08
景は眠れなかった──一体、どうやって眠ることができるというのだろう。
いくつもの思いが胸をついて離れず、浮かんでは消え、消えてはまた浮かびを繰り返し、いつまでも景の心をかき乱し続けた。
布団の上に正座したまま、景はまだ幸せだった子供の頃を思い出していた。優しかった母、一度だけ海岸へ連れて行かれて海を見た夏の日。いつのまにか、すべては遠い日の記憶として景の心の底に沈んでいたのに。
そしていつのまにか、景の心はその記憶と一緒に、どこか暗くじめじめした場所へ隠れていたのだ。まるでこの暗がりの部屋に閉じ込められている自分自身のように。それを解き放ったのは、鬼だ。
鬼は、景は命を狙われていると言った。
鬼は、稲妻のように突然景の前に現れて、彼女を救った。そして今も、景を守っていてくれている。たとえその理由が、父の出す礼金のためであっても。
もし景がまだ生きていたいと思う理由があったとしたら、それはあの、鬼の深い瞳をもっと覗いてみたいという望みからだけだった。あの低い声をもっと聞いてみたい。あの闇のような髪が風になびく姿を見てみたい。そして許されるなら、心などないといった彼の深層を知り、触れてみたいと思った。
もちろん、許されない願いだけれど。
景は外に繋がる襖を見つめながら、この思慕を心の中に抱くことをお許しください、と誰にも聞こえない声で呟いていた。
どんな理由で誰が景の命を狙っているのだとしても、それがどれだけ恐ろしい手立てになるとしても、景は今、ここに鬼がいてくれる運命の巡り会わせに、心から感謝したい気持ちだった。
景は夜中に鳴く虫の音を聞くのが好きだった。
屋敷の奥に追い込まれて、嬉しかったことがひとつだけある。それは季節が夏に近づくと、毎晩美しい虫や梟の鳴き声が終わらない旋律のように景を慰めてくれることだった。
眠れない夜、景ははいつも目を閉じながらじっと耳を澄まして、その音に聞き入った。
今夜は鬼も同じ音を聞いているのかと思うと、景の心臓は少しはやる。
だから、外の音が微妙に変化していたのに、景はすぐには気が付かなかった。そもそもその変化もわずかなもので、気にするほどのものでもなかったはずだ。
しかしなぜか、景は言いようのない緊張に包まれた気がした。
そして急に静かになった野外から、鋭い金属音が甲高く響くのが聞こえて、景は身を固くした。
(な、なに……?)
その金属音には聞き覚えがあった──昨日聞いた、鬼が暴漢と戦ったときの刀と刀が激しくぶつかり合う音がまさにそれだ。
(まさか)
景の心臓は痛いほど高鳴り、息が苦しいほどになった。
まさかまた暴漢が……。
暴漢がここを発見して襲いかかってきたというの?
そんなはずはないと思う自分と、なぜそんなはずはないと言い切れるのかと反論する自分とが、景の中でせめぎ合う。
景の身体は無意識に動き、気が付けば襖のすぐ前まで歩いて来ていた。緊迫した鼓動がうるさく、集中するのは容易でなかったが、景はなんとか耳を澄まして襖に手をついた。
──なにも聞こえない。
不自然なほどすべての雑音が止んでしまっているように思えた。もし本当に暴漢だか刺客だかが襲来したのだとしたら、こうして襖に近づくのは賢くないはずだ。しかし、景にとって大事なのは自分の命よりも鬼の安否の行方だった。
金属音は一度だけしか響かなかった。
つまり、それだけで決着がついてしまったということなのかもしれない。景は指先が震えるのを止められなかった。
まさか、まさか。
今、景が部屋から飛び出したとして、それは鬼の助けになるだろうか。それとも足手まといになり、彼に迷惑をかけてしまうだろうか。
(でも、もし……)
鬼が怪我をしていたとしたら?
彼を助けられるのが自分だけだとしたら?
そう考えると、景はいても立ってもいられなくなり、部屋の襖を開けていた。
景の目に飛び込んできたのは、こちらに背を向けて立っている鬼の姿だった。
庭先の狭い松林に顔を向け、鞘から抜いた長い刀を、峰を地面にむけて片手で握って立っている。
静かだった。
静かすぎて、景は自分がこの世ならぬ何処かに迷い込んでしまったような錯覚におちいるほどだった。──そして、鬼。
鬼の背中は孤独で、大きくて力強くて、殺気に満ちているようだった。
そしてやはり、孤独だった。
彼の緊張が伝わってくるようで、景は息を呑んだ。肺が重い煙を吸い込んだかのように軋んで、寝着の帯が景の胸を締め付けて苦しめる。
「鬼……殿?」
自然と鬼を呼ぶ声が口をついて出て、景は自分の軽率さにはっと我に返った。
雑草の生えた庭先に立った鬼の背中は、なぜか夜の闇に溶け込みきらずにはっきりとその輪郭を見ることができる。周囲に他の人影はないように感じたが、だからといって不用意に声を掛けるべきときではなかったはずだ。
襖に手をかけたまま、景は身動きできずにたたずんでいた。
鬼は振り向かない。
景の手は緊張に震えて、古い灰色の襖が小さくカタカタと音を立てた。それでも鬼は景を振り向かず、庭先に高くそびえる松に顔を向けたままでいた。
広い肩幅がさらにいかっているようで、闇に光る抜き身の刀とあいなり、もともと力強い鬼の身体をさらに強靭に見せている。鬼は気付いているのだろうか、と景は不安になった。
どれだけ息を潜めていただろう。
しばらくすると、鬼はふと、屋敷に背を向けたまま夜空を仰ぐように顔を上げた。そしてゆっくりと後ろを振り返ると、視線の先で景をとらえた。
もちろん、鬼は景に気付いていたのだ。最初から。
景は息を呑んで、鬼の出方を待った。
自らは動けなかった──とでもではないが、今の鬼の視線を受けて動ける生き物などいないだろう。どんな人間でも、どんな動物でも、戦慄に我を失い動けなくなるほど鋭い瞳が、まっすぐ景に注がれている。
まずは顔、そして肩を回して完全に景の方に振り返った鬼は、ざくりと一歩前に進んだ。景はその足音に聞き入った。
鬼の足音は、彼のような大柄な男性のものとは思えないほど静かで、獣のそれを思わせる。獲物を狩るために、本能が一歩一歩を計算しているような。
景は金縛りにあったようにその場に留まっていた。
「お……おに、どの」
縁側まで進んだ鬼はすでに景のすぐ目の前まで来ていて、暗がりでも顔までがはっきり見えた。雨戸を開けておいたせいで、ふたりを隔てるものはなにもない。
鬼の表情から、彼の内面を探ることは不可能だった。
厚い雲に覆われた月も星もない夜のように、鬼の瞳は陰っている。なにかあったのだと景は勘づいたが、それを尋ねるだけの勇気はなく、ただその場にたたずんでいた。
鬼は、刀を鞘に納めていない。
むき出しの鋭い刀身に、見たこともないような洗練された刃紋が施されているのが分かった。目を奪われるような刀だった。その知識の薄い景にも、鬼の刀は相当な名刀であり、ただの飾りではないのだということがひしひしと伝わってくる。もしかしたら、沢山の人を切ってきた刀かもしれないと、そんな気さえした。
手入れの行き届いていない鬱蒼とした松林が、ざわざわと不気味な音を立てて揺れる。
景にできたのは、何度か瞳をまたたくことだけだった。
気が付くと、景ののど元に鬼の刀の切先が突きつけられていた。あまりの速さで、景は風さえ感じなかった。ただ、刀の峰の冷たさだけがじんわりと首に伝わってくるのに、景は凍りついた。
鬼はまさに鬼神のような冷酷な瞳を景に向けている。ふたりの視線は強くからみ合って、どちらも一寸たりとも動かなかった。
しばらく無意識に呼吸を止めていた景は、胸が苦しくなってすうっと息を吸い込んだ。その途端に鬼の刀がほんの少し喉に食い込み、鋭い痛みを感じると、景の瞳から涙がこぼれた。
いいえ、違う──と、景は胸の中で否定した。
痛いのは刀ではない。
鬼に向けられた冷たい視線が、痛い。鬼の瞳に星が見えないのが悲しい。このまま斬られてしまえば、もう彼に会えないのだということが辛い。
最期に見る鬼の目が、こんなふうに冷たいのが切ない。
景はそっとまぶたを伏せて目を閉じた。
そして、鬼を恨まないでいようと心に決めた。彼に助けてもらわなかったら、景の命はすでに昨日終わっていたのだろうから。彼に出逢わなければ、景はまだ殿方を慕う心を知らないままでいたのだろうから。
たとえほんの短い間でも、鬼は景に幸せな気持ちを与えてくれた。
彼にしかできない、不思議なかたちで。
しばらくは静かで、なにもおこらなかった。
景は瞳を閉じて鬼の刀の前に立ち、なんらかの形で、鬼がこの緊張に決着をつけてくれるのを待っていた。しかし、沈黙は景の想像以上に長く、いつしか景は不可解に思いはじめて、ゆっくりと目を開いた。
すると、鬼はもう刀を鞘に戻していた。
刀身が宙を切る音も、鯉口が鍔に合わさる音も一切聞こえなかったのに、鬼はすでに刀を持っていない。一瞬、景は短い夢を見ていたのではないかと錯覚したほど、ふたりの間にあった緊張感も綺麗に消えている。
しかし、のど元のちくりとする痛みだけは、まだ現実として残っていた。
「素振りをしていただけだ。起こしてしまったようだな」
景をじっと見つめる鬼の瞳には、もう先刻の冷たさはなかった。しかし代わりに、鬼の中になにか説明のできない、少女の知らない激しい感情が、荒ぶり、ほとばしっているような気がして、景は頬を赤らめた。
こんな瞳に見つめられ続けたら……と考えるだけで、景の身体は芯から火照った。
「いえ……最初から眠れなかったのです。こちらこそ、邪魔をしてしまったようで申し訳ありません」
「不審な音がしたなら、不用意に外へ出ないことだ」
「そ、そのようですね」
景は両手をそっと首に当てて、怪我を確認した。痛かったのに、血はほとんど出ていないようで、景はほっと胸をなでおろした。
もしかしたら、今のはすべて鬼一流の冗談だったのだろうかと思えてくるほど、緊張感の名残りはなくなっている。
代わりに、鬼の景を見つめる瞳は熱かった。
これが『心がない』と言った男のものとは、どうしても思えないくらいに。




