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花々の書  作者: 紙屑
10/15

竜胆、其の十

 藍は明らかに鋭い口調で言った。目は一切笑ってはいなかった。「竹生? この書は一体何?」

 一瞬時がとまったかのような錯覚に陥ったのは竹生と花梨と林檎だった。先までの高揚感や幸福感といった温かな心持ちは、藍のその冷め切った口調によって瞬く間に掻き消された。三人の思考は停止し声すらも出てこない。場の空気は藍の一言によって凍り付いていた。少しの間誰も何も言わない時間が続く。それはほんの少しのことだったはずなのに、竹生や花梨や林檎には、それがまるで永遠であるかのように感じられていた。しかし、そんな時を破り去ったのはそんな時を作り出した張本人である藍だった。藍は竹生に聞く。

「聞いてる? 竹生。私は竹生に質問したんだけど」

 この問いによってやっと正気を取り戻した竹生は慌てて、「う、うん」と声を発した。そして彼は藍に促されるがままに、「昨日、俺が書いた書のうちの一枚だよ? 俺達、昨日は名前を書くことをしていたんだ」と、少々声を震わせながらに言った。彼は無理に笑顔を作って藍の問いかけに答えるのをしていた。藍の急変をなかったことにするかのように、竹生は努めて明るくふるまうのをするばかりである。

「そ、それはさっき私が言ったことじゃーん! 竹生ってばぼうっとしちゃってもー。藍姉が聞いているのはそういうことじゃないじゃん。……ねー林檎、そうだよねー?」

 竹生のそんな態度につられるようにして話し出したのは花梨だった。花梨もまた竹生と同様、作り笑いを浮かべながらに無理にテンションを上げて場を和ませようとする。しかし話をふられた林檎の方は無言で藍の顔色を伺うばかりであり、話を無視された花梨は、「あ、あれ? ちょっと林檎まで何よー。ちゃんと話聞いてよねー、もー。何? 皆して上の空? 何で? 眠いの?」と、冗談めかして甲斐甲斐しくおどけてはみせる。しかしその奮闘も空しく、花梨はまた静かになる場に流されて、「え、えっとー」と口ごもってしまった。だが、花梨の胸中には沈む場に反してある先の思いがしぶとく残っていた。そう、きっと藍は自分の想像したように悔しがっているのだろう。もしくは藍は自分達のことをうらやんでしまって、ついこんな態度をとってしまったというだけなのだろう。花梨はそんなようなことを反芻して藍の冷たさに対する理由付けを行う。きっとそうだ、そうに違いないと自らに言い聞かせてやることによって、目前の藍を否定しようとする。そんな中で藍は言う。花梨の希望には到底そぐわないことを彼女は厳かに言い放つのだ。

「そう、私が竹生に聞いているのはそういうことじゃない。私が聞いているのはこの竹生が書いた書そのものについて。竹生。はっきり言って全然駄目。自分で気付かなかった? この書はとても大きな間違いを犯してるってことに。……零点だよ? この書に点数を付けるとしたら零点。違う? いや、違わないよね?」

「……え? ……零点?」

 言われた竹生はきょとんとしていた。それもそのはず、なぜなら竹生にとっては突然理由も分からずに機嫌を損ねた藍から、どうしてかは定かではないが、自身の書を零点であると酷評されたことになるからである。竹生はもう一度「え?」と言った。どうやら竹生の頭はまだ藍からの言葉を完全には整理し切れていない状態にあるらしい。そしてそれは何も竹生に限ったことではないようで、花梨と林檎もまた彼と同様に驚きを隠せないでいると言い表すことが出来るのだろう。二人は分かりやすく唖然としていて、今まで完璧で非の打ち所がないと信じていた竹生の書が、あろうことか零点だと言われてしまうなどとは想像さえもしていなかったものだから、もしかするとそう言われた竹生本人よりもずっと、花梨や林檎の方が驚いていたと言えるのかもしれなかった。すると藍は「そう。零点。全然駄目。話にならない」と吐き捨てるように言って、後は竹生のことをぼんやりと眺めるばかりであった。

「……藍姉。それってどういうこと? 竹生の書が、その、零点? え? 待って、本当にどういうことなの? 私にはその書がむしろその逆であるようにしか見えないんだけど」

 花梨は狼狽えながらに藍に問う。その言葉の中にはやはり隠しようのない驚きが色濃く表れていた。竹生の書が零点であるなんて信じられない。竹生の書く文字はいつだって完璧に決まっている。花梨の返答にはあるいはそういった疑念や思いといったものも伺い知ることが可能なのかもしれない。とにかく花梨はショックを受けていた。頑なに信じていたことが裏切られたことに強い衝撃を受けていたのは、決して嘘ではなかったのだ。

「花梨は少し黙ってて。私は竹生と話をしてるんだ。……竹生。本当に大事なことだからもう一度言わせて? 良い? はっきり言ってこの書は間違っている。肝心なところが違っているの。でもそれは決して間違ってはいけないところで、絶対に分かっていなくちゃならないところで、なのにこの書はその間違いばかりを書いてしまっている。だから私はこの書を零点とした。これを私はとても全うな評価であると確信している」

 藍は一呼吸おいてから「まだ気付いてなかったのね」と小さく口にした。しかし竹生にはその発言の真意がまるで分からなかった。自分は一体いつから、一体何に気付いていないというのか。技術的なことだろうか、それとも精神的なことだろうか。あるいはそれは体力的なことなのか。そもそも自分には気付くべきことなどあるのだろうか。分からない。何も分からない。そうやって竹生の考えは分かりやすく乱れていた。

「本当に大切なことなのに。……必ず理解していなければならないことだっていうのに」

「……」

「竹生はまだ書家になりたい? 言ってたよね? 『俺は書家になるのが夢なんだ』って。……もうその夢は諦めてしまったの?」

「違う。俺は夢を諦めたりなんかしていない。今でもずっと目指しているよ。心から願っている。俺は絶対に書家にならなければいけないんだ」

 竹生は神妙な面持ちで強く言った。その発言は今の彼の全てを表していた。彼は自らで強く抱いてきた書家になりたいという夢をもう諦めてしまったのかと言われたことがとても悔しかった。強く望み続けてきたというのに、そして望むだけではなく懸命に励んできたというのに、藍はそんな心持ちで書いた竹生の書を見て夢を諦めたのかと言う。竹生はそのことが何よりも嫌で何よりも悲しかった。だから彼は藍の言葉を認めようとはしなかった。彼は彼女に強い眼差しを向ける。普段の温厚な彼からは想像も付かないような目をして真っ向から彼女に対立する。

「そう。よく分かった」

 藍はそう言うと持っていた竹生の書を林檎へとそっと返す。「竹生。あなたは書家にはなれないのかもしれない」

 ぽつりとそう呟いた藍には表情というものが欠落していた。その様は突如として死んでしまった飼い犬の死体をぼうっと見ているみたいで、何というか、何もかもが乾き切っていた。彼女は竹生を一切哀れまなかった。それどころか彼女のその面持ちからは何の感情も伺い知れなかった。だからそのような藍の顔を見ていた竹生にも思うことは何一つわいてこなかった。しかし竹生の頭の中ではそういったのに反して、「あなたは書家にはなれないのかもしれない」という藍から言われた言葉が木霊していた。あるいはそれはまるで道端に吐き捨てられたチューインガムのようにして竹生の頭にこびり付いていたとも言えるのかもしれない。それはしつこく竹生の思考を支配した。そのこと以外を考えるのを竹生の頭は断じて許そうとはせず、言うなれば竹生はその言葉に完全に囚われてしまっていた。竹生は身動きも取れずにただただその場に立ち尽くすのみであり、そしてそんな竹生に対する藍はというと相変わらず非常な姿勢を崩そうとはしなかった。……誰も何も言わない時間が再度訪れた。締め切られた部屋の中には今朝から休むことなく可動している暖房の音だけがやけに大きく鳴っている。すると、そんな静けさと暑さが混在する中で竹生は切り出す。彼の目は未だに目前の藍だけを捉えていた。

「なるんだ。俺は書家になるんだ。ならなければいけない。なれないなんてことは許されないんだ。決して許されることではないんだ。なるしかない。俺は書家になるしかないんだ」

 そう言った竹生はくるりと踵を返した。そして部屋を後にしようと早足で戸の方へと進んでいく。するとそれを見て声を荒げる者があった。花梨は「待って! 竹生、待ってよ!」と訴えて彼を呼びとめようとする。しかし竹生の歩みは一向に緩もうとはしない。彼は花梨の呼びかけに応えることをしない。竹生はすでに戸に手をかけてここを出ていこうとしていた。その時である。長い間沈黙を保っていた林檎が竹生の方へと急に駆けていったかと思えば、彼女はぴたりと彼の背中にその身を寄せていた。

「行かないで。竹生。行かないで」

 林檎は小さな声で言った。小さな声でしか彼女は言えなかった。彼女は竹生のダウンジャケットを掴んでいた。竹生を離すまい、決して竹生を行かすまいと、林檎の指はしっかりと彼のことを捕らえていた。捕らえた上で彼女はさらに「帰らないで」と竹生に唱え続ける。なのに手の平に込められている力は弱々しかった。ここにいて欲しいと強く願っているはずなのに、その力は本当にちっぽけで今にもなくなってしまいそうだった。そして林檎はそのことがとても嫌だった。是が非でも竹生を行かせてはならないと思う一方で、自分は竹生をとめられるほどの何かを果たして持ち合わせているのだろうかといったのが自らの手の感じから読み取れてしまう気がする。それが本当に嫌で、本当に嫌で嫌で仕方がなくて、だからそれを認めないために林檎は、より自分の体を押し付けるようにして竹生の背中へとくっつけていた。そうしなければ竹生は自分の手の届かないところへと行ってしまうような気が林檎にはしていたからだ。そうしなければ竹生はもう以前の竹生ではなくなってしまう気がして怖かったからだ。

「そうだよ竹生。まだ帰るには早いじゃん。来たばっかりじゃんさっき。それにまだ書いてすらいないじゃん。ほら、せっかく今日は道具だって忘れずに持ってきたんだし。きっと竹生に使われたがってるって、道具達もさ。自分の使い慣れた道具で書くのって本当に気持ち良いよー! 書道がもっと楽しくなる! 好きな書道がさらに大好きになる! 最高じゃん! これ以上のことって他にないじゃん!……だからさ、ねえ、竹生。……竹生、帰らないでよお」

 林檎の切実な訴えにつられるようにして花梨もまた竹生をどうにかして引き留めようとする。努めて明るくここにいるべき理由を説こうとする花梨はしかし震えていた。竹生が行くのをとめたい、どうしても竹生を行かせたくないという衝動は彼女の胸をはち切れんばかりにしている。一緒に書道をしてくれて、毎日のようにしてここ川住書道教室での書道というのに向き合ってきてくれた竹生。それは結局のところ彼が自分と同じ思いでいるからなのだと花梨は今の今まで信じていた。ここに来れば大好きな人達と共に大好きな時間を過ごすことが出来るから、ここに来れば大好きな人達と楽しく書道をすることが出来るから。そういったのが竹生の中にあったからこそ彼はこの場所に通い続けているのだと花梨は信じて疑わなかったのだ。しかし竹生は今この場から立ち去ろうとしている。書家にはなれないのかもしれないと言われて、しかしそれでも自分は書家になるしかないのだと言い残し、そしてここから立ち退こうとしている。それは一体どういうことか。それはつまりここで自分と書道をしていると、竹生にとって一番大切な書家になるという夢を叶えられなくなってしまう、ということを意味しているのではないだろうか。そしてそれはようするに、自分は竹生にとって邪魔な存在でしかなかったということを意味しているのではないだろうか。竹生にとって自分は足枷でしかなかったのかもしれないということ。そのことが花梨をとても辛くした。自分は竹生の障害でしかなかった。竹生にとっての邪魔者でしかなかったという思いが花梨の頭の中にまるで土石流のようにして流れ込んでくる。それならば自分は竹生をとめられない。竹生が自分のせいで夢を叶えられなくなってしまうのかもしれないなら、私はどうしたって竹生をとめることなど出来はしないと花梨は考える。しかしそれでも花梨は竹生に帰って欲しくなかった。ただひたすらに帰って欲しくなかったのだ。花梨は自分の冴え切る頭を呪った。自らの感情に素直でいること。それが花梨の常であったはずだというのに、この時にはそれがどうしても出来なかった。竹生を思えば思うほど、竹生にここにいてほしいと願えば願うほどに、竹生はもうここにいるべきではないというのを実に明確に悟ってしまう。そのことが花梨にとってはどうしようもないほどに悲しくて、だからこそ彼女は悲痛な訴えを内にしまい込むことが出来なかったのである。すると戸に手をかけたままでいた竹生は林檎からも花梨からも顔を背けたままで「ごめん。行かなきゃ」と言った。それだけを言い残した竹生はしがみつく林檎からとても優しく離れて部屋を出ていった。部屋に残された三人は竹生を追うことをしなかった。花梨はへたりと座り込み、林檎はただ戸の前で立ち尽くし、そして藍は何も言わずに窓の外を眺めているだけだった。

 午前十時頃である。帰宅した竹生はまずダウンジャケットを脱いでそれを玄関先のハンガーラックにかけた。靴を脱いで家に上がった彼はすぐに洗面所へと行って手洗いとうがいを済ませた。息は乱れていた。しかしそれは急いで帰ってきたことが原因となっているわけではなかった。竹生は洗面台に手をついてしばらくの間呼吸を整えるのをする。排水溝を見つめながらに彼はただただ息を吸ったり吐いたりすることに神経を集中させていた。彼の息する音は確かに微かだった。だが竹生にはそれが妙にはっきりと聞こえてきていた。そこはきりきりとした冬の寒気で満たされていた。そしてそれが彼の心身を痛め付けるに足るものであったのは否めない。竹生の息はまだ整わない。はあはあという乾いた吐息は未だに浅く早いままであった。そんな状態の中で竹生は自室へと向かった。

 部屋に入った竹生は今着ている衣服を唐突に脱ぐというのをし始めた。そして彼は箪笥の中から寝間着を一着取り出してそれに着替え出す。脱いだ服を手早く畳んで布団が片付けてあるところにぽんと置いた竹生は、すると壁の近くの畳の上に向かって合掌し、さらにその後一礼した。そして次に彼は二枚の座布団を用意してそれらのうちの一枚をそこに敷いた。彼は壁が目前にあるようにしてその座布団の上に足を組んで座った。そうすると竹生はもう一方の座布団を二つ折りにしてそれを尻とすでに敷いてある座布団の間に挟み込む。座り心地を確認した竹生は手を組んで背筋を伸ばした。そして顎を引いて壁面を見据えるというのをする。そのようにして竹生は突発的に座禅というのを組み始めた。彼は鼻から息を吸って口からそれを吐くのをゆっくりと行っていった。そうすることによって自身の胸にまとわり付いてくるざわめきを沈めようとしていたのだ。竹生は頭の中で数を数えながらに、ひたすらに自らにわき上がってくる途方もない不安や焦りを押さえ付けようとしていた。しかし彼が平静を保とうとすればするほど、むしろ彼の心中はじゃじゃ馬のようにして暴れ回った。どくどくという心音が静まり返る一室に響き渡っているかのような気にもなってきていた。竹生は落ち着くどころかますます興奮を抑えられずになっていく。頭も心もまっさらになることを竹生は望んでいるというのに、竹生自身がそれを決して許そうとはしない。そしてそのことはとめどなくあふれ出てくる負の感情に対して蓋をするのではなく、それらに対して正面から向き合わねばならないということを、竹生が本当は十分に理解していたからこその反応であったと言えるのだろう。どうしても竹生には取り組まねばならないことがある。藍から言われた自身の書が零点である理由というのを、彼はどうしても探し出さなければならなかったのだ。だからこそ竹生は今熱くなってしまっている。この問題をないがしろすることだけはあってはならないと理解しているからこそ、竹生はどうしたって冷静ではいられなかったのだ。しかしここで身も蓋もないことを述べるのならば、そもそも竹生に対してかけられた藍の言葉というのには初めから説得力といったものは介在してはいない。そう、藍というのは結局現段階で言えば大学卒業を控えた一介の学生でしかないのであって、そんな藍から君の書は零点であると言われたのだとしてもあまり真に迫るものは感じられない。書に精通している水仙の娘からの指摘だったとは言え、竹生が気を病むくらいにまでなるほどの言葉だったのかは甚だ疑問であるとされるのも最もである。しかし、竹生はそれでも藍の言葉を重く受けとめてしまっていた。藍の口から出てきた零点という単語が彼の頭から離れようとはしなかった。昔から親しい間柄であるのならば、ましてや自由気ままな性格をしている藍からの言葉であるのならばなおさらに、軽い冗談か何かであるとして受け流してしまっても良かったというのにも関わらず、竹生は藍から言われたことを本気で鵜呑みにせざるを得なかった。そうせざるを得ない何かが彼女の言い分にはある気がしてならなかったのだ。加えて彼は藍の表情が忘れられない。あの哀れむでも悲しむでもない、何の感情も持ち合わせていないかのようなあの顔を、竹生はどうしても拭い去れずにいた。なぜだろうか。竹生は今までたゆまぬ努力を確かに積んできたと自負していた。そして贔屓目のない客観的な評価として、自身の書は決して零点などと言われる代物ではないということをしっかりと自覚してもいた。なのに藍からだけは酷評されてしまった。全然なっていない、一番大切なところが間違っているとさえ言われてしまったのだ。竹生の頭には再度藍のあの面立ちが浮かんでくる。彼の脳裏にはそれが嫌というほど鮮明に焼き付いていた。竹生は座禅をやめられない。何も解決せずにはやめられないという確固たる意志が竹生の体をそこに縛り付けていた。気付けば部屋は暗くなっていた。日はすでに沈んでしまっていて、それゆえに部屋の温度は朝と比べるとより一層下がっていたと言える。しかし竹生は微動だにしない。寒さでその身を震えさせることもなければ眠気に苛まれることもない彼のその様は、まるで地蔵のようであったと言えるのかもしれない。竹生の目は未だ爛々として冴えたままである。しかし解決の糸口は全くと言っていいほど掴めないままであった。

 そんな中で竹生は突然はっとなる。父母に手を合わせなければならない時間にいつの間にかなっていたということに気付いたからであった。彼は座禅をしている間に覚えていた非現実的な感覚からいきなり引き戻された。途端に火にかけられているようだった彼の意識はしゅんとその勢いを削がれて、そうすると彼は急に冷え切っていた部屋の寒さというのを痛感させられる。竹生の体にはまるで泳いだ後に感じられるような疲労があり、四肢は雨で湿った木枝のようになっていた。竹生は時計を見た。時刻は午後六時を軽く回ったところを指し示していた。つまり彼は帰ってきてからおよそ八時間もの間ぶっ続けで座禅を組んでいたことになる。ちなみに一回の座禅の最適な時間というのは線香が一本燃え切るくらいの時間である四十五分程度とされているらしい。ようするに竹生は通常よりもうんと長い間座禅に取り組んでいたということであり、それが可能であるのはやはり竹生に異常なまでの集中力が備わっているからであるのだろう。そう、それは単に座禅に慣れているからであるとかではきっとない。竹生がこの長々とした座禅を熟せた所以は偏に、彼がとことん集中を切らさなかったからだとするのが合っていた。竹生はふらふらとした足取りでひとまず部屋を出ていった。そして階下に降りて台所へと行き、仏壇に供えるためにあるとさえ言えるいつもの質素極まりない食事を作り始めるのだった。

 食事を作り終えた竹生は早速白飯と水の入ったコップとを準備した上で仏壇のある部屋へと入った。仏壇の前の座布団に正座した竹生はそれらをまずは傍らに置く。そして彼は例に倣って一連の供養を行い始めた。しかしいつもと何ら変わりないように見えるその行いの中には隠し切れない気の迷いというのが見てとれた。竹生は努めてそれを収めようとはするのだがやはりそう上手くはいかない。黙すれば黙するほどに先の座禅の時に感じたような焦燥が彼の胸の辺りでぎゃあぎゃあと騒ぎ始めてしまう。しんと静まり返っている周囲とは裏腹に彼の心の中はざわざわとしていてやたら騒がしい。加えて体からは粘っこい脂汗がじんわりと滲んできてもいた。そうすると竹生は言う。いつもの風を装った抑揚のない口調でもって彼は父母に向けての報告をするのだ。

「今日も計画していた通りの時刻に目を覚ますことが出来ました。朝食もいつも通りに食べられたと思います。変わったことは特にありませんでした。何もかもがいつもと同じのとても穏やかな朝でした。身支度をきちんと整えた上で川住宅へ行きました。今日もまた花梨や林檎達と共に書道をすることになるのだろうと頭の片隅で思いながらに赴きました」

 竹生はぼそぼそとした話し方で淀みなく言う。しかしそこまで話した彼は少しの間ではあるが押し黙った。そして父母の写真をとても弱々しい眼差しで眺めるということをした。その目には先までのぎらぎらとしたものが綺麗さっぱりなくなっていた。それはまるで死に際にある兎のような目だったと形容することが可能かもしれない。竹生は絶望を抱き始めていた。次々と襲いかかってくる煩わしさによって竹生の心身はやはり相当に追い込まれてしまっていて、竹生の思考はようやくそれを認識し始めたということである。すると竹生は独白を再開した。だがそれは流れるようだった先の口調とは違うとつとつとしたものであった。

「……藍姉から書を零点であると評されました。そんな書を認めたつもりなど全くなかったというのにそう言われてしまいました。……なぜかその言葉が耳に残りました。決してうやむやにしてはならないことであるとどうしてかは分かりませんが思ってしまいました。……川住宅を後にしてからは自室にこもって必死で考えることをしました。零点であると言われてしまった理由というのを懸命に見つけ出そうとしていました。ですが結局分からないままでした。何も分からないままでした。……津波のようにして不安や焦りといった感情が押し寄せてきました。それをはねのけることで精神はどんどんと摩耗していきました。……父さん。母さん。父さんと母さんのために書家にならなければならないというのに。絶対に書家にならなければいけないというのに。どうすれば良いのかがまるで分からない。……分からないのです」

 そう言った竹生は見ていた父母の写真から視線を外した。力なく項垂れた竹生はとても暗い面持ちをしていた。竹生は思う。今までの努力は間違っていたのだろうかと竹生は思う。であるのならば正しい修練というのをこれから積んでいくしかない。零点であると言われてしまったのならば、決定的な何かが違っていると言われてしまったのならば、それを補えるだけの鍛錬をまた一から行っていくしかないと竹生は考えていた。しかし同時に彼はその正しい方法というのに全く見当を付けられずにいた。一体どのようにして自分は今の状況を改善すべきなのかがてんで分からなかった。それは例えば臨書によってだろうか。だとしたら竹生はそれを飽きるほどに熟してきている。古典を尊び、しかし現代の斬新な書風にもしっかりと理解を示した上で、至極全うに励んできたというのは間違えようがないことである。であるならば竹生に足りないのは書に対する心構えだろうか。いや、それもやはり違う。竹生が書への向き合い方や書というものに対しての敬意といったのを持ち合わせていないはずはなかった。竹生は自らを過信することなく書道に勤しんできている。威張ることなく、また自分の力を他人にむやみに誇示するというようなこともなく、質実剛健と書道というのに取り組んできているのはもはや違うことなき事実であるのだ。……ならば体力面だろうか。竹生に欠けているのは書自体の云々ではなく彼の体力や集中力といったことなのだろうか。いや、それもやはり違うのだろう。竹生には書に何時間も没頭出来るという強さがある。細身のひょろひょろとした体型からは想像しづらいのかもしれないのだが、竹生には周りに左右されないタフな一面というのがすでに備わっていると言って差し支えないだろう。実際彼は長時間同じ体勢で過ごすことをまるで息するように自然に熟せている。長い間姿勢を変えずに何かをするということが一体どれほどの苦痛を伴うのかは自らで体験してみるとより如実に理解することが出来るのだろう。体を多く動かせることだけが体力の有無を決めるのではないはずで、むしろ体を動かさないことで使われる体力だってあるということなのだ。よって竹生には顕著に欠けている点がもはやない。それはまるで竹生が書く書と同じように、竹生本人にも欠点といった欠点を見出せない。書の技術がある。書に対する心意気もある。そして書を行うために必要な体力といったのも竹生は十分過ぎるくらいに備えている。では竹生には何が足りていないというのか。一体何が竹生の書を貶めてしまっているのだろうか。今の竹生には分からない。分からないから竹生はもう縋るしか出来なくなっていた。竹生は小さな声で「父さん。母さん」と呟く。しかしその声はすぐに暗闇へと溶けてしまった。だが、彼はまだ「父さん。母さん」と言うのをやめない。その声は先よりも少し大きくなってはいた。が、それもまた夜の空気に紛れて消えてしまう。辺りには重々しい静けさだけがしつこく残った。竹生はどうしても亡き両親に頼るのをやめられない。彼は遂にとても大きな声で「うわあ!」と叫んだ。空気が一瞬痺れたような気がした。が、やはりそれは気のせいでしかなかった。竹生の周りはどうしようもなく静かで何ら変わりはない。竹生にとっては変わらないということは良いことであったはずなのに、この時ばかりは何でもいいから変わってくれと願わずにはいられない。そう、竹生には変化が必要だった。この行き詰まった現状を打破するための変化がどうあっても必要だったのだ。竹生はもう一度、今度は消え入りそうな声で「父さん。母さん」と言った。そう言った彼の声は掠れてしまっていて力なかった。物言わない二人の写真。このまま何も答えを見つけられないままでいるのかもしれないと竹生は思ってしまう。このまま問題が解決されないままでいるのならば一体自分はどうしていけばいいのだろうかと途方に暮れてしまってもいる。だが、ちょうどその時であった。竹生はぱっと顔を上げた。絶望をひしひしと感じていた竹生にあることがふと思い起こされたのである。それは今の竹生にとっての紛れもない希望であった。竹生は慌てて火の始末をして仏間を飛び出した。そうして竹生は駆け足で階上の自室へと行くのである。

 自分の部屋へ入った竹生が真っ先に行ったのは押し入れの襖を開くことだった。彼は勢い良くそれを開く。すると中には一つの段ボール箱が収納されていた。竹生はそれの封をむしり取るようにして剥がした。開封されたその段ボール箱の中には、書道にまつわる様々な書籍が、雑多になりながらもそこそこ整理されてしまわれていた。竹生はそれらを荒っぽい手付きですぐさま掻き出した。鬼気迫る面をしながらに、竹生は次から次へとその中に入っているものを外へ放り出していく。「違う。違う」と小声でぶつぶつと言う竹生。彼には探し出さなければならないものがあったのだった。彼はその段ボールの一番底にまで手を進めた。そしたらそこにはぼろぼろの辞書のようなものが一冊収まっていた。すると竹生は大きな声で「あった!」と言った。竹生が探しているものとはどうやらそれであるようだった。彼は咄嗟にそれを手にした。分厚い辞書のような書物は正しくは辞書ではなくて字典であった。そうすると竹生は今までの狼狽がまるで嘘であったかのようにほっとしていた。竹生はか細い声で「良かった」と口にした。そしてもう一度「良かった」と絞り出すようにして続けた。その時竹生の腹はぐうと音を立てた。彼ははっとなってまだ夕飯を済ませていないということを思い出した。そして仏壇に供えた白飯と水をまだ取り下げていないことにも気がいった。竹生は「はは」と笑って「やることが山積みだ」と一人で言った。そして彼は手に持っている一冊の古めかしい書物を一旦畳の上に置いて再び階下へと行った。

 仏壇から供え物を取り下げた竹生は台所へと行っていつも通りに食事をとるのをした。本日の献立ももちろん白飯と味噌汁と鶏卵一個であった。もはや精進料理よりも乏しいと言えるであろうそれらをまたいつものようにして慎ましく食する彼。彼は時計が進む音だけを耳にしながらに卵が溶かれた飯を細々と食べ、もう冷たくなってしまった味噌汁をちびちびと飲むのをするだけだ。あまりにも味気ない食生活であると言えるのかもしれない。そしてそれはあまりにも寂しい食事であるとも言えるのかもしれない。しかし竹生には今日の食が何だかいつもよりも美味であるように感じられていた。加えて彼は今日の食をとても楽しいものであるとさえ思えていた。竹生はにこにこと頬を緩ませながらにのんびりと箸を進めるというのをする。何の興味もない飯の時間など手早く済ませてしまうに越したことはないとして、拵えたのをぱっぱと食らってさっさと後片付けをしてしまうというのが普段の彼ではあったのだが、本日はいつもとは丸っきり違って米の一粒一粒に至るまでを丹念に味わうのをしていたし、冷えてしまってはいる味噌汁の風味を楽しむといったこともしていた。その理由は竹生がとても安心しているからだとするのがきっと合っているのだろう。先ほどまで覚えていた極度の緊張から解き放たれて、さらに言うのならば絶望を感じずにはいられなかった状態からやっと希望を見出すことが出来て、彼は心の底から安堵していた。その希望というのはようやく行き着けた自らの書に対しての改善策のことを指し示していた。それの鍵となっているのはやはり先ほど取り出した一冊の字典であるのだろう。しかし、心休める竹生は同時に着々と考えてもいた。考えていたのはこれからの過ごし方であった。彼はどのようにして書を立て直していくかの手はずを頭の中で整えていった。どのようにして零点であると言われてしまった自分の書をまた納得の出来るものにしていくかの算段を食べながらにして次々と付けていたのだった。そうしているうちに竹生は夕食をきっちりと平らげた。今までで一番満足感のある夕飯だったと彼は思っていた。竹生は手を合わせて「ご馳走様でした」と力強く言った。そして彼は颯爽とした足取りで空になった食器を洗い場へと運ぶのである。

 食器洗いを普段よりも念入りに済ませた竹生は食べている間に考えていた計画を実行に移すのをした。足早に階上の自室へと突き進む彼にはもはや迷いというのが一切なかった。迷いがないということで彼の思考は画一化されていた。やるべきことが皆無だった状態からは一変して、彼の頭の中にはやらなければならないことしか残されていない。座禅や供養の時に覚えていた心のざわめきはもうすっかりなくなっていた。むしろ竹生は意気揚々とした心持ちでいるとさえ言えるのかもしれなかった。駆け足で階段を上っているがゆえにしてくるとんとんという足音が、竹生の耳には心地良く聞こえてきていた。

 部屋に入ると竹生はまず電気を付けた。その上でちゃっちゃと書道を始める準備をした。彼はいつも使っている折り畳み式の卓を設置し、道具の展開を素早く行った。水差しに水がなかったので、彼は一旦部屋を離れてそれに水を足しに行くことをした(つまり竹生は今日、墨汁を使うではなくて墨を擦るのをしようとしていた)。水汲みから戻ってきた竹生は水差しを卓上に置いた。そして彼は座布団を一枚用意して卓の側に敷いた。さらに竹生は例の古びた字典を持ってきた上でその座布団の上に正座した。そうすると彼は卓の左端の方でその字典を開いた。開いたのは字典の最初の方のページであった。そこには楷書、行書、草書、隷書、篆書という五つの書体で書かれた文字が規則正しく掲載されていた。すると竹生はそのページを開いたままにしてから硯の中に水差しで水を加えた。彼が自室での書道の際に墨を擦るのを行うのはかなり久しぶりのことだった。彼は古びた固形の墨を擦り始める。その手付きは何だか小気味良かったと言えるのかもしれなかった。それはつまりは竹生がいつも以上に書くのを楽しみにしているということの表れであった。墨を擦り終えた竹生はすぐに大筆に手を伸ばす。彼には何だかその筆が早く使われたがっているように感じられていた。であるのならばと竹生は勢い良く握り締めたそれに擦ったばかりの墨を付ける。そして竹生は高鳴る胸をそのままに書き始めたのだった。

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