第71話「軽銀鍛冶の少年」
無用な経験に時間を掛けてしまった。それから街を歩き回ること1時間ほど、昼食の時間が近づくとともに露店は撤収を始め、大通りには広々とした空間が生まれ始めた。街を観察するうち気付いたことがある。私と同じように街を徘徊している人が少なくとも二人いるということだ。何かをきょろきょろと探し回っている中年の男性と、深く落ち込んでいる少年だ。いずれも職人風の雰囲気があり、あてもなく街をさまようことが仕事とは思えない。もうこの状態にも退屈しつつあるので、どちらかに声を掛けてみよう。
先に視界へ入ったのは少年の方だった。中背の男性で、十代半ばくらい。分厚いつなぎには点々と焦げ目があるから、おそらく火を扱う仕事をしているのだろうと推定した。非常に陰鬱な表情で地面を見ながら歩いており、これで転倒しないのが不思議だ。
「すみません」
少年は返事をしない。聞こえてすらいないようだ。
「恐れ入ります」
「あの」
「うわあっ」
のけぞって転倒しそうになる少年を掴んで引き寄せた。まだ状況が呑み込めないらしく、ぼんやりとこちらを見つめている。
「……あっ」
急に赤面して飛び退く。なぜだろう。わずかに検討をする。これくらいの年頃の人間にとって、異性の姿をした見知らぬ存在との身体的接触は衝撃的だったのではないかと仮説を立てた。もしそうだとしたら、彼には悪いことをした。
「失礼しました。先程からずっとこの辺りを歩かれていますよね。何かお困りごとでもあるのでは?」
私の問いかけを耳にした少年は、まるで何か恐ろしいものを見たかのように目を見開く。
「わーっ」
今度は声を上げて泣いてしまった。私はなすすべなく、彼が泣き止むまでぼんやりと立ち尽くすことしかできなかった。情緒不安定な若いヒト個体に安心してもらう方法は学習したことがない。
「親方から追い出されたんです」
運河のほとりに場所を移して、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
「得意のホルフィンさんとこまでちょっとした品物を届けるお使いだったんす。帰りにお代を受け取って、それで、ええっと、お菓子屋さんがあって」
「帰り道にお菓子屋さんがあったんですね?」
「です。美味そうなにおいで我慢できなくって、お駄賃で焼き菓子を。もちろん売上のお代には指一本触っちゃいねえ。なのに、なのに……」
「ほらほら、落ち着いてください」
手を握ってあげると少しずつ落ち着いていく。クロエが私を安心させようとするときのように抱擁までするのは控えた。これくらいなら相手を動揺させることもないようだ。
「……ありがとうございます」
彼から話を聞き出す過程は概ねこれの繰り返しだった。それを逐次的な情報として文書化することは情報の可読性をいちじるしく損なうので、要約することにする。
彼は軽銀鍛冶の見習いで、名をニュアンと言う。親方のところに勤めてもう三年になるという。軽銀くずを選別する仕事のような下働きからは卒業し始めており、原材料を融かして鋳物を作る工程の手伝いを勉強している。
つい今朝がたのこと、彼は親方からお使いを命じられた。軽銀性の簡単な腕輪を商店へ届ける仕事だ。軽銀は加工性がよく供給も豊富だから、庶民向けの廉価な装飾品として重宝されるのだという。それを鞄いっぱいに入れて運び、売り上げの十アマン弱を受け取った。市場に並んでいる庶民向け日用品の大部分は数十トアム程度であるようだから、その百倍以上の価値ということになる。彼にとっては非常に重みのある金額だろう。
ところが、帰り道にこのお金がなくなってしまった。盗まれた記憶もなく、ただいつの間にか鞄ごと消えていたのだという。狼狽した彼は買ったばかりのお菓子を食べ終えるが早いか職場へと走り、状況を親方に報告した。親方は、こう話したという。
「お前はまだ見習いだから給金は小遣い程度だが、あと二年もすれば一人前だ。そうなりゃお前は月に二ペクルの給金を受け取るようになる。これが半年で十ペクル、こいつを十年続けてやっとこ百ペクル、つまり十アマンだ。稼いだのは誰だ? お前だし、俺だし、お前の先輩や後輩だ。その汗に入ってる塩っつぶ一つ一つが固まってこのありがたいお金になってるってわけだ。その重み、わからねえとは言わせねえ。どう落とし前をつけるつもりだ」
普段の親方という人は非常に温和な人であって、このときも声を荒げることはなかったそうだ。だからこそむしろ彼は大きな衝撃を受けた。十アマンもの損失の責任など取りきれない。もう信頼を取り戻すことはできないのだと感じた彼は、工房を飛び出して今ここにいるのだという。妹の食い扶持を減らさぬようにと町へやってきた彼に、もう帰る場所などない。
「よく話してくれましたね」
嗚咽する彼の背中をさすりながら、私は慰めの声を掛けた。それと同時に、私は彼がどうすべきか、あるいは私が彼になにをしてあげられるかを思案した。彼が取れる路線は二つしかない。一つは別の町に行って一からやり直すこと。もう一つはなんとかして元の鞘に収まることだ。そして、そのどちらがよりよい結果をもたらすかについて、私は判断するだけの情報を持たない。
不完全な情報に勇気を持って立ち向かい、結論を下すことは私よりもむしろ人間の得意とするところだ。よし、結論は出た。
「私にできることは多くありません。あなたが悲しみから立ち直り、冷静で勇敢な判断ができるようになることを応援するくらいです。それでもよければ、今日の日が暮れるまで、私はあなたに協力しましょう」
うつむいていた彼が顔を上げた。彼の顔面はぐしゃぐしゃのままだけれど、その口元はどこか晴れやかに見えた。
「大丈夫す。俺が何をすればいいのか、お姉さんと話していてだんだんわかってきて。よければ……あー……別のことを手伝ってくれないっすか」




