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鬼景色  作者: 泉野ジュール
『思慕』
8/16

07



 太陽が完全に落ちて辺りが闇に包まれると、景はおやすみなさいと言い残して部屋へ戻った。

 そして鬼は再びひとりになった。


 こうして一人になり思い返してみると、景の父の反応はしごく鈍かったと、鬼は思う。

 娘が刺客に狙われているかもしれないという事実に対して、驚きはしていたが、心当たりはある、というような顔をしていた。いや、表情だけではない。そもそもなぜだという疑問さえ口にしなかった。

 そしておきくの存在。


 鬼は昇りはじめた三日月を見上げつつ、静かに精神を研ぎすました。

 すっと腰の刀を抜くと、鋭い銀の輝きが滑らかに宙を舞い、闇に光りを放つ。この刀は、と鬼は思った。この刀は今夜、誰を切るのだろうか。


 まだこの時間に剣が来ないのは分かっていたが、鬼は景の部屋から遠ざからないことにした。できれば、景の父とおきくの様子を確かめてみたい気がしないでもなかったが、景をひとりにしたくなかったのだ。

 耳を澄ますと、ざわざわと揺れる草木の音に混じって、虫の声がチリチリ、コロコロと響く。鬼はその音の癖をしっかりと記憶した。自然は鋭くも敏感で、侵入者があるとすぐに音を変える。たとえ人の耳をあざむくことができても、野生のものたちから逃げることはできないということか。

 鬼は静かに時を待った。


 とはいえ、静寂は鬼の心を静めはしなかった。

 それどころか逆に、鬼の中に見えない嵐が吹き荒れつつあるようだった。

 ──あり得ない、と鬼は自身に言い聞かせなければならなかった。鬼には心がない。昔はあったこともあるのだろう、しかし今はもう、とうの昔に失っている。


 それなのに、あの甘い声が鬼の脳裏に繰り返し響いて止まなかった。

 目をつぶれば、景の瞳と、凛とした横顔がまぶたの裏に張り付いたように離れない。

 鬼の想像は檻から放たれた獣のように荒々しく暴れた。景の細い首におのれの唇を押し付け、彼女の芳香を吸い、むさぼるようにあの白い肢体を抱く白昼夢を見た。鬼の手は、景の細い手を握ったときの冷たい心地よさをいつまでも覚えている。

 そして、景の言葉を。


 視点の定まらない目で暗闇を眺めながら、鬼はすべての邪念を振り切るために神経を集中した。

 どういう形であれ、景は命を狙われている。

 情を移すべきではない。

 ザクロはすべてを見越して鬼と剣の双方に命を託したのだろうか。そうかもしれない。鬼のを握る手にさらに力が入った。

 深夜が近づくにつれ闇が濃くなり、風が強くなっていく。


 鬼は本能に感じていた──すぐだ、と。

 そして虫の音が止まった。


 庭園の先にそろっている松の木の陰から、剣は音もなく現れた。

 刀はまだ腰に帯びたまま、濃い灰色の着物に身を包み、髪は結わずに肩まで垂らしていた。南蛮の血が入っていると噂のある剣の髪は、薄い茶色をしていて、癖のある波を打っている。

 鬼が闇であるなら、剣は陽だ。ザクロはそれをよく使い分けている。


「では説明してもらおうか、鬼」

 剣は一歩前に進むと、鬼にしか聞こえないような低い声で話しはじめた。

「あの娘は俺の獲物だと思っていたんだがな。ザクロの話によれば、俺が切れなかったとき、お前を寄越すつもりだとね。無用の心配というものだが、ザクロが決めたことだ」


 鬼は黙って、剣の言葉を聞いていた。

 もともと鬼は自ら喋ったりはしない男だ。多くの場合、刺客としての鬼は、口で喋るのではなく刀に語らせていた。

「しかしお前は昼、俺の邪魔をした。そして今、あの娘の周りをうろついている……。どういうことだ? もう切ったのか?」

 鬼はまだ答えなかった。


 剣はその沈黙にひるむこともなく、雑草の生えた庭にまで足を踏み入れると、猫のような足取りで徐々に鬼に近づいてくる。鬼はその足下をじっと見た。

「ザクロによれば、俺があの小娘に色情を抱くかもしれないからだ、と。は! 確かに別嬪ではあろう。俺は女が好きだ。しかしあの小娘は俺にはちと若すぎる。俺はもっと妖艶なのが好きだ。ザクロのような、な」

 この男がザクロに気を持っていることは昔から知っていた。

 だからこそ、この男はザクロに忠実だ。

 もしザクロが景を切れと剣に命令したならば、剣は景を切る。それを止められる者がいるとしたら、それは鬼以外にはありえない。

 剣はさらに歩を進めた。

 ふたりの男の間合いがゆっくりと狭まっていく。


「俺は心の狭い男ではない。どうだ、この際、一緒にあの小娘を襲うというのは?」

 剣の声はどこか楽しそうだった。

「お前はあの白い首を切ったらどうだ。心臓は俺がいただこう。若い生娘の肌から溢れる血はさぞかし香り高かろ──」


 その瞬間、鬼の刀が素早く闇を切った。

 はらりと音ならぬ音がして、剣の髪の一部が──喉のすぐ近くから──地面に散るように落ちる。一瞬のことだった。

 しばらくの沈黙ののち、剣は己の頬に手を当てるとにやりと口の端を上げた。ほんの皮一枚だけ、剣の頬は横に切られていた。剣もこの道の玄人だ。これがどれだけ高い技術を必要とするのか、よく分かっている。

「面白い。お前には心というものがないのかと思っていたが──」

 剣は腰に携えた刀の柄に手を添え、鯉口を切った。

 鬼は黙って剣が刀を抜くのを待った。


 刀を抜きとった剣はすぐに正眼に構えたが、鬼は構えを取らずに、切先を地面に向けたまま、相手と対峙した。もしこの場に別の人間がいたら、その者は鬼と剣の気迫だけで身を千に切り刻まれたような痛みを感じるはずだ。それほど鋭い空気が辺りに満ちていた。


「心を奪われたのはお前の方か、鬼」

「あれは俺が殺る」

「では一体、なにを待っている」


 じりりと剣が間合いを狭めてきた。

 お互いの戦い方はよく分かっていたから、鬼はこれ以上、剣に近づかせるつもりはなかった。剣は渾身の力を込めて敵を一刀両断するような荒々しい技を得意としている。対して鬼は、刀の切先だけを使って鮮やかに急所を切り裂くような、速さと技術を使うことが多かった。

 乾いた風が吹くと同時に、ふたりは踏み込み合った。


 鬼の刀が飛燕のように宙を舞う。


 キンと甲高い金属音が響いて、剣は鬼の刀を横手に受けていたが、その衝撃にわずかに姿勢を崩していた。鬼は剣が姿勢を立て直す隙を与えず、次の一撃を脇腹めがけて放った。

 鬼の太刀筋は滑るようによどみなく、一見、剣の激しい刀の振るい方と並ぶと、まるで力が込められていないようにさえ見える。それこそが鬼の技だった。


 人間のものとは思えないほどの技。

 心を一切受け入れない神技。


 剣は素早く身を引いたが、鬼の刀は剣の脇腹を下から斜めに薄く切っていた。剣の着物が破れ、固いはずの帯までが割れるように切れて、はらりと肌がはだける。その肌には一本の細い筋が走り、紅い血がわずかににじみでていた。

 息ひとつ乱さずに、一歩引いたところで下段に構えている鬼を、剣は険しい瞳でにらみながら構えなおした。

 しかしもう勝敗はついている。


「あれは俺が殺る」

 鬼はもう一度言った。


 誰が、誰に向かって言っていたのだろう──鬼は剣に宣言すると同時に、彼自身にも言い聞かせていたのかもしれない。いつ、どんなふうに、どんな形になるにせよ、それが鬼と景に課された運命なのだと。

 剣は肩で息をしていた。

 刀を抜いた鬼にこれだけ近づけただけで、剣は十分に優れた剣士であるのだ。しかも今の鬼の殺気は尋常ではなかった。


「……ザクロには俺から伝えよう」

 そう言い残すと、剣は素早く闇の中に消えていった。それがなにを意味するのか、鬼にはよく分かっていた。



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