その1「環宝冠山脈連邦における身分制度」
身分制度がよくわからんというご意見を時折頂いていたので、箸休めも兼ねてワールドセクションを作りました。今後もちょっとずつ増補していくと思いますのでお楽しみに。
尚、本文内での説明は、記述時点でアトミールがそのように認識していたということに過ぎませんので悪しからず。
■ 環宝冠山脈連邦における身分制度
■■ 行政上の身分
■■■ 官僚と吏員
官僚は政策の立案などを担う人々であり、吏員は官僚の立案した政策を実行する人々である。両者の社会的地位には大きな格差が存在する。しかし、クロエラエールの業務を補助した経験から言えば、実務の上ではそう単純ではない。
下級官僚の仕事の大部分は、現場を管理することだ。現場を管理するためには、現場に対する深い理解が必要であることは言うまでもない。しかし、下級官僚とは元来実務経験の少ない若手貴族のポストである。したがって、現場を理解などできるはずがない。ここに大きな矛盾がある。
指導者に求められる資質と新任指導者の現実との間のギャップは何も現代に限った話ではなく、過去に濫読した本のなかでも、しばしばこの矛盾に苦しむ人物が登場していた。クロエラエールが自身の資質に疑問を持っている素振りを見せるのは、ことの当否を別にしても無理からぬことだろう。
この矛盾を解消する方法は古今大きく変わらない。現場の事情に通じた補佐役を置くのだ。前崩壊文明でそれは人工知能が担っていたが、現代には、熟練した現場の人間がそれを担う。これに相当するのが吏員の最上位職である事務長で、後述する位階等級の上でも三等地方政務官と同格の地位が与えられている。
事務長の所轄範囲における言葉は非常に重い。クロエラエールは何を依頼するにしても殆ど怯えに近い感情を露わにしていたし、彼女の父であり行政区行政長官であるアストフォルトも一目置いているようだった。
■■■ 官僚の採用
官僚の採用には、定期採用と随意採用がある。定期採用は、毎年各行政区や中央政府の定めた時期に、試験によって新たな官僚を採用する制度であり、随意採用は、行政長官や代統領等、各行政組織の任命権者の決済により、在野の優れた人物を官僚として迎え入れる制度である。
……というのは建前である。クロエラエールはこの話題に入るとき、あんまり話すと危ないんだけどね、といたずらっぽく笑いかけてきた。彼女の私に対する無防備さは時折心配になるほどだ。私が彼女の反体制的発言を告発しないと、なぜ信じることができるのだろう。彼女の利益を考えるなら忠告をしてしかるべきなのだろうが、人からの信頼という甘露を失うことが恐ろしくて、口にすることができない。
実のところ、定期採用は殆ど行われることがない。なぜならば、随意採用によって定数が充足されてしまうため、あえて定期採用を行う必要性がないとされているからだ。そして、随意採用というのは実質的に縁故採用であり、任命権者の一族郎党が最優先で採用されることが通例となっている。
■■■ 官僚の権限
環宝冠山脈連邦の官僚は、職位に定められた管轄範囲におけるほぼ全権と言ってよいほどの広範で強力な権限を持つ。例えば、民政企画係長という職位を与えられているクロエラエールは、行政区住民の生活水準を向上させることを目的とした調査・研究、および計画の立案について権限を持つ。そうした権限の一端を知るエピソードを紹介したい。
ヒンチリフを出発するための残務処理の中で、クロエラエールの執務を補佐した。あらかじめ注意して欲しいこととして、彼女は三等地方政務官、すなわち六等官であり、官僚としては最下級であるということだ。
彼女は、二つの集落が対立している問題の調査と解決策の立案という命を受け、時に知性を働かせ、時に身体を張った調査の末、根本的には共有資源の枯渇が原因であると結論づけた。この問題を解決するための第一弾として彼女が立案したのが、水車小屋の建設計画である。住民の需要を満たすために必要な機能だけを備えていたのだが、生活水準、
したがって、上位・同位諸官の業務を妨げない限りにおいて、クロエラエールはこれらの目的のためのあらゆる行動・命令を行う権限を有する。これは、医療技術の向上のために住民の一部を人体実験の対象として徴集すべきだと彼女が信じて行おうとするならば、他の官僚の介入がない限りは実現してしまうということだ。
官僚としては最下等の六等官であってなおこれだけの権限を持つ。まして地方政務長官ともなれば領民の生殺与奪を完全に握っているに等しく、実際に暴政を敷く行政区も決して稀ではないらしい。
■■■ 吏員の権限
吏員の権限は、あくまで官僚の職務の代行である。したがって、原則として官僚の承認を得なければ何らの権限も有さない。ただし、高度に通暁した事柄について、一時的・限定的な権限の委譲を受けることはあり得る。
この権限の水準は、私にとってはとても居心地のいいものだ。私の行動は全て使用者であるクロエラエールの承認に基づく。そうでなければならないのだ。
■■■ 吏員の採用
吏員の採用は、必要に応じて随時行われる。方法は採用権限のある者に一任されているため多様性があるそうだが、ここではヒンチリフの例を紹介しよう。
まずは、採用すべき人物の宛てがある場合の例を挙げる。この場合、本人あるいは地域・職能集団等の代表者のもとへと使者が向かい、吏員としての引きあいを告げる。使者が帰った後、候補者が役所を訪れ申し入れを受諾する旨を伝えれば採用だ。候補者は原則として一月以内に返事をする必要があるが、遠隔地に居住するなど特段の事情がある場合は使者と期日を取り交わす。
次に、少数の吏員が必要となる場合の例を挙げる。この場合、ある程度信頼できる地域や職能集団等に使者を派遣し、人物の紹介を依頼する。候補者はヒンチリフ城館に集められ、選考を経て採用となる。
最後に、多数の吏員が必要となる場合の例を挙げる。領内各地に求人の官報が掲げられる。待遇、必要となる能力や条件など、いわゆる求人広告めいた情報が記載され、意欲のある者は最寄りの役所へ出頭するよう記載されている。それら役所にはあらかじめ定数が割り当てられており、その定数の枠を出ない範囲で有望な人材を絞り込む。一次選考を突破した人物は、城館に集められて行政区幹部による二次選考、必要に応じて領主による最終選考を経て採用となる。
■■■ 官僚の吏員からの登用
官僚の身分を得る方法には、上述の採用制度の他に、登用と呼ばれる経路が存在する。これは、特に実績を上げた経験ある吏員が官僚として登用される制度である。この経路は官僚の定期採用と比べれば遙かに機能しており、ヒンチリフの行政においても少なくない人数の吏員登用官僚が活躍している。
■■■ 位階等級
位階等級は、官吏を統一的に序列化するために設けられた制度だ。構造的には、等という上位の序列の中に、級と呼ばれる下位の序列がぶら下がる構造となっている。例えば私は事務員補という役職であり、七等上級官である。これは前崩壊時代の公務員に定められていた等・級・号による俸給制度に酷似しているので、何らかの関連性があるものと推定している。
■■■■ 等
第八等から第一等、および特等が存在し、特等を頂点として数字が小さくなるほど序列は高い。中央官僚である国務官、地方官僚である地方官および吏員をその役職に応じて一貫して序列づけるための概念であり、例えば事実上の最高権力者である代統領が特等官、地方政務長官が三等官、三等地方政務官が六等官である。
■■■■ 級
上級、中級、下級の三種が存在する。同一の役職における職位の違いを表現する概念であり、同じ地方政務長官であっても、ヒンチリフ行政区行政長官職は下級、アミリス・オナー行政区行政長官職は中級というように分けられている。
■■■■ 参考: 号
前崩壊時代に存在した制度。年次ごとの業績や経験年数によって変動して俸給を調整するものであったが、現代には失われたようだ。百段階ほどあったように思うので、煩雑すぎて現代社会に適合しなかったのだろう。
■■■ 身分章
装着者の身分を表現する徽章。位階等級ごとに定められた材質の板であり、表面には発行者と本人の紋章、および氏名、略歴が刻まれている。ただし、地方官の場合は発行権限の授権者の紋章も加わる。
紐や鎖で首から吊って胸ポケットに差し込むのが通例。前崩壊時代には個人識別カードをそのように扱っている人を多く見かけたことを連想させるが、関連は不明。
貴族は普段から身につけている他、改まった場では平民も布きれを使ったあり合わせで身分章らしきものを作って身につけるようだ。
七等官である私は黒塗り、または黒い木目の木を指定されており、ヒンチリフを発つとき用意して貰ったものだ。
■■ 社会階級としての身分
■■■ 貴族
■■■■ 定義
貴族とは、構成員が官僚としてほとんど確実に採用されるような制度上の特権を持つ地縁・血縁上の集団、またはその構成員のことである。この特権については、「官僚の採用」で先に述べた。
■■■■ 正統性
なぜ、貴族は平民を支配することが許されるのか。その論拠は、「制度連続性および正当目的非常措置複合説」と呼ばれるものであるそうだ。
制度連続性説は、上述した行政上の身分によって支配権を正当化するものである。貴族は行政官であり、行政官であるから、権力を行使する正統性を持つ。
正当目的非常措置説は、現在の社会を本来あるべき前崩壊時代から逸脱した状態であると位置づけ、速やかに元の姿へと復元しなければならないと説く環宝冠山脈連邦の国是を前提とする。環宝冠山脈連邦は本来直接民主制であるから、もちろんそのような制度の実現に向けて全力を尽くさなければならない。そのための強力な指導力を発揮する手段として、大統領の臨時代行者である代統領が直接・間接に任命した信頼のおける人々による統治が容認されると説くのがこの説である。
現状を正当化するために後付けでひねり出された論理というそしりを免れないようにも思えるが、正面切った批判はなされないようだ。これは批判の政治的リスクはもちろんのことだが、上述のような論理を否定したところで、代替となる政治体制の構築が現実的でないことも大きいのだろう。普通選挙などやったところで、現状では手続きの正統性を担保することすら容易でないだろうから。
■■■ 平民
平民は、貴族以外の全ての人々を指す言葉である。環宝冠山脈連邦国外では貴族と平民の他に身分が存在する国もあるが、環宝冠山脈連邦にはこの二つしかない。
■■■■ 権利
環宝冠山脈連邦は、前崩壊文明の復興を国是とする文明国を自認している。そのため、基本的人権の概念を有しており、身分を問わず全ての人には保障されるべき権利があると標榜している。ただ、その権利が一時的に制限されているだけだ。具体的には、しかるべき権限を持つ官僚がその必要ありと認めたとき人権は制限下に置かれる。
事後に異議を申し立てる制度は存在しており、多少は機能しているようだが、十分とは言いがたい。
■■■ 階層間の移動
全く存在しないわけではなく、多少の流動はある。貴族は、一族郎党の内の随意採用権者全員が役職から解任されれば平民へと転落する。こう書くと簡単に地位を失うようにも思えるが、追い詰められた貴族は武力で抵抗するため、解任処分には相当の覚悟が必要らしい。
逆に、平民が貴族になるには、随意採用権を得ればよい。針の穴よりも細い定期採用の門をくぐり、破竹の大出世を遂げるか、吏員登用官僚として活躍をして大抜擢を受けるか。いずれも著しく困難な道ではあるが、決して不可能なことではない。