03
名前だ、と鬼は理解することにした。
ケイという響きが、過去を思い出させるからだ、と。
鬼は静かに少女を見下ろし、「大丈夫か」と訊いた。
少女はしばらく口をぱくぱく動かし、なにがしかを答えようとしているようだったが、声にはならず。地面についた細い手が、恐怖と緊張に震えているのが見えた。鬼はまったく表情を変えず、無言で彼女に片手を差し出した。
「あ……」
と、少女は呟きながら、ゆっくりと鬼の手を取る。
「ありがとう……ございます」
間近で聞く少女の声には、不思議な響きがあった。
なにがどう、と聞かれても答えは無かったが、その声は鬼の耳をくすぐり、心臓のあたりに熱い焼き印を押しつけられたような圧迫を与えた。痛みといっていいかもしれない。
そうだ。少女の声は、鬼の心臓に痛みを与えた。
少女は鬼の手に助けられ、ふらふらと立ち上がると、鬼を見上げた。
着物の裾からのぞく震えた足下から、鬼は少女がすぐに寄りかかってくるのではないかと予想していたが、意外にも彼女は気丈に自分を支えて立っている。
「助けて、いただいたのですね」
鬼は答えなかった。
確かに、今鬼がとっさにした行為は、少女の命をいくぶんか延ばしはしたのだろう。だから鬼は否定も肯定もしなかった。
往来の人々が遠巻きにふたりを囲んでいる。
ある者は鬼の刀さばきに驚愕して佇んでおり、またある者は、なにが起きたのかほとんど分からないで呆然と目を見開いていたりした。鬼は人の目を気にする男ではなかったが、職業柄、大勢に注目されるのは避けたい。鬼はここを去るべきだと分かっていた。
「さっさと屋敷に帰るがいい。一人で外をうろつかないことだ」
それだけ言うと、鬼はきびすを返し、歩き去ろうとした。
しかし、少女はハッとしたような、反射的な動きで、鬼の手をきつく握り直して追いすがった。
「ま、待ってください。お礼を……お礼をさせていただかないと」
鬼ならたとえ少女が百人束になっても振り切ることができたはずだった。しかし現実には、鬼は少女に握られた手に反応し、足を止めていた。
「必要ない」
その理由の説明もなく、鬼はきっぱりと言い放った。
「いいえ、わたし……今、なにが起ったのか……よく分からないのですけれど、あなたに命を助けていただいたことだけは分かります。なにもお返ししないわけには」
握られた少女の手は、緊張のためか冷たかった。しかし、心地いい冷たさだ。
鬼の胸に清涼な風のようなものが吹きあれた。どういうわけか、もう少しこの手に触れていたいような気分にさせられる、そんな冷たさだった。
少女は鬼にすがり続ける。
「わたしの父は、大きな商売をしています。武家ではありませんが、それなりの蓄えがあります。どうか、どうか、お礼をさせてください」
そのとき、鬼はどうして少女が必死ですがってくるのか、理由が分かった。
少女の手は震えている。顔は蒼白で、肩までが緊張で小刻みに震えていた。その瞳は瞳孔までが大きく開かれていて、相当な恐怖を感じていたのだと、鬼に伝えていた。彼女は一人になりたくないのだろう。
鬼は一度、まばたきをした。
「礼はいらぬ。しかし、家まで送ろう」
すると少女の目は安堵と喜びに輝き、強ばっていた肩がゆっくりと下がった。
「ありがとうございます」
鬼はしばらく少女の顔を見下ろしたのち、彼女の手をすっと離して、地面に落ちていた風呂敷包みを屈んで持ち上げた。ぽんと包みを手に戻され、少女はさらに安心したようだった。
「家はどっちだ」
答えは知っていたが、鬼は少女に質問した。ザクロは暗殺に必要な情報をほとんど与えてくれていた……ただ、肝心の『なぜ』殺す必要があるのかという部分だけは、口を割らなかったが。
「城下の中央を少し西に行ったところです。ここから遠くありません。歩いてきたんです」
ああ、知っている、と、鬼は内心うなづいた。
「では行こう」
ふたりを遠巻きに囲んでいる人間たちが、いよいよ声を掛けたそうに近づいてきているのを見て、鬼は少女をうながした。しかし、当然すぐについてくると思っていた少女が、足を止めて首を振った。
「でも……申し訳ありません。その前にこの包みを届けないといけないのです」
「後にしろ」
鬼は言い切った。
鬼は、少女が町人と話しながら、ずいぶんとゆっくり歩いていたのを知っている。急ぎの用事には見えなかった。
「でも、ここからすぐ近くです。軒先がもう見えます。今日中に渡したいのです」
いかにもか弱そうな外観とは異なる、少女の意外な頑固さに、鬼は多少ならずとも驚いた。声はまだ緊張を含んでいるものの、この少女は、しっかりとした賢そうな喋り方をする。
しかし、賢い選択をしているとは思えなかった。
「お前はたった今しがた、暴漢に襲われそうになったんだ。外をほっつき回っていればそれだけ、また襲われる可能性が増える。届け物なら、家に帰ったあと使いを出させればいいだろう」
少女はきゅっと口を結んで、鬼を見つめる。
「でも……それはできないんです」
急にしぼんでしまったように肩をすぼめ、風呂敷包みを胸に押し当てる少女を見て、鬼はいぶかしがった。少女の家は裕福な商家だ。ザクロからそう聞いていたし、本人もたった今、それをほのめかした。少女の暗殺依頼の理由も、まだ確信はなかったが、その富が原因ではないかと鬼は踏んでいる。
使い丁稚の一人や二人、いくらでもだせるだろうに。
「相手は情人か?」
「いいえ! ま、まさか」
秘密の恋人に届け物をする気かと聞かれ、少女は急に真っ赤になり、懸命に首を振った。
「昔、わたしの乳母だった方です。今は腰を悪くされて、身寄りも無く……わたしは、時々彼女のお世話をしたり、こうして食べ物を届けたりしているんです」
鬼は黙った。
正直、ますます疑問が湧くだけだ。後で使いを出せない理由が説明できないし、裕福な商家の年若い娘が、乳母の世話などやくものだろうか。
しかし少女は、鬼の疑問を感じ取ったようだった。少し切なそうに微笑むと、簡単に事情を説明した。
「わたしの母は幼い頃に亡くなって、この乳母が母代わりでした。でも父が再婚して、その相手の方が、わたし達を疎みだしたのです。乳母は暇を出されました。わたしは、さすがに父がいますから、追い出す訳にもいかないようで……」
なるほど、と鬼は思った。
この少女の、か弱いだけではない底辺の強さのようなものは、こうした境遇で培われてきたものなのだろう、と。なるほど、この少女には、良家で育った娘独特の可憐さがあったが、脆弱さはない。しかし、鬼は同情はしなかった。
なぜなら、鬼に情などというものは無いからだ。
「死にたいのなら、そうするんだな」
冷たく言い放たれた鬼の言葉に、娘は表情を曇らせたが、泣きはしなかった。
「死にたいとは思いません。でも、恩人の期待を裏切ってまで、生きようとは思いません」
「たかが飯だろう」
鬼は少女の持つ風呂敷包みを顎でしゃくって示した。
「ええ……でも、わたしが今持って行かなかったら、次がいつになるか分かりません。毎日自由に外に出られる訳ではないんです」
なんという頑固さだ。
反論する気も失せて、鬼はくるりと少女に背を向けた。
鬼が数歩歩き出しても、少女はそのままの場所にぽつねんと佇んだままでいた。その姿は、儚げだった。それはそうだろう、鬼と剣の両方に狙われているとあっては、彼女の命はもう長くは持たないのだから。
俺は、なにをしているんだ。
鬼は少女を振り返り、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
彼女の瞳もまた、鬼をまっすぐに見据えている。
「長居はするな。物を渡すだけで終わりにしろ」
少女は安堵のため息をもらし、微笑みながら鬼の隣に駆け寄った。そしてふたりはそのまま並んで歩きはじめた。




