妖精のくちづけ ~フェアリー・キス~
「この婚約を解消したい、と……思っているの……」
そう告げられ、私は目の前の人間を注視する。
柔らかそうな風が吹くとサラサラと揺れる長い髪は淡い金色で。
何処か苦しげに歪められた顔は、それでも美しいと形容されるもので。
テーブルの上のカップをじっと見つめる瞳は、エメラルドのようにキラキラとしていて。
その宝石は今は髪色と同じふさふさな睫毛に隠されてしまっているけれど。
きゅっと引き結ばれた唇は、まるでベリーのように朱く瑞々しい。
外を歩けば誰しもが目を奪われるこの人が、自分の婚約者であることが間違いなのは、わかっていた。
けれどまさか、婚約解消を願われるとは……思ってもいなかったのだ。
確かに政略で、けれど今までなんだかんだと上手くやってきたつもりだった。
今、この時まで……。
「……嫌いに、なった?」
絞り出した声は、隠しきれない程震えていた。
確かに自分はこの人に釣り合わない。
自分の容姿が、劣るのも知っている。
髪に艶もないし、家を継ぐ為に机に噛り付いているこの体は貧相だ。
頑張って手入れはしてきたのだけれど。
身長も高くなく、この人がヒールの靴を履けば簡単に目線がずれてしまう。
どんな色のドレスも着こなし、ふわりふわりと軽やかに舞う。
地味な色合いしか似合わないこの身とは大違いだ。
それでも、今まで何度もデートを重ね、他愛ない話に花を咲かせ……ふと訪れる沈黙の瞬間も、そっとそばに寄り添いあい、穏やかで、温かい時間を重ねてこれたと、思っていたのに……。
「そうじゃない!そうじゃ……ないの……」
嫌いになったわけじゃない?
それならば……どうして……?
「……私では、貴女に釣り合わないと、言うことでしょうか」
「そうじゃないってば!」
ガタン、と普段らしからぬ大きな声と、乱暴な行動に少し驚く。
宝石に薄い膜が張っている。
ゆらゆらと揺らめいて見えるそれは、窓から射し込む光でキラキラ輝いていて、悲しいはずなのに『嗚呼、綺麗だ……』と感嘆を新たにする。
この瞳に、最初に惹かれたのだ。
しっかりとした自分の意思を持ち、素直で真っ直ぐで、この瞳はしっかりと『私』を見ていたから。
「私の、何が至らなかったのでしょうか。直ちに治しますので、お教えいただけますか?」
「ち、違うの……貴方に不満とか、そうじゃないの……!」
「では、何故……何故婚約解消などと……」
縋る私は醜いだろう。
でも、それでもこの人を手放したくないのだ。
わかって欲しい。
私には、この人しか考えられないのだ。
とうとう零れた滴が、滑らかな肌を滑り、テーブルに落ちていく。
慌てて席を立ち、その隣へと滑り込む。
嗚呼、貴方も悲しんでくれるのですね……。
ならば私たちは離れる必要はないのではないでしょうか。
「泣かないでください、綺麗な貴方の瞳が融けてしまいます」
その眦に指を寄せ、そっと拭えばその肩が震えた。
逃げるように顔を背け、麗しい唇に歯を立てた。
「私……私……」
何かを堪えるように、それでも決定的な何かを告げようとするその姿に、私はそっとその豊かでさらさらの髪を撫でる。
ビクリ、と跳ねるのも愛しい。
そう、私はこの人が愛しいのだ。
例え、選ぶ道が分かたれようとも……。
「何を悩んでいるのかはわかりませんが……無理はしなくていいのです。婚約解消は……出来れば受け入れたくありませんが……貴方から笑顔を奪いたくは、ないのです」
だから、笑って、と笑みを浮かべれば更に涙を零す。
これは、困った。
泣かせたいわけじゃないのに。
そして可能ならば……私も泣きたい。
ぐっと堪えて、笑顔を作るが、正しく笑えているだろうか。
くしゃりと歪んだ顔で、まるで私を睨み付けるその瞳には決意の炎が揺らめいていた。
「私……私、は……」
とうとう私の顔も見れなくなったのか、ぎゅっと目を瞑り、長い睫毛を震わせている。
膝に乗せている手がスカートを握り締めていて、波を作り出していた。
俯いて肩を震わせる……その肩に手を置いて『もういいのだ』と、憂いを払ってやりたい。
だがそれは、この人の決意を無にすることだ。
時を刻む音が厭に響く。
そういえば、前にもこんなことがあったな、と過去に思いを馳せる。
あの日は何度目の訪問だっただろうか。
御両親に手土産を渡し、私室に2人きりになった時だ。
お茶を飲んで、他愛ない話をして……そう、あの日もいつも通りで……でも、この人は何処か落ち着きがなく、そうして言葉数も少なかった。
いつもは穏やかな沈黙の時間も、何処か重く、その空気がこちらにも伝染してくる程だった。
何度かどうしたのかと問いかけても、弱く微笑まれて誤魔化されてしまった。
その『誤魔化し』が、終わる時なのだろうか。
そうしてどれだけか……お互いが身動ぎもせず、ただただ時が流れた。
「わ、私……男なの……!」
悲鳴のような叫びを、聞いた。
まるで断罪を待つ囚人のように身体を縮こませ、震えるその姿に庇護欲を掻き立てられる。
嗚呼、そんなことを悩んでいたのですか。
何を言うのかと、一瞬目を丸くしたが湧き上がるのは安堵、だった。
私は震える頬に両手を添えて、そっと涙に濡れる顔を上向かせる。
うっすらと上気した頬が、揺れる瞳が、愛しくてたまらない。
「そうですね」
「え……っ」
「というか、聞いてらっしゃらなかった……?」
「えっ?」
微笑む私をまぁるくした瞳で見つめてくる。
嗚呼、可愛らしい。
「私、女なのですが」
「……は?」
私は一人娘、その為婿をとる必要がありました。
ですが、昔から私には女らしさというものが欠如しておりまして……。
嗚呼、剣を振り回すとかは……子供の頃だけでしたよ、ええ。
昔からこのように男物の服を着ていたせいで、よく間違えられたものです。
今でも私を男だと認識している者もいるでしょう。
両親も気にしていませんでしたからね。
ですが私は跡取り、次代を考えねばなりませんでした。
そんな時に両親が出会ったのが、貴方の御両親です。
たまたま夜会でお会いしたのですが、意気投合され、そうしてお互いの子の話になり……私と貴方の事情が詳らかになりました。
そうして貴方と私は婚約することになったのです。
「……き、聞いてないわ……!聞いてないわよ!?じゃ、じゃあ私の今までの苦悩は……あ、あんなに、悩んだのに……!」
先程までとは違う意味で震えているのか、徐々に見える肌が紅く染まっていく。
「1つ、お答えください」
「な、なに!?」
「私のこと、婚約解消したい程、お嫌いですか?」
上擦った声を上げて、ピンと背筋を伸ばすその姿勢が美しい。
貴方を初めて見たあの日、私は貴方を妖精だと思いました。
なんと美しく可憐な妖精なのかと。
そんな貴方と出逢えた奇跡。
そんな貴方と婚約を結べた歓び。
私は貴方が羽根を休ませる花になりたくなりました。
「ちが、嫌いなわけじゃ……!」
「では、このまま婚約を続けても?」
「で、でも私……」
困惑を露わにする貴方の嫋やかな手を取り、そっと包めば何故か悔しそうで。
ベリーのような唇をほんの少し、尖らせた。
「私は貴方を愛しく思っています。どうか、私以外の人間の傍らで、羽根を休めないでください」
「…………わ、私怒っているの!」
「はい」
「私は私なりに、貴方の事を考えて、だから婚約を解消しなくてはいけないと!」
「……はい」
「でも、でも……すきなの……」
「え?」
「貴方が、好きなの……好きに、なってしまったの。でも私は子を産めないし……貴方が、その、男性だと思い込んでいたから……」
嗚呼、私のことを考えてくださっていたのですね。
そして、私のことを……好ましく思ってくださっているなんて。
心にじんわりと拡がる嬉しさ、そして悩ませてしまったという申し訳なさ。
「私は、次代は養子でも構わないと思っていました」
「えっ」
「貴方が居てくれたら、それで良いのです。次代のことは……まだ両親も引退するような歳でもありませんからね」
笑ってそう言えば、ぽっと頬を染めてそわそわと身体を揺らす。
その唇が何かを言おうとして、そして閉じられるのが見えた。
「思ったことは仰ってください。私もこれからはそうします。……もう、すれ違わないように」
「……子、は欲しい……」
「そうですか」
「貴方との子が欲しいの!」
真っ赤に熟れた顔を背けて、それでも心の内を叫ぶ貴方に頬が緩む。
だがしかし、人間の構造上私に子種はないし、貴方には子部屋がない。
さてどうしたものか。
「……嫌、よね……そうよね……。私の子なんて……」
1人考え込んでいたらおかしな勘違いをさせてしまったらしい。
慌てて包んだままの手をしっかりと握り直す。
私を見て欲しいという気持ちを込めて。
「いいえ。私も貴方の子が欲しいです。ですが、その……無理はしなくても宜しいのですよ?」
「無理じゃないわ!……その、だから、……私が、その……貴方と、そういう……だから、悩んで……」
結局お互いの視線は交わらず、更には言いづらいのかもごもごと私に聞こえない声で何かを呟き続けている。
「私の妖精。どうか落ち着いてください。……貴方が私と共に居てくださるのなら、時間はあります。それこそ、話し合う時間は幾らでもあります」
「……そ、そうね……でも……」
「……でも?」
首を傾げてくるくる表情の変わる愛しい人を見つめていると宝石が揺らめいて炎が灯る。
そういえば、最近こんな瞳をすることが増えたな、と思う。
寄り添い合う時、視線を交わす時……手が触れた時、肩が触れた時……。
決意とはまた違う色の炎だ。
そしてこの人はいつも、その色を隠そうとするのだ。
……今日は、隠さず私をじっと見つめてくる。
らしくなく、胸の鼓動が高まる。
この人のこの瞳は、私を落ち着かなくさせる、魅惑の瞳だ。
これ以上私を夢中にさせて、どうするつもりだろうか。
白い手が、私の手からするりと抜け、私の頬へと伸びてくる。
そっと触れたその手は冷たくて……この人が緊張しているのか、私の頬が熱いのか。
「……私、貴方が好きなの」
「私も、貴方が好きです」
「貴方を……可愛いと思っているの」
「……可愛らしいのは貴方ですよ」
「いいえ、貴方が時折見せる素顔は、とても、可愛らしい……」
苦い笑いが出てくる。
私など、可愛い要素が1つもないのに、何を言っているのか。
「……そう、貴方が可愛いから……」
何処かぼんやりとした声音でそう呟いた時には、私の視界には妖精の麗しい顔しか見えなくなっていた。
そして、気付く。
距離が、近い。
近いどころではない。
触れあった場所が熱を持つ。
うっとりと目を細めたまま、小鳥のように啄む妖精は沸き立つ色気を纏っていて身体がギシリと鳴った。
「……な、んむ……っ」
何を、とは無粋な言葉か。
しかしその言葉すら吐き出すことは出来ず、絡め捕られてしまった。
思わず眉根を寄せて目を瞑ってしまう。
私の中から響く水音が静かな部屋にも響いているのではないだろうか。
その恥ずかしさと、込み上げる悦びに暗い視界がぐらりと揺れる。
「……、ぁ、はぁ……」
「……っ!」
重なった隙間から漏れ出た吐息に、妖精が弾かれたように距離をとる。
その宝石は丸くなり、耳までが紅く染まり、その表情はとても可愛らしいのに……滲んだ口元だけが妖しく艶めいていた。
「……妖精……」
「……、わ、私……わたし……はしたないぃぃいいい!」
そう言ってドレスの裾を翻しながら……扉を大きくこじ開けた彼の人は部屋を飛び出して行った。
残された私は茫然と、何処か壊れたらしく斜めに揺れる扉の向こうに消えた存在を見つめる。
そうして震える指で、己以外の温もりが残る唇にそっと触れてみる。
まざまざと思い出された記憶で、一瞬で全身が沸騰したように熱くなった。
まさか、こんな喜びがもたらされるとは。
どれだけか幸せを噛み締めていたが、残された色を見て、私は妖精を追いかけることを決めた。
私は私の妖精を手放すつもりはない。
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久しぶりに一話が長くなりましたな!