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鬼景色  作者: 泉野ジュール
『鬼』
3/16

02



 華やかな商店の並ぶ大通りをはさんで、鬼はじっと、ひとりの少女の一挙一動を観察していた。


 少女は品のいい青色をした着物姿で、紺の風呂敷包みを持って歩いている。柔らかそうな黒髪は器用にうなじ辺りでまとめられ、着物に似合った青のかんざしで留められていた。


 しょっちゅう、通行人や商店の主が彼女に声をかける。

 すると少女は必ず、穏やかな微笑みを浮かべてひとりひとりに丁寧に返事をするのだった。そんなだから、彼女の歩みは遅かった。茶屋の軒に座った老人から、往来を駆け回っている子供まで、様々な人間が少女にひと声かけようとするからだ。


 大通りは人で溢れている。

 一体、鬼は、これほど殺しやすそうな標的を他に知らなかった。


 その他大勢に混ざって少女に近づき、声をかけ、ふいに彼女のかんざしを抜いて心臓をひと突きすれば、それで話は終わりそうだ。少女は声を上げることもできないだろう。少女は、自分が死ぬということさえ分からないまま、息を引き取るはずだ。そして鬼は、なに食わぬ顔で往来に溶け込んで消え、報酬を受けるためにザクロのところへ戻る。


 夜を待つ必要もない。

 刀を振るう必要さえない。

 なんというあっけない命……それが少女、景だった。


 なぜザクロがこの少女の暗殺を鬼に頼んだのか、鬼はまだ答えが出せずにいた。

 なるほど、ザクロは少女が美しいため、剣では情が湧いて、殺しづらくなるかもしれないから……と言った。しかし、それだけなら、単純に鬼一人に依頼を託せばいいものを、剣にも同じことを頼むつもりでいると言う。明らかにいつもとは違う扱いだった。


 それに加え、鬼は自分がなぜここに立って少女を観察し続けているのか、その理由をも分からずにいた。

 剣に先を譲る必要はないはずだ。


 鬼がさっさと先に少女を殺してしまえば、それですべては終わり。誰に殺されたからといって少女の運命が変わるわけでもなく、報酬は当然、鬼のものとなる。剣は文句を言うかもしれないが、あの男は口先がうるさいだけで、根に持つ性格ではないのは分かっていた。


 しかし、なにかが鬼を止めていた。


 いままでどんな相手をどんな状況で殺さなければならないといって、理由もなく躊躇したことはなかったのに、なにかが鬼の足を止めているようだった。鬼には心がなかったが、頭がない訳ではない。危険な状況ならば身を引き、機会を待つことをためらわなかった。生きたい訳ではないが、死にたい訳でもないのだ。だから、まともな理由さえあれば、鬼は自分を止めた。


 しかし、今はなんだ?

 さっさと殺ってしまえばいいのに、なぜ俺は、ここに棒のように立ち尽くして、少女を眺めている?


 少女は抜けるような白い肌をしていた。

 髪といい、肌といい、唇といい、すべてが柔らかそうな少女だった。年の頃は十五、六ほどか。鬼よりも一回り以上若いように思える。


 しかし、なによりも鬼の視線を釘付けにしたのは、少女の瞳だった。

 美しいとか、美しくないとか、そういった形容はなに一つ思い浮かばなかったが、ただ、少女の瞳から目を離せずにいた。

 目を、離せずにいた。


 そうしてしばらく経ったころ、少女はやっと声を掛けてくる連中から解放されて、ひとりになっていた。相変わらず大通りは忙しく、人混みにまぎれるのに不自由はない。

 いまだ。

 鬼はその機会を感じた。

 ずっと前を見て歩いていた少女がうつむき加減になった時、着物の影から白いうなじがのぞき、彼女がどれだけ殺りやすい存在であるかを雄弁に物語った。いまだ。行け。


 しかし、鬼の足は動かない。

 なにを待っている。


 どういうわけか、鬼の身体はかたくなに動くことを拒否していた。なぜか口の中が湿りだして、鬼はごくりと唾を飲み込んだが、目だけは少女からひと時も離さずにいた。


 その時だ。


 鬼は、少女の目の前に飛び出してきた、一人の男の影を見た……まさに鬼がしようとしていたように、人混みにまぎれ彼女に近づき、なにか鋭利なもので急所をひと突きしようとする影……。

 もちろん、鬼でなければ気付くこともできないほどの早さだ。鬼だから、見つけることができた。

 そして、鬼だけが、止めることができた。


 ずっと動かなかった鬼の身体が、今度は見えない力に弾かれたように、素早く往来を駆け抜けた。常人にはあり得ないほどの身のこなしだったが、間に合うかどうかは確かではなかった。鬼の心臓が高鳴る。

 そして、なにかに気が付いた少女が、驚いたように顔を上げる。



「きゃあ!」

 少女は手にしていた風呂敷包みを地面に落とし、突き落とされたように背を下にして転んだ。一瞬のことで、なにか起ったのかまったく分からなかっただろう。そして突如、キィンという鋭い金属音が鳴って、少女の目の前に二人の男が対峙していた。


「くっ!」

 男たちのどちらかが、わずかな声を漏らす。


 少女はただ目を見開き、恐怖におののきながら目の前の光景を見た。しかし、見るといっても、少女から見えるのは彼女の前に立った男の背中だけだ。紺色の着物の、大きな背中。

 さらに数回、信じられないような素早さで、なんども金属音が鳴り響いた。刀と刀が戦っている音だとは分かったが、そのあまりの素早さに、何十人もの男が同時に刀を振るい合っているのではないかと思えるほどだった。


 少女の背筋が震える。

 しかし、戦局は長くは続かなかった。

 大きい一撃が振るわれる音がして、人が倒れる音がそれに続く。


 どちらかの男がまた苦しげな声を漏らし、そして、誰かが駆け出していく地面を蹴る音がすると、静かになった……。すべては、ほんのひと時の出来事だった。


 鬼はゆっくりと刀を脇に降ろすと、上がった息を肩で整えようとした。

 さすが、剣だ。

 他の相手のように一瞬で打ちのめすことはできなかった。しかし、自他ともに認めるように、鬼と剣では技能に差がある。少なくとも、一対一で正面からやりあって、鬼が負けるということはなかった。手応えはあったが、苦戦と呼べるほどのものでもない。


 息が整うと鬼は刀を鞘におさめ、後ろを振り返った。

 そして、地面に座り込んだ少女を見下ろした。


 少女、そう……景を。



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