物語の終わり
夕暮れのなか、見習い女神は神樹が倒れた場所に立ち、空を見上げていた。
もう見習い女神ではなく、ひとりの人間として一生地上で生きていかねばらない。
奇跡的に戦争には勝ったものの、そのことを思うと悲しみが果てしなく心から湧き上がってきた。
ゴブリンの死体が転がる城門の外では、国軍兵士がヒースガルトンを探している。
敵の大将である悪魔を彼が倒したことは、ほとんどの兵士が知っていたし、英雄として彼らの心に映っていたのだ。
ヒースガルトンという名は、兵士の間ですぐに広まったほどだ。
しかし、いくら探してもヒースガルトンは見つからなかった。
戦場に横たわる死体を調べてみても、彼らしき人物は発見されなかった。
見習い女神の横に、ファアル国軍指揮官がそっと並んだ。
「ネンネコくん。そもそも、どうやってヒースガルトン殿がこの神樹が立っていた場所に出現したのじゃろうかのう。彼は自由戦士隊を救助したあと、一旦街に戻ったはずじゃが」と、頭をひねる。
「あっ」
見習い女神は、水路に視線を落とす。
「忘れてました。下水道です。彼は下水道を通ってこの神樹の下の水路に出て悪魔を倒し、再び下水道を通って街へと帰ったのでしょう」
「ほう! 下水道を使ったか。街へ来たばかりなのに、そんなところまで知っておったとは。それよりも、よく思いついたものじゃな。自由戦士にしておくには、もったいない。何か役職を授けたいのう」
「はぁ。しかし、彼は組織で動くことを拒むかと」
「ずっとこの街にいて下さらんかのう。街で結婚相手を見つけてくれるとありがたいのじゃが。なぁネンネコくん」
「は、はぁ・・・・・・」
それまで悲しみにひたっていた女神は、なにか現実に引き戻されたように感じた。
夜になり、酒場では自由戦士が祝杯をあげていた。
「あの男が悪魔の首を斬り落としたんだってよ」
国軍兵士のあいだではすっかり有名になったヒースガルトンも、自由戦士たちは名前を知らず『あの男』と呼んでいる。
「あの男がいなければ、俺たちはとっくに死んでいた。間違いなく」
その場を仕切るように、太い声を出すのはもちろんターバットだ。
「国軍が我らを助けにきたとき、奴は国軍兵士の先頭にいて、狂ったようにゴブリンを殺していたのだぞ。そのときの奴の目は忘れようがない。あの男がいなければ、国軍も俺たちを助けられなかったろう」
「ビールおかわり! それと鶏肉のから揚げも!」
ターバットの言葉もろくに聞かず、自由戦士のひとりがジョッキをかかげる。しかしウェイトレスは大忙し。
街の酒場の多くがならず者に荒らされたおかげで、自由戦士組合直轄のこの酒場に、国軍兵士や街の民間人までが押し寄せて来ているのだ。
加えて看板娘のナータンがいないものだから、ウェイトレスは注文をさばききれずにいる。
「はいよ、お待ち!」
と、にごった声でビールをドンと置いたのは、店の主人だ。
「あんたら自由戦士は、特別に優先だ!」
「ありがたい。しかし、さすがに今日はナータンも休みなの?」
戦士のひとりがたずねる。
「俺も今日はあきらめてたんだが、実はさっき来たのさ。今着替えてるとこだ!」
ターバットも含め、テーブルのみんなは歓声をあげた。
しかしその誰もが心の奥で、『悪魔を倒した者と結婚する』とナータンが発言したことに引っかかっている。
このときターバットの顔を見る者がいたならば、いくつもの感情が読み取れただろう。
「はい!お待たせしました、鶏肉のから揚げですよ!」
そこに、元気いっぱいの笑顔でナータンは現れた。
ナータンの姿を見ると、ターバットは少し悔しがった。
正直、あの男との結婚が嫌で、この街から逃げ出してほしいと思っていたくらいなのだ。
そのターバットの心情を代弁するかのように、自由戦士がナータンにたずねる。
「悪魔を倒したあの男と、本当に結婚するつもりなの?」
その質問で、にぎやかなテーブルが一瞬で静まりかえった。
まるで、それまでの喧騒がウソのように。
ナータンも、多くの自由戦士が聞き耳を立てているとわかった。
それでもナータンは笑顔で言う。
「ヒースガルトンさんのことですね。約束ですから!」
直後、今までとは一変して、どんよりとした空気が自由戦士らを覆ったのである。
最も落ち込んだのがターバットであるが、一番早く立ち直ったのも彼だ。
「あの男、ヒースガルトンという名前なのだな。みんな、ヒースガルトンを祝福しようじゃないか! しかし、奴はどこにいる?」
「酒場にも来ていないのですね・・・・・・」
ナータンの笑顔が少し曇る。
そのとき、男が猛烈な勢いで酒場に入って来たのだ。
ぜえぜえと肩で息をするのは、ヒースガルトンその人である。
「あっ・・・・・・」
ナータンが声をかけようとするが、ヒースガルトンはそれどころではない。
「おい店主! 助けてやったのに警備兵につき出すなんて、許さんからな! 剣まで奪われたぞ! 代わりにこれをもらっておく!」
それだけをヒースガルトンは言い放つと、ナータンが運んできたばかりの鶏肉のから揚げを素手でつかみ、逃げるように酒場を出たのだ。
「おい、待てっ!」
ターバットがあわてて席を立つものの、あっという間にヒースガルトンの姿は闇に消えた。そして遠くから、「牢破りだ!」と警備兵が走って来るのであった。
ターバットは店主に軽く事情を聞くと、すぐにヒースガルトンを追った。
酒場にいた国軍兵士らも自由戦士と一緒になって探す。
悪魔の首を斬り落とした英雄の足取りは、それからすぐにわかった。
水路警備の兵士に聞いたところ、止めるにもかかわらず、森の道を走って行ったのだった。
森にはゴブリンの残党がいるだろうし、ヒースガルトンを追って行くには危険だ。
ターバットらはあきらめて酒場に戻ると、店主と警備兵が、新しくきた国軍兵士からきつく問い詰められていた。
店主は肩を丸く縮めて、しきりに謝るばかりだ。
「お帰りさないターバット隊長。これは、店長からのお詫びです」
ナータンが、ターバットらにビールを差し出す。
「ヒースガルトンさんは見つかりました?」
そう問うナータンの目は、真剣だ。
「やつは街を出て行ったよ」
ターバットはその視線を避けるようにジョッキをつかむと、喉を鳴らしてビールを飲んだ。
ナータンはしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「あはは・・・・・・そうですか。わたし、逃げられちゃったようですね、ははは・・・・・・」
困った表情で笑うナータン。
「どれだけ失礼な男なのだ! 結婚を約束した相手から逃げるとは! ヒースガルトン!」
ターバットはジョッキをテーブルに叩きつけ、怒っているものの、目には明るい輝きが戻っていた。
「ナータンを悲しませるような男とは、そもそも結婚相手に向いていなかったのだ。ナータン、これは神のお告げだ。ナータンが結婚相手を探しているのなら、ぜひ俺を候補のひとりに入れてくれ! ナータンを悲しませるようなことは、絶対にしないと誓う!」
酒場はまたしても、騒がしくなった。
このターバットのセリフを引き金に、多くの自由戦士がナータンに告白し始めたからだ。
「あはは・・・・・・」と戦士たちの告白を笑い過ごし、その晩なんとか返答を避けたナータンこと、見習い女神が仕事を終えたのは、太陽が森から顔を見せ始めた頃である。
見習い女神は、城門の外にある神樹の立っていた場所にいた。
ほとんど丸一日起きていることに気づくと、さすがに疲れがどっと襲ってくる。
見習い女神は、昨日あった様々な出来事を思い出した。
自由戦士組合では予想をはるかに超えた数のゴブリン軍に絶望し、城ではヒースガルトンの間違った推理を聞かせれた。
そして、戦場で悪魔をこの目で見て、神樹が切り倒されるところを目撃し、悪魔がヒースガルトンに殺され、戦争が始まったのだ。
今まで体験したことのない、長い一日だった。
見習い女神は、切り落とされた神樹のそばにひざまずいて、戦いに勝ったことを神様に感謝し祈った。
祈りのあと、切られた神樹の根本の横に、新しい木の芽を見つけた。
それを見た瞬間、見習い女神の目から涙がこぼれ落ちた。
神樹の芽だとわかったからだ。
一か月たっても、ヒースガルトンは街に戻ってはこなかった。
街ではヒースガルトンを英雄視する風潮が日に日に強まり、悪魔の首を斬り落とした剣は城に飾られ、多くの国軍兵士に崇められたほどだ。
その間、キャット自由戦士組合事務長とネンネコ国軍副指揮官とウェイトレスのナータンが、突然仕事を辞めた。
ゴブリン軍の脅威を当分心配しなくていいので、そのことで困ることはなかったが、寂しがる者が多くいたのは当然だ。
ターバットをはじめとする自由戦士の多くは、職を求めて街から去った。
彼らを見送る城門では、ファアルがひとりひとりに礼を言った。
切り倒された神樹の横に、新たな樹が異常な速さで成長していた。
それはすでに、空高く伸びていたのだ。
人々はこの樹を神樹としてまつり、日々感謝の祈りを捧げたのである。