた字典に載っている文字の数々であった。彼は規則的に記されているそれらの字を記された順序に従って書いていくのをしていた。それは楷書、行書、草書、隷書、篆書の順であった。竹生は順々に次から次へとこの手順を外れることなく半紙に認めていくのをするだけであった。無駄が全て省かれた動作でもって、彼は一つの漢字を書き終えるとまた次の文字を書き出すというのを繰り返していくのみである。その竹生の様はとても洗練されていてまるでロボットのようだったと言えるのかもしれない。とにもかくにも竹生はただただ愚直に字典の文字を臨書していくのをするだけなのである。しかしこの一連の作業は果たして竹生にとっての特別な何かなのであろうか。用意した手本に従って臨書をすること。この行為自体は竹生が嫌気が差すほどに行ってきていた言わば普通の鍛錬の仕方であり、彼にとっては何と言うことはない訓練の一つでしかないように思える。だが竹生はそのような方法でもって磨いてきた書を藍に零点であると評されてしまった。それはつまり今まで重ねてきた努力の仕方を根刮ぎ否定されてしまったのと同義だろう。なのに竹生は未だに臨書という方法でもって書の改善をはかろうとしている。臨書を重ねることでは自らの書の抱える問題を解決することは出来ないとなった今でも、竹生はどうしてかそれをすることによって書に変革をもたらそうとしているといった始末なのだ。一体どうしてなのか。その疑問にはやはりそれの手本となっている例の字典が深く関わってくると言って良いのだろう。気付けば竹生は書を続行させながらも意図的にそれについての記憶を呼び起こしていた。

 竹生はその字典を両親から買ってもらうことによって手に入れた。それは彼が書道を始めて間もない頃のこと、つまりは竹生がまだ幼少児だった時のことであった。幼かった竹生は興味本位で何となく始めた書道というものをただ純粋に楽しんでいた。何を目指すでなく、そして何を志すでもなく、彼は自分が楽しいと思えるような書をのびのびと書き連ねていた。自由気ままに、楽しさや心地よさといったものだけを求めて、竹生は書道というのに親しんでいた。それは幼かったというのを考えればとても自然なことであると言えるのかもしれなかった。自分の目前に敷かれる真っ白な半紙が小さかった竹生にとってはまるで純白のキャンバスのように見えていた。何をどんな風に書いても良かった。そのことが竹生の書に対する好奇心を一層くすぐらせた。小さな彼にとっての書道というのは言わば一番の遊びであるに違いなかった。一つ、筆に墨をたっぷりと付けてゆっくりと引いた線。そうして表される線はとても野太く滲んでいた。二つ、今度は墨をちょっとしか付けずに勢い良く動かしてみた線。そうすると線は掠れて荒々しいものになった。三つ、とにかく張り切って書いたまっすぐな線。しかし引かれた線はぐにゃぐにゃと曲がっていて全く意図した通りのものにはならなかった。それが何だか無性に悔しくて、今度こそはと竹生は頑張った。だが書かれるものは皆一様にくにゃくにゃと曲がってしまうのが常だった。小さい彼はがっかりした。しかしその一方でますます書道が面白いと思うようになった。書道が楽しくて仕方がないと、書けば書くほどに強く感じるようになった。ただ線を書いているだけだった。しかし竹生にとってはそれはただ線を引いているだけではなかった。竹生が書いた線の一つ一つが彼にとっての自慢の作品だった。ぐちゃぐちゃとしていてまるで落書きをしたかのようになった紙面が、彼にとっては実に誇らしいものであった。書道というのは楽しいものであるというのを単純に心の中に抱けるということ。そしてそんな気持ちをただ素直に紙面にぶつけられるということ。それらがいとも容易く出来てしまっていたという点を考えると、やはり竹生には書の才能が有り余るほどにあったと言ってしまって良かった。そしてそのような竹生の才にいち早く勘付いた父母が果たして買い与えたのがかの字典だということなのだった。

 字典をもらった竹生はますます書道というのにのめり込んでいった。今まではやたらめったらと線を書き殴るだけだった竹生は、その父母からのプレゼントによって、字を書くとは一体どういうことなのかを幼いなりに真剣に考えるようになった。筆に含ませる墨の量はどのくらいが適切なのかといったことや、墨の濃さは一体どのようにすれば良いのかということ。どんな線をどんな風に組み合わせていけば良いのかや、その線というのはどれくらいの力で引けば良いのか、もしくはどのくらいの勢いをつけて書くべきなのかということ。どのようにして筆を動かせば理想とする線を紡ぎ出せるのかということや、どのような角度で入筆すれば良いのかということ。そもそも線というのにはどれくらいの種類があるのだろうかというのや、縦線や横線以外の線は一体どうやって書けば良いのだろうかということ。竹生は次々と字を書くということに思いを馳せていった。言ってみるならば自分の好きなように半紙を汚すことが何よりも楽しかった彼は、その字典を手にしてからは、むしろいかにして半紙を汚さずに美しく保つことが出来るのかを考えていた。乱すではない整えるという作業が当時の竹生にとってはとても新鮮で実に興味深いものであったのを否むことは出来なかった。だからこそ父と母からもらった字典というのはますます重宝された。それを一度開いたのならば、そこには多くの美しい字が整然と掲載されていた。そしてそれらを一度目にしてしまったのならばもう竹生は書かずにはいられなかった。竹生は夢中で字典の書を写し書いていった。どんどんと書いてページをめくった。そうすればまた新しい字の数々が竹生の目の前に現れた。それらをまた貪るようにして書き写していった。次のページには新たな字との出会いがあった。だからこそ竹生はやめられなくなっていった。その行為は彼の心をより強く掴んで離さなかった。書けば書くほどにのめり込んでいく感覚が竹生には確かに存在していた。有限である時間を全部注ぎ込んでしまえたのならといった狂ったような実感を抱くことさえあった。しかしそういった感覚というのが竹生を嫌な気持ちにすることは決してなかった。むしろ彼は一心不乱に打ち込めていることが何よりも嬉しかった。凄く楽しいと感じられるものが自分にあった。凄く面白いと思えるものが自分にはあった。そういったことが竹生の送る日常に鮮やかな色を加えていった。嫌なことなどを考える暇もないくらいに彼はそうやって毎日を忙しく過ごしていった。竹生はあっという間に全てのページを臨書し終えた。だが彼の手はとまることを知らなかった。竹生は「終わっちゃった」と少しだけ残念がるも、またすぐに「もう一度最初から書けば良い」と思い直して、その字典を用いての書道というのを再開させるのだった。そしてそれは一時の流行りでも何でもない、竹生が心からずっと続けていたいと思えることだったのはもはや言うまでもなかっただろう。そうやって竹生は幼き頃からたくさんの時間をその字典と共に過ごしてきたということだった。

 竹生は八歳になった。小学三年生になった彼は年のわりには高い背丈をしていたが、体躯はほっそりとしていて弱々しくあり、加えてくにゃりとした猫背でもあった。それらのことを考えると、彼の見てくれはまるで雨に打たれたすすきのようだったと言えるのかもしれなかった。元々大人しい子供だった竹生はやはり八つになってもとても落ち着いていた。が、その気質が原因で周りからはよくからかわれたりしていた。ひ弱だとか木偶の坊だとかを彼はよく周囲の男共から言われた。のろまだとかどんくさいであるとかは女共から言われた。男らは竹生の年齢にそぐわない大人びた感じがやけに気に食わなかった。だからそのむしゃくしゃとした気持ちを竹生にあからさまにぶつけることをしていた。一方の女達は四六時中ぼんやりとしていた竹生の様を陰で囃し立てた。とろい、あほ、気味が悪い。とにかく色々な言葉でこそこそと彼の悪口を言い合った。竹生に対するからかいは徐々に苛烈を極めていった。そう、竹生は典型的ないじめられっ子だった。しかし竹生はそんな周りのことなど気にも留めずにいつでも静かに微笑んでばかりいた。彼は何を言われても怒らなかったし、何をされても泣かなかった。すると周囲の人間は、そんな期待外れの反応を示す竹生にさらに強い苛立ちを覚え始めた。何とかして彼を苦しませたり泣かせたりしたいと、竹生へのいじめはますますひどくなるばかりだった。だが、それでも竹生は微笑するのみだった。酷い仕打ちを受けているはずなのに、身を削られるようなきつい言葉を投げ付けられているはずなのに、彼はにこにことあどけない笑顔をふりまいて見せるのだった。それはどうしてか。それはつまり、彼がいじめられているといったことなどどうでも良くなってしまうくらいに、満ち足りた毎日を送れていたからに相違なかった。そしてその満ち足りた毎日というのは言わずもがな、大好きな書道にひたすらに熱中する日々のことを指し示していた。本来ならば辛いはずの日常に光を与えてくれるもので、竹生にとても温かな何かを与えているもの。この頃の竹生にとっての書道というのはまさにそういったような存在であったと言えるのかもしれなかった。あるいは竹生の興味を掴み続けて離さない書道というのは、もはや竹生にとっての最大の生きがいとなっていると言ってしまっても良いのかもしれなかった。とにかく竹生には書道があった。書道をしていられる時間があるのであれば、周りからの嫌がらせなど全く苦にならない。書道が出来るのならば何も怖いものなどありはしない。そんな風に思いながら竹生は熱心に書に取り組み続けていて、相変わらず父母から買ってもらった字典を用いての臨書を飽きることなくとことん繰り返していたのであった。

 そんな竹生に父は声をかけた。何でもない日の何でもない夕食時のことであった。

「書道は楽しいか?」

 唐突にそんなことを聞いてくる父に竹生はほんの少しだけだが驚いた。普段は寡黙な父親が変に作り笑いを浮かべて聞いてくる様は彼に少しの違和感を覚えさせた。しかし竹生はそんな風に感じたことを表には出さずに、なるべく自然に、けれども嘘のない本当の気持ちを伝えることをした。「うん。楽しい」

「そうか」

 父はそう言って温かな味噌汁を一口啜った。どこかそわそわとしていた父は竹生のその返事を聞いてほっとしたらしく、今度は先のような無理に浮かべたものではない柔らかな笑みを竹生に見せていた。するとそんな父の隣でくすくすと笑い始めるのは母だった。母は言った。「ふふ。何よ、急に改まっちゃって。そんなの分かり切ってることじゃない。ねえ、そうよね?」

「うん。……本当に楽しい」

 竹生は噛み締めるようにそう返答した。その言葉の中には彼の本心が如実に反映されていたと言って良いのかもしれなかった。書道が心から楽しいと思えていたからこそ自分は今こうして家族との時間を楽しく過ごせているのだろうと、竹生の頭にはふとそんなことが思い浮かんできていた。もしも書道が生活の一部となっていなかったのならば、きっと自らの心を穏やかに保つことは出来なかったはずであると、竹生は再度書道への感謝を胸中で募らせていた。彼はほかほかの白飯を一口食した。米の優しい甘みが口の中にすっと広がるのを純粋に味わえることは、今の竹生にとっては実に貴重なことであった。

「……そっか」

 母は竹生ににっこりと微笑みかけながら言った。そしてその後に「良かった」とゆっくりと言った。そうすると竹生は「うん」と控えめに返して、また一口温かな飯を食べた。母の眼差しはとても優しくて、それは優し過ぎるくらいであるとも言えて、竹生はそのような目で見つめられているのが何だか恥ずかしくてちょっと嫌だった。しかし竹生は母が多くの言葉を紡ごうとしないことに対してありがたいと思っていて、だからこそ竹生も無理に話を広げようとはしなかった。書道が楽しい。この確かな事実を伝えられただけで彼は満足していたし、そのこと以外を告げる必要などまるでないように思えた。何もかもを包み隠さずに話してしまえるような明け透けな関係であるとは言えなかった竹生と父母ではあったのだが、竹生はそれで良いのだと一人で思った。むしろ全てを開けっぴろげにしてしまったのならば、きっと両親は自分が思うのとは違う現状を描いてしまって、抱くべきではない苦しみを抱いてしまうかもしれない。竹生はそれだけはあってはならないと強く自分を戒めた。彼はほんのりと温かい味噌汁を啜った。その味はいつもと何も変わらないいつも通りの母の味であった。

「そうだ! 前買ってあげた字典あるでしょ? いつも使ってるやつ。あれ、もう随分とぼろぼろじゃないの。大事に使っているのには感心するんだけど、流石にあれくらいにまでなっちゃうとね、新しいものを買った方が良いと思うのよ。だからね、どんなのが良いのかを先に聞いておこうと思って」

 母はそう言うと「ね? あなたもそう思うでしょう?」と続けた。竹生に何かを買ってあげられることが嬉しくて仕方がないと言わんばかりに、隣に座っている父へときらきらとした視線を送る母。彼女がいるというただそれだけのことで場はいつだって華やいだ。明るくて優しい、凄く居心地の良い空間を瞬時に作り上げてしまえる母は、月並みな物言いにはなってしまうのだが、まるで魔法使いのようだったと言えるのかもしれなかった。するとそんな彼女の問いかけに対して父は「そうだな」とだけ返した。それ以上を話そうとはせずに、また母と目を合わせることもせずに、父はただ静かに味噌汁を啜ってばかりいた。しかし多くを語ろうとはしない父の心中は彼の表情を見てしまえばすぐに理解出来てしまった。父はひっそりと笑っていた。だから母もそれを見て「ふふ」と笑った。父もまた息子に何かをしてあげることを良しとしていた。そのことがはっきりと分かった母は余計に嬉しくなったし、同時に何としてでも竹生に良い品を買い与えなければという使命感にも似た感情に駆られていたりもした。しかしそんな両親とは違って「いや、そんな、大丈夫だよ」と字典を購入してもらうことに消極的な姿勢を見せるのは竹生であった。竹生は言った。

「確かに傷んできてはいるけど、まだ使えるし、新しいものを買うのは何だかもったいないよ。それに父さんと母さんには申し訳ないって気持ちになる。僕にとっての書道はただの遊びでしかないのに、僕が好きでしているだけに過ぎないのが書道だっていうのに、父さんと母さんはいつも僕に付き合って色々なことをしてくれる。例えばいつの間にか半紙を買い足してくれていたり、例えば新しい筆を用意してくれたりというのがそう。二人はいつだって書道に理解があって、いつだって僕が書をするための環境を整えてくれていて。それはとてもありがたいことで、だからこそ僕は好きなだけ書が出来るし、だからこそ僕は書道っていうものを頑張れているんだと思う。……でも、僕はやっぱり『ごめんなさい』って気持ちになるんだ。僕なんかのために時間を使うことが、父さんと母さん、本当は嫌なんじゃないかなってね。だからさ、新しい字典は買わなくても良いよ。うん、きっと買わない方が良いんだ」

「……え? 書道がただの遊び?」

「……? うん、そうだけど……」

「どうして?」

 突然母の声は暗く沈んだものになった。そして母の急変ぶりを不思議がっている竹生に対して、「新しい字典は必ず買いますから。良い? 必ずよ」ときっぱりと言い加えた。強い口調で言い放たれたその言葉の中には若干の怒気が含まれていた。竹生は一瞬びくりとなった。そして自分は何か母を怒らせてしまうようなことを言ってしまったのだろうかと狼狽した。ちらりと母の顔を伺うことをすると、彼女は実に不機嫌そうな表情をして竹生のことをきっと見返してきた。竹生はまたしてもびくついてしまった。しかし今の彼には母がなぜ急に気分を損ねてしまったのかがよく分からないでいた。話の内容を思い返してみても別段顰蹙を買うようなことは言っていないような気もするのだが、現に母は今確かに機嫌が悪くなってしまっていた。しかしやはり自分には母の気分を害するようなことを言おうとする気は全くなかったし、実際そんなようなのを口にした覚えもなかったはずであった。竹生はぐるぐるとそのようにして思考を巡らせていたが、彼の中に明確な答えといったものが浮かんでくることはなかった。するとそんな竹生に対して母はやけに神妙な調子で語り出した。

「とても大きな勘違いをしているようだからはっきりと言っておくけど、私も、それからもちろん父さんも、書道のことが重荷だなんて決して思っていないのよ? 親は子供の世話を自然と焼くもので、子供のことを無条件で支えるものなの! 分かる? 自分の子供が夢中になって取り組んでいるものに協力しないなんてことがあるもんですか! こっちはちっとも無理なんかしていないし、むしろ好きでやっているの。それを何ですか、『申し訳ない』って。何ですか、『ごめんなさい』って。母さん、正直ショックよ?」

 母はさらに言った。妙に優しげな声色はむしろ何だか寒々しかった。「そんなこと言わないでよ。私達に迷惑がかかっているのかもしれないだなんて、そんなこと思わないでよ。……息子が好きでしていることを精一杯応援したい。大切な我が子が一生懸命に頑張っていることをサポートしていきたい。私達はいつだってそういう気持ちでいるし、いつだってそういう心を忘れたくないって思ってる。……楽しそうにしている息子の姿を誰よりも近くで見てきていた。そんな姿が親である私達の気持ちを大きく揺り動かした。だから半紙を買ってあげたし、だから新しい筆を買ってあげた。少しでも我が子の力になりたいって、私達にはそうしてあげることしか出来ないけど、でも、そうしてあげることは出来るって。……だからね、そんなこと言わないで。『申し訳ない』だなんて、言わなくていい」

 そう言い終えた母は最後に「ごめんなさい。ちょっと言い過ぎちゃったかも」と謝った。しゅんとなる彼女は後は無言で飯を食べるのをするばかりだった。せっかく家族揃って穏やかに食事をしていたのにそれを台なしにしてしまった。この時の母はそういった気まずい心境にあったと言ってしまって良いのだろう。実際和やかだった場の空気は母の竹生への叱責によって大分張り詰めてしまったと言えるのかもしれなかった。そしてこの時の母は妙に変な気持ちにもなっていた。それはようするに彼女が、竹生に自らの思いをまっすぐに伝えることは出来た、自らの気持ちを偽ることなく思っていることを思っているがままに竹生にぶつけることは出来たと清々しくあった反面、我が子を安直に叱り付けるべきではなかった、気をいささか荒げすぎてしまったといった反省めいたものが、彼女の胸の内でちらちらと顔を出してもいたということに相違なかった。すると彼女はまたがぶりと口一杯に飯を頬張った。とにかく今の母はそうやって飯を食らって自らの気を紛らわすことしか出来ずにいた。

「ごめんなさい母さん。僕、母さん達の気持ち、全然分かっていなかった。……本当にごめんなさい」

 竹生は箸をそっと手元に置いてから言った。彼は自分がどれほど大切に育てられているのか、どれほどの愛情を二人からもらってきたのかをやっとのことで理解出来たような気がした。そして自分の両親に対する遠慮がむしろ二人の思いを無下にするものであったのだと今さらながらに思い知ったような気もした。だからこそ竹生の口からは「ごめんなさい」という言葉がこぼれ落ちた。素直に父と母の好意に甘えるというのが必要な時もあるのだと気付いて、親と子供の関係というのはやはりそう単純ではないのだというのも知って、竹生はこの時にこそ本当に居たたまれない気持ちになり、胸の辺りをきゅうと締め付けられているような気になった。するとそんな竹生へと声をかけたのは父である。父は言った。

「謝ることなんて何もないんだ。そんな顔をするな」

「……父さん。……でも」

「むしろ悪いのはこちらの方なのかもしれない。俺達がしていたことは手助けではなくただの押し付けがましい行為に過ぎなかったのかもしれない。……そんな風に考えていただなんて思わなかった。想像することさえ出来ずにいた。俺達は親だというのに、我が子の気持ちを理解することなく、理解しようとすることさえもなく、ただただ自分達の期待や望みといったのを無理に強いてしまっていた。だから謝るな。暗い顔をする必要なんてどこにもないのだから」

「期待や望み?」

「そうだ。しかしそれらはあくまでも俺達が勝手に考えてしまったことだ。気にすることではない」

「父さん達は僕にどうなって欲しいの?」

「気にすることではないと言っている」

「でも父さん。僕は知りたいんだ。知っておかなければならないことなんじゃないかって思うんだ。だから教えて。……教えてよ、父さん」

「……」

 父は黙り、一旦下を見て、それから隣の母を見た。見られた母の持つ箸はもうすでにとまっていた。彼女は父の何かを言いたげな顔をちらと見ると、食べているものをこくりと飲み込んで少し寂しそうな笑顔を浮かべた。母は落ち着きを取り戻していた。その嚥下にはどうやら先までの繕った感情を静める効果があったらしい。そんな母は箸をそっと置いた。そして竹生の方を向いて懇々と話をし出した。

「書道というのが好きで仕方がないというのならば、一生書道というのに寄り添って生きていきたいと思うほどにそれを好いてしまっているのならば、いっそのこと書家という職業に身を投じてしまった方が良いのではないかと私達は考えていたの。あんなにも書道に熱中し、あんなにも楽しそうにしている姿を一度目にしてしまったのならばもうそういう風に思わずにはいられなかった。嗚呼、この子はとても大きな幸せというのを感じられている。書道というのがこの子にたくさんの幸福を与えてくれている。私も、それから父さんもそんなように思って、だからこそ書道家という職がぴったりなんじゃないかって二人で考えて。もちろん書家になるのは簡単なことじゃない。楽しくないこともきちんと熟していかなければなれるものではないというのも分かってる。でも、だからこそ二人で精一杯手助けをしていこうって思っていたの。だからこそ二人で、陰ながらではあるけれど、支えていこうって張り切っていたの。……でも、それはどうやら間違いだったみたいね。私達がしてきたことは父さんの言うようにとても身勝手で恣意的、私達が良かれと思ってしていたことはむしろ息子に抱く必要のない気遣いを生ませるだけのただのお節介に過ぎなかったのかもしれない。さっきは変に怒ってしまってごめんなさい。そしてこれまでずっと気を遣わせてしまっていたことを謝らせて」

 母はすると竹生に深く頭を下げた。そして小さくもはっきりとした声で「本当にごめんなさい」と彼に言った。真心のこもった実に誠実な謝罪であった。しかし母はこれまでの竹生への行いについてを簡単には拭い去れなかった。一体自分はどれほどの重荷を彼に背負わせてきてしまったのだろうか、一体自分はどれほどのプレッシャーを彼に与えてしまっていたのだろうかと、彼女は謝りながらにそういったことを考えていた。竹生は自分に対して申し訳ないとだけを言った。彼にとっての書道というのは単なる趣味でしかなく、それに心骨を注がれるのが何だか居たたまれないとだけを竹生は言った。しかし母はこれらの言葉を決して鵜呑みにしてはいけないのだと一人で思った。竹生の言葉は自然と選ばれて自分達に伝えられた。が、きっと本心では息苦しい思いを抱いていたに違いないと母は思ったし、もしも書道だけに何もかもを費やしている今の竹生が、何らか(例えば事故だったり病だったり)によってそれをその身から奪われる場合を考えられないほどに、彼女は非情ではなかった。自らが望まないことを強いられる辛さ。望むことを極端に絞ることの辛さ。それらのことを親である自分が考えることをしなかったせいで、息子はずっと余計な苦しみを抱えてこれまでを生きてきてしまった。そういうのを思うと母はとても胸が痛んだ。謝って全てが許される問題ではないのだ、謝ることで綺麗さっぱり解決出来る問題では決してないのだと母は考えていた。しかしそれでも彼女は竹生に対して謝ることしか出来ないでいた。謝るだけではいけないと分かっているのに、母は竹生にそれ以外のことをしてあげられなかった。それはつまり自分が竹生に目を向けてこなかったという表れに他ならず、母はそのことこそが何とも情けなく思えていて、そのことこそを痛烈に悔いていた。見ているようで見ていなかった。何も見てはいなかった。このことが母の胸中に重くのしかかってきていて、だからこそ彼女はいつまでも竹生に頭を下げるのをするばかりなのだった。しかしそのようにして詫び続ける彼女に対しての言葉を竹生は迷うことなく見つけられた。彼は母に「顔を上げて」と言った。とても優しく微笑みながら、世の中の全てを包み込んでしまえるかのような大きな愛を胸に彼はそう言った。

「でも、私」

「顔を上げてよ母さん。だって僕、今、凄く良かったって思えてるんだから」

「どうして? 私、とてもひどい母親だったのよ? 息子が望まないことを強要させてしまう親で、息子が求めていないことを無理強いしてしまう親で、しかもそれがいけないことであるというのについさっきまで気付かないでいた。……謝ることで初めて知れた。自分の目がどれほど節穴だったのかということを。そして自分がどれほど悪い母であったのかということを。どんどんと私の胸の中に広がっていくのは後悔。今では私がしてきてしまったことは決してちっぽけなことではないんだって痛いくらいに理解出来てしまう。私、どんな顔をして良いのかが分からないの。それほどのことを私は犯してしまったのよ」

「違う。違うよ母さん。母さんはちっとも悪くなんてないし、これっぽっちも謝る必要なんてないんだ。むしろ母さんは僕に新しい考え方を示してくれた。そう、本当にかけがえのないことを僕に教えてくれたんだ」

 母は「そんなことない」と依然として下を向いたままでぽつりとこぼした。そして変わらずに、「私はやっぱり駄目な母親」と自らを卑しんでばかりいた。しかし竹生はそんな母にゆっくりとした口調で一心に語りかけるのをした。「ううん、母さんは駄目なんかじゃない。母さんが僕の母親で本当に良かった。……俺の目を見て? ……どんな風に見える?」

「……」

 母は俯いたままで竹生の目を見ようとはしなかった。彼が自分に対して何かを告げようとすればするほどに、彼女はますます竹生の方を見られなくなっていた。慰められる資格なんて自分にはない。悪くないなんて言われるのは筋違いだ。母はそうやって自らを卑下するのを一向にやめようとはしなかった。彼女は今竹生の素直な優しさがどうしても受け入れがたく、竹生がこんなにも優しくあれることが信じられないといった心境にあり、なぜ彼は怒らないのだろうか、なぜ彼は自分のことを責め立てるのをしないのだろうかと、竹生のことが前よりも分からなくなっているという次第であった。親であるはずなのに子供のことが分からない。彼女はとうとう自分は竹生の母親としては失格なのかもしれないとさえ思い始めていた。そう思ってしまうほどに今の母は落ち込んでいて、つまり彼女の内心はかなりの傷を負っていると言って良いのかもしれなかった。しかしそんな母親に対して竹生はまだ話をした。母とは真逆の本当に穏やかで満ち足りた表情をした彼はしっかりと母親に向き合いながらに言った。

「僕にとっての書道はただの趣味でしかなかった。書道はとても楽しいもので、本当に凄く楽しいもので、僕の生活にはもうなくてはならない存在であると言ってしまって良いくらいの大切な遊びだった。書道をすれば、いや、書道のことを考えてさえいれば嫌なことや辛いことなんて全然気にならなかった。自然と気持ちが楽になっていつだって楽しい気分でいられたし、いつだってこれ以上ないってほどに幸せだった。全部書道のおかげ。全部書を趣味に持ったからこそ感じることが出来た楽しさや幸福なんだ。……でもね。僕は同時に何だかもやもやしていた。本当に楽しいはずなのに、そして本当に幸せってものを感じているはずなのに、僕はいつからかそれがまるで嘘みたいだって思うようになった。でもどうしてそんな気持ちになるのか、どうしてそんな思いを持ってしまうのかが僕には分からなかった。そして分からないままに僕は今まで書というものをし続けてきた」「でも分かったんだ。いや、気付くことが出来たと言った方が良いのかもしれない。なぜ僕はこんな気持ちになるんだろう。満ち足りているはずなのに、なぜこんなにも物足りなさを感じてしまっているんだろう。それらの答えはそう、僕が書道というものをもう単なる趣味とは思っていないからだとするのがきっと合ってる。僕にとっては遊びでしかなかった書道はもう遊びではなくなっていた。楽しいだけ、幸福なだけの書道というのが僕にとってはもはや書道とは呼べなくなってしまっていた。きっとそういうことなんだって今は思ってる。そしてそう思えるのは全部母さんのおかげなんだ。母さんが僕に書家になるという道を示してくれたからこそ、こんな俺に対して尽くしてきてくれたからこそ、僕はようやく一歩先へと進むことが出来るんだよ」

「……」

 母は気付けば顔を上げていた。そして竹生の目を恐る恐るではあったが見ていた。彼女はその時にようやく自分が温かな眼差しで見つめられていることを理解した。竹生のその瞳は母の心を随分と軽くした。まるで氷が溶けるようにして、自分の心の中にあった重苦しいものがじんわりと消えていくのを母は確かに感じていた。そうすると何であろうか、母の目には込み上げてくるものがあった。こらえようとすればするほどに涙はあふれてとまらなくなった。彼女の目頭は熱くなる一方で、どんどんと熱くなる一方であって、彼女はもう竹生の目をまともに見つめることが出来なかった。どうしたって見つめることが出来ないのだった。

「今までみたいなただ楽しいだけの書道はもう出来なくなってしまうのかもしれない。でも、それでも僕は書家になりたい。それでも僕は書家になりたいんだ。そうなればきっと、今よりももっと書道のことが好きになれると思うから。例え厳しくても、辛くても、きっともっと大きな喜びを感じることが出来ると思うから」

 静かにそう言った竹生は「だからね」とさらに続けた。屈託のない笑顔で母に微笑みかける彼は、ただただ素直に自らの思いを伝えようとしているだけに過ぎなかった。

「書道と出会わせてくれてありがとう。いっぱい手伝ってくれて、助けてくれてありがとう。母さん。僕頑張るよ。これからは母さんのために、そう、母さんのために書いていくよ。たくさん、本当にたくさんの感謝を込めて書くよ。……僕、努力するよ? 母さんがびっくりするぐらいの努力をして立派な書道家になってみせるよ。そして証明するんだ。母さんが僕にしてきてくれたことが決して間違いではなかったってことを。そして言うんだ、『母さんがいたからこそ僕は書家になれたんだ』ってね」

 竹生はすると少し照れくさそうにしながら「だからさ、その、こんな息子ではありますが、これからもどうぞ宜しくお願いします」と言った。そして「母さんがいなくちゃ始まらないよ。……これまで以上に手助けしてね?」と加えてにっこりと笑んだ。彼が母に対してこんな風に甘えるのは初めてのことだった。すると竹生はほんのりと恥じらった。そしてそんな風にふるまっている自分を思ってさらに気恥ずかしくなった。しかし同時に、このようにして母に対せるというのがこんなにも喜ばしいことであったのかと、胸の辺りがぽかぽかとなったりもした。そのようにして彼は自分の側にいるとても大切な人の存在というのをしっかりと確かめていて、そうすることによって彼は心をますますと温かくさせていった。

「うわーん! 竹生が優しいよお!」

 母は号泣しながらにそう言った。彼女はわんわんとまるで幼子のようにして泣きじゃくっていた。とことん目を腫らして大粒の涙を流すのをしていた。そうするとその場は一気に和んだ。そして緊迫した空気がほどけていった先に残ったのはふんわりとした優しさだった。母の中にはもう先まで抱えていたような重苦しいものはなかった。その代わりにあったのが竹生が紡いだ優しい言葉の数々だった。母はそれらを思うと余計に泣くのをやめられなくなった。痛いほどの優しさが彼女を泣きやませるのをしなかった。母は顔をぐしゃぐしゃにしながらに「ごめんねえ、ごめんねえ」と何度も言った。繰り返し竹生にそう言う彼女の声はがらがらだった。しかし、そんな母とは打って変わって朗らかな笑い声を上げるのは父だった。普段は寡黙な父がそうやって「ははは」と実に景気の良い顔で笑うのはとても珍しいことだった。そんな父は母に「全く忙しない奴だな。いつも通りに食事をしていたかと思えば急に怒ったりして、はたまた気分を沈めたかと思えば突然大泣きしたりなぞして。これではまるで赤ん坊ではないか。……はは。まあ、お前らしいと言えばお前らしいが」と言った。

「だってえ、竹生が、竹生があ」

「とりあえず一旦泣きやんだらどうだ? これではまともに話をすることも叶わん」

「そんなの出来ないよお! あなたが私を泣きやませてよお!」

「世話の焼ける奴だな。……まあ、何だ、お前はよく頑張ったんじゃないか? きちんと竹生と話をすることが出来たし、きちんと竹生の母親であることも出来た。竹生の言葉がお前に響いたのと同じように、お前の言葉もちゃんと竹生に届いたんだ。お前がどれくらい竹生を大事に思ってきたのかや、どのくらいお前が竹生に謝りたがっているのかといったのが余すことなく竹生に伝わった。……良かったな」

「うわーん!」

「さらに泣いてどうする」

 父は「これでは本末転倒ではないか」と肩をすくめた。そしてはあとため息を付いたりもした。父は「やれやれ。困ったやつだな」と言った。しかしそう言った父の顔は言葉とは裏腹で本当に優しかった。すると父は頑なに泣き続ける母の背中に彼の大きな手の平をふいに添えた。そしてしばらく何も言わずに彼女をさするのをした。そんな父母の様子を竹生は対面でじっと見ていた。竹生も父と同様何も言わなかった。ただ春の陽気のような温かな眼差しを二人に送り、ただ心中で二人のそのような様を「良いなあ」と思っていただけだった。竹生の頭にはその光景がとても鮮やかに残った。それはまるで一杯のコーヒーに流し込まれたミルクのようにして彼の中に溶け込んでいった。……少しの間そういう時間が流れた。そしてそれに従って母の涙は次第に収まっていった。そうするとおもむろに父は口を開いた。父は母を宥めながらに言った。

「俺には竹生に見られるような突出した才能がない。普段は偉そうに父親らしくあろうとふるまってはいるが、内心では俺なんかが竹生の父親で良いのだろうかといつも迷ってばかりいた。何の取り柄もない、ただ年を竹生よりも多く重ねているというだけの存在。俺は俺自身のことをそんな風に考えてきていた。思えば俺はこれまで何かに熱中したり、心の底から楽しいと思えるような何かを探したりをしてこなかった。平凡であることが一番であると勝手に決めつけ、勝手に自分を納得させて、何につけてもそこそこの努力しかせず、何につけてもそれなりの成果を得られればそれで良いとしてきた。でも、どうやらそういうのは単なる諦めでしかなかったらしい。俺はそうやって何もかもを諦めて生きてきてしまった。誇れるような生き方では決してないのは分かっていた。しかし俺はそんなつまらない生から抜け出そうとするのを今まで一度もしてこなかった。だからそんな俺が息子にしてあげられることなど何もないと思っていた。こんな惨めな俺が出来の良い息子のためにしてやれることなど一つもないのだと俺はまた諦めていたのだ。……半紙を買い与えたのも、新しい筆を用意したのも、結局は母さんだ。俺はそんな母さんの姿をただ傍観していただけに過ぎない。俺は本当に駄目な人間だ」

 父は竹生の方を見ずにそう言った。その時の彼の目はどこか空虚で疲れていた。父は黙った。テーブルを照らす電灯の光は少しだけ下を向く彼の顔に濃い影を落としていた。普段とは違う弱々しい父の姿。そんな彼の顔を竹生はまたしても何も言わずに眺めていた。そしてそんな父に対して心のどこかでもう話さなくても良いという風に思っていた。父の暗く沈んだ表情は彼のこれまでを嫌というほど竹生に知らしめるもので、そのことを思った時に竹生は父の触れてはいけない部分に触れてしまったような気になった。だから彼は耳を塞いでいたかったし、父にこれ以上惨めな気持ちになって欲しくなかった。しかし一方で竹生は父が再度話し出すのを辛抱強く待ってもいた。自分が話を聞くのに従って父はもっと深く自らの心を傷付けてしまうと分かってはいても、本当はそっと胸に秘めておきたいであろう話題なのだと分かってはいても、彼は父の言葉に耳を傾けるべきであると考えてもいた。うやむやにすることをせずにきちんと受けとめるべきであると強く思ってもいたのだ。するとそんな竹生の思いが伝わったからだろうか、父はもう一度口を開き、ぼそぼそとした口調で先の続きを話し出していた(控えめに語る父はしかし、一つ一つの言葉を懸命に絞り出していたと言って良いのかもしれなかった)。

「きっと俺はこの先も何も出来ないままなのだろう。俺には備わっていない竹生の才や気概というのを心の奥底で滅法うらやみながら、どうして俺とは違ってそんなにも優秀であり続けられるのだろうかと大いに嫉んだりもしながら、それでも俺は何をするでなく、ただただ足踏みをしていることしか出来ずにいるのだろう。俺は心根の腐った、志も何もない本当に弱い男であるのだから」「そんな俺が、何の取り柄もない抜け殻のような俺なんかが、果たして見ていて良いのだろうか? 竹生、俺はお前のことを見ていても良いのだろうか? 見ることが許されるのだろうか? ややもするとお前のことを憎んでしまいそうなこの俺が、お前のことを傷付けてしまいかねないこの俺が、お前のことを父親面して見守るということが許されるのだろうか?」

「うん」

 竹生ははっきりとそれだけを言った。それ以外の言葉を紡ぐ気はなかった。それを聞いた父はまた黙った。そうすることによって竹生に言われた一言を確かに噛み締めていたのだった。それが世辞でも何でもない、竹生の本心から出たものであるのを理解した時、父の目頭は恐ろしいほどに熱くなった。それはもはや痛みに近しいものであった。父の思考は一瞬停止した。そして後はゆっくりと彼の頬を伝っていくものがあるだけだった。そうすると父は微かに笑んだ。まるで花が咲くようにして彼は微笑むのだった。父は「甘いな、お前は」と言った。竹生はそれに対して「うん」と言った。父はそれを聞くと「甘過ぎるくらいだ」と言った。そう言われた竹生は「うん」と頷いて軽やかに笑った。そう指摘されることがむしろ嬉しいと言わんばかりに笑うのだった。すると父は竹生の笑顔を見て、反対に今の自分のことを思った。きっと今の自分は今までにないくらいに情けない顔をしているのだろうと彼は密かに思っていた。竹生が笑っているのはきっとそういうことも関係しているのだろうなと一人で思ったりもしていた。大の大人である自分が、竹生の親である自分が、八つの息子から一言で諭されて涙する姿というのは彼の目には大層面白く映っているに違いないといった、言ってみるならばふがいない気持ちになったりもしていた。父は見せたくない面を見せてしまったと自らを恥じた。しかしその一方で、これで良かったのだ、いや、これが良かったのだといったのを感じたりもしていた。やっと竹生に本当の自分というのをさらけ出すことが出来た、やっと自分は息子に対して飾ることなく接することが出来たと、そんな風に彼は考えていた。そしてこの時にこそ自分は初めて竹生の父親であれたといった実感を覚えたりもした。そのことこそが彼にとっては実に喜ばしいことであった。加えてそのことが、彼の心の中に碇のようにしてあった負の感情を静かに取り除くに足るものでもあったのも、やはり否めなかった。父は流れ出る涙に従ってそういったのが次々と外に出ていくのを確かに感じていた。そうしたら自然と父の口からは「敵わんなあ」といったのがぽろりとこぼれ出た。しかしそれによって嫌な気持ちになるというようなことは決してなかった。むしろ彼は、自分が息子よりも劣っているというのを素直に認められたことをとても心地良く思っていた。

「ありがとう竹生」

 父は伝う涙を拭いながらにそう言った。「いつまでも泣いていてはみっともないよな」

「うん。ちょっとだけかっこ悪い」

「はは。そうだよな。……だがな、いつまでも格好の付かない俺ではないぞ? 竹生よ、俺はお前に字典を買ってやることに決めた。そう、俺がお前に初めて贈るプレゼントだ。どうだ、少しは見直したか?」

「うーん、どうだろうね」

「いや、そこは見直しておけ」

「はは。うん。ちょっとね」

「ちょっとかよ」

 父はそう言って肩をすくめた。だがその後で「まあ、良いか」と言ってにひひと笑った。するとそんな父を見た竹生は、父は本当はこんな風に笑う人だったのかと一人で驚いていた。そしてまだまだ自分は父のことを知らないのだなと改めて思った。しかし竹生は同時に自分に言い聞かせていた。父を知らないというのならばこれからゆっくりと知っていけば良い。例えば父の可愛らしい一面であったり、例えばたくましい一面であったりを、焦ることなくのんびりと見つけ出していけるのならばそれで良い。竹生はそうやって父との未来についてを温かな心持ちで描いていくのをした。彼は父との今後に希望を見出していた。それは竹生の中に少しは父と打ちとけられたというのがあったからこそ抱けた希望であった。竹生はわくわくと胸を弾ませた。今まで知らなかった父の新たな顔というのをこれからはたくさん知ることが出来る、いつも自分に対して気を遣っていた父の気兼ねのない姿というのをこれからはすぐ側で見ていくことが出来ると、竹生はとても喜んでいた。そしてそれは何も竹生に限ったことではなかった。父もまた竹生と同じように、息子と育むこれからというのをとても楽しみに思っていたのであった。

「それじゃあ、今持ってるのよりも分厚いのが良いなあ。もっと多くの字が載ってるやつで、いっぱい書についてを知ることが出来るようなやつ。あ、それから丈夫なもの! ……長く使えるように。ずっと大切に出来るように」

「なるほどな。買う側としてはそうやって細かく指定してくれると大いに助かる。よし。もういっそのこと一番高級なものを買ってくるとするか」

「え、本当に? 嬉しいけど、お金は大丈夫なの?」

「ああ。問題ない」

 父はそう言って母の肩をぽんと景気良く叩いた。そして「母さん。愛しているぞ」と良い声で言った。しかしそのように言われた方の母は「は?」と言ってぽかんとするばかりだった。そして何の脈絡もなく言われた愛の言葉を「頭大丈夫?」というので一蹴した。

「え? あなた、まさか」

「ああ、その『まさか』だ」

「……信じられない。意気揚々と買ってやるなんて言っておきながら、何? お金ないの?」

「その通りである」

「この甲斐性なし! 馬鹿!」

 母はすると大きな溜息を付いてさらに「呆れた」と言った。そして「黙って聞いてて損した。やっぱりあなたってくずね。最低よ」と言った。しかし父はけらけらと笑って「何を今さら。昔からだろう?」と言ってのけた。「だから頼む。……今回だけだ」

「……何回聞いたか分かんないわよ、それ。はあ。今回だけだからね? というか、お金工面出来たら返してよね!」

「ああ、もちろん返すとも! ありがとう母さん! ありがとうよ、母さん!」

「うるさい。しつこい」

 母は鋭くそう言ってきっと父の方を睨んだ。が、きつく一瞥した後の彼女はくすくすと笑っていた。そして「さ! 早く夕飯済ませちゃいましょ! 竹生! じゃあそういうことだから、待っててね?」と気を取り直して言った。「楽しみにしててよー? 滅茶苦茶良いの買ってくるからね!」

「うん!」

 竹生はとても元気良く返事をした。そしてまるで犬がきゃんと鳴くようにして発せられたその返答に、父も母も朗らかに笑って返すことをした。三人は箸を取った。そうして残りの夕飯を心から楽しんで平らげたのだった。

 数日後。父母はぬるりとこの世を去った。交通事故だった。

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