竜胆、其の一
古時計が午前六時を指し示した時、自室で床に伏していた竜胆竹生はそれにつられるようにしてぴたりと目を覚ました。竹生の視界にはいつも通りの室内があった。手狭な部屋ではあるそこの一角は障子で締め切られていて、その障子はというと窓の外から降り注がれる陽光によって薄らぼんやりとしていた。そこの空気はあまり澄んではいず埃っぽかった。それは彼が近頃掃除を疎かにしていたせいだった。しかしかといって室内が散らかっているかと言われれば別にそうではない。むしろそこは小綺麗に整理整頓されてはいて、勉強机の上にある書物は小さな本立てにきちんと収められてはいるし、畳だって古くなってはいたが別段小汚くなっているという風はない。空気だけが妙に淀んでいるというか沈んでいるというか、そんな感じだった。簡潔に述べるとするならば暗い部屋、あるいは寂しげな部屋とでもするのがきっと合っているのだろう。今日は十二月二十五日。渋い表現をするのならば年の暮れ、逆に垢抜けた言い回しを使うのならばクリスマス、そして竹生にとって最も適切な言い方をするのならば冬休み初日、そう、高校生活最後の冬季休業が始まった日なのだった。
竹生は敷いていた布団類を一つ一つゆっくりと畳む。まるで折り紙でも折るかのようにして丁寧にそれを行った彼は、片付けたそれらと枕とを自室の片隅にそっと置いた。すると竹生はおもむろに伸びをする。細々とした腕を虚空に伸ばし、息をふうと一つ吐いてそれらを下ろす。体に一瞬力を込めてそれを抜く。ラジオ体操とまではいかない中途半端な運動を数分間した後に、竹生はまたはあと息を一つ吐いた。
「……」
竹生は何も言わない。それは寝起きである今の現状を考えるのならばとても自然なことで別に変わったことではないような気もする。竹生はしばしぼうっとする。何を考えるでもなく、しかしちょっとだけ考えているようでもありながら、竹生はその狭苦しい空間で一人立ち尽くし、しばらくの間そのままの体勢を保っていたが、それが済むとふいに下着や衣服を箪笥から取り出し、まるで何事もなかったかのように部屋を出た。
竹生は階段を音を立てずに静かに下り終えた。そしてそろそろと脱衣所へと向かっていった。目覚めた後はすぐにそこに行くのが彼の常だった。だがそれを始めたのはいつだったのかを彼はすっかりと忘れてしまっていた。脱衣所に着き、中に入った彼はまず、手に持っていた衣類を洗濯機の上に置いた。そして着ていたくたくたの寝間着などを脱ぎ、それらを洗濯機の側にあった洗濯かごの中に軽く投げ入れてから、きんきんに冷え切った風呂場へと足を踏み入れた。彼は久しく浴槽に湯をはっていなかった。竹生はシャワーを浴びようと蛇口を捻った。最初はとても冷たい水しか出てこなかったが、次第にそれは温かな湯へと変わっていった。湯加減を手で確かめた上で竹生は頭からシャワーを浴びた。風呂場には湯気がもうもうと立ち上がった。竹生はまず髪を洗って、それから体を洗い流すというのをした。各部を洗い終えた彼はシャワーをとめた。浴室からは先までのばしゃばしゃとした音の一切が消え失せた。濡れる髪からはぽたぽたと水滴が滴り落ちている。竹生はそこを出て髪と体とを脱衣所にあったバスタオルで拭いた。そして使い終わったそれを洗濯かごの中にぽいと入れた。竹生はふと洗濯物がたまってきていることに気がいった。だが彼は「また後日洗濯しよう」と思うに留まった。彼は洗面台の前に立ち、ドライヤーで髪を乾かした。鏡に映る彼は何だか不健康そうだった。しかし洗い終わったばかりの肉体はさっぱりとしていて妙に清潔感がある。竹生は持ってきていた下着や普段着を着てそこを後にした。
竹生は次に台所へと足を運んだ。朝食を作るためだった。台所に入った彼はまず冷蔵庫や食品棚から必要な品を取り出した。出してきたのは鶏卵一個とレトルトの白飯であった。竹生は手にしている白飯をすぐにレンジの中に入れて温め始めた。そしてその間に碗を三つ取り出すのをした(一般的なサイズのものが二つとやや小さめのものが一つだ)。彼はそれらをひとまず調理台に置いた。そして手に持ったままでいた卵を小さな碗の中にことりと入れた。彼はそうすると洗い場近くにあった徳用のインスタント味噌汁を一人分だけ取って、味噌と具材の小袋を開封した後に、それらの中身を用意した何も入っていない茶碗の一方に入れた。それが済んだ彼は次にやかんに水を入れて火にかけることをした。水がわくのを待っている間に彼は盆を一つ取り出しておいた。それから少しすると水は沸騰した。火をとめた竹生は味噌と乾燥した具材が入っている茶碗に湯を注いでそれらを少し箸で掻き混ぜた。それを終えると彼はレンジの中から温まった白飯を取り出した。今日の彼の朝食が全て出揃った。動きは早々としてはいなかったが、それがあまりにもスムーズだったからか彼は如実に早さというものを感じていた。が、そもそも時間はあまりかかっていない。竹生は準備し終えたそれらと先ほど使った箸一膳とを盆の上に乗せて、それからまだ使っていない空の茶碗と水をくんだコップをさらにそれに乗せて、部屋にぽつんとあったテーブルの上へと運んだ。竹生は白飯の少しを持ってきた空の碗に箸でよそった(使用した箸はきちんと揃えて台上に置いた)。そして盆からプラスチックの容器と味噌汁の碗、それから卵の入った小さな碗をテーブルに移す。よそわれた白飯と水入りのコップを残した盆を手にし、彼は一旦そこを離れていった。
彼が次に向かったのは仏間だった。そこもまた竹生の部屋と同じで薄暗かった。竹生はそろそろと仏壇の前に正座をする。仏壇には竹生の父と母の写真が飾ってあった。
「……」
竹生は何も言わずに持ってきたそれらをひとまず傍らに置いた。彼は粛々と一礼してその後に供物を供えた。それが済むと竹生はふいにろうそくに火を灯し、さらにそれによって線香三本にも火を灯した。火を消したそれらを香炉に供えて小さな鐘を鳴らす。目を柔らかに瞑って涼しげな表情を浮かべる竹生は黙々と亡き父母の前で合掌する。仏壇には造花が供えられていた。それはうっとりするほどに美しかった。しかしその美しさというのは生きていないからこその美しさであった。手をほどいた彼は少しの間物憂げに父母の写真を眺めるのをしていた。竹生はろうそくの火を火消しで消した。竹生は一礼し、さっき供えた白飯とコップの水を仏壇から早々と取り下げてその場を立ち退く(一般的には朝食後に下げるらしい)。竹生はまた台所へと足を向けた。
台所に戻ってきた竹生は取り下げてきたものが乗った盆をテーブルの上に置き、側にあった椅子に座って誰に言われるでもなく手を合わせた後、用意していた箸を手に取って早速食事を開始した。その様はまるで他人の通夜のようであって心底悲しいと言えるのかもしれなかった。そこには秒針(部屋の大きな壁時計の秒針)が進む音しかしていないように思えた。竹生は碗に移さなかった方の白飯に卵を割り入れて掻き混ぜるのをした。そこで一旦箸を置き、炊事場の方に置いてあった醤油差しを取りに行くために立ち上がった。それは水場に置いてある食用洗剤の側にほっとかれていた。竹生はそれを黙って手に取り元の場所へと戻る。そして持ってきたそれで卵がかかった飯に醤油をかけると、またひっそりと食べ続けるばかりだった。熱くはあった味噌汁を時折啜る。そしてまた飯を食う。供えた白米は白米のままで食し、またコップの水は水のままで飲み干した。わりとすぐに食事は済んでしまった。彼は使った食器類を洗い場へと運んだ。
竹生は空になった碗三つ、コップ、箸、調理にしようしたやかん、そして盆を慣れた手付きで洗った。そしてそれらを近くの水切りかごの中にそろりと置いた。プラスチックの容器はプラスチック用のごみ袋にきちんと捨てた。後始末を終えた彼は部屋を出て洗面所へと行き、顔を洗い歯を磨き、そして髪などを再度整えた。実に機械的で無機質な一連の作業だった(全てのことが竹生の中に流れるリズムにぴたりと合うようカスタマイズされていたからこそ、その一連の作業というのは機械的で無機質に感じられるのかもしれなかった)。全ての支度を済ませた竹生はするとふらりと玄関へと行って靴を履き、側のハンガーラックにかけてあったダウンジャケットを着込み、下駄箱の上に置いてあった鍵を手にして、閉まっていた戸をかちゃりと開けた。竹生には行くところがあった。