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鬼景色  作者: 泉野ジュール
『鬼』
2/16

01 -鬼-



 時は有り明け方、東の空に太陽がゆっくりと昇っている。

 現場に駆けつけた町奉行は、裏路地に転がった被害者の有様を見て、力なく首を振った。


「こりゃあ、普通の人間の仕業ではないな。こんなことができるのは、獣か、怨霊か、鬼としか思えん」

 町奉行の後ろでは、助手と思える若い男が、眉をしかめて口に手を当てながら、ええ、と言ってうなづいている。


「相当に鋭利な剣をものすごい力で振るわないと、こうは切れませんでしょうね」

「鬼か」

 助手は再びうなづいた。「ええ。でも、仏さんには悪いですが、これで町も少し平和になるかもしれません」


 助手の言うとおり、裏路地に横たわる被害者は、奉行所では名の知れた悪人だった。きな臭い噂がいくつもあった、悪徳商人の頭だ。いつかしょっぴいてやろうと目論んでいたのだが、町奉行より先に辛抱を切らした人間が、他にいたというわけだ。

 人間……と呼んでいいのか、分からないが。

 それほど恐ろしい切り口だった。人の心を持った人間が、このようなことをできるものだろうかと思うほどに。


「鬼、か」

 町奉行はまた呟き、朝日の昇る空に視線を移した。


 ここ数年、なんどかこの『鬼』の所業を見てきた。朝日に目をつぶれば、数々の被害者の有様が浮かんでくる。どれも人の心と情けを持つ人間の仕業とは思えぬほど、冷酷で、鮮やかだったから、奉行所ではこれを『鬼』と呼んだのだ。

 暗号のようなものでもあり、畏怖のようなものでもあった。

 町奉行は再びそっと被害者を見下ろし、その切り口の無惨さ、無慈悲さに力なく首を振った。

 恐ろしい、恐ろしい鬼がいるものだ。



 乾いた道の向こうに、『紅屋』と書かれた暖簾のれんの掛かった、店のようなものが佇んでいる。

 辺りに他の商店の姿はあまりなく、人家や長屋が並んだ、町外れの一角だった。見た目はいっそ平凡であり、よく清められた正面と、暖簾の後ろに隠れた想像以上に幅の広く背の高い入り口をのぞけば、すっかり風景に溶け込んでいる。


 そこに、一人の男が入っていった。


 その男は背が高く、着物の上からでも分かるほど鍛えられた身体をしていたが、その動作には音がなかった。足音も、戸を開ける音も、ほとんど聞こえない。結い上げられた黒髪は雨降る夜の闇のようで、しっとりとした漆黒だ。それだけがよく目立った。

 しかしそれ以外は、まさに闇のような男だ。

 静かで、大きくて、見る者に恐れを抱かせるような。


 男が『紅屋』の店中に入ると、しかし、そこはほとんど商店の様相をしていなかった。申し訳程度に、鮮やかな反物が見事な木棚に並べられているほかは、人気もない。しかし内装は、どこぞの城か大屋敷かと見まごうほど洗練されている。

 町人を相手に商売をする気がないのは明らかだった。

 知らぬ者が見れば、よっぽど身分の高い客にだけ卸をする高級反物屋にでも映るだろうか。


 男は座敷に上がり、一番奥のふすまを開けた。

 現れた部屋の中央には、それは鮮やかな紅の着物を着崩した面長の美女が、煙管きせる煙草を吹かしながら優雅に座っていた。

 長い髪は首の後ろで緩やかに結ばれ、肩から胸元にまで流れている。ぱっと見では年齢がよく分からない女だ。若くもなければ、年かさでもでもない、妙齢であるだろうか。


「よく帰ってきたね。さあ、こちらに来て話を聞かせてくれるかい、鬼」

 煙管を持ち上げ、煙をくゆらせながら、女は言った。


 女の語調は、命令口調でこそなかったものの、相手が自分の言葉に従うのに慣れている者のそれである。

 事実、鬼と呼ばれた男は、言われたとおりに女の側へ進んだ。

 すると女は目を細め、いっそ恍惚といってもいいような表情を浮かべ、男の着物の袖に鼻を寄せた。


「うん、いい匂いがする。綺麗にったねえ、鬼。匂いで分かるよ」


 男は答えなかった。

 どういう形であれ、褒められているのは確かであるはずなのに、それに喜ぶことも照れることもせず、ただ女のしたいようにさせていた。

「このザクロには慧眼があるのさ。物事の本質を見極める力がね。子供だったあんたを拾った時から、あんたが素晴らしい刺客になるのは手に取るように分かった。まぁ、もちろん……」

 そこまで言って、女はまた煙管をくわえて煙草を吸った。そして、ゆっくり煙を吐き出しながら続ける。


「『あれ』のお陰もあるけどね。でも、誰だって『あれ』を乗り越えられる訳じゃない。それが出来るあんたを見つけたのが、このわたし、ザクロだったって訳さ」


 男は、やはりなにも答えなかった。


 はたしてこの男には心があるのだろうかと思えるほど、無表情のままだ。切れ長の瞳はたしかにザクロと名乗った女の指先を追っている。しかし、その指が男のえりもとを滑っても、眉一つ動かさなかった。

 どれだけ妖艶な女の指の動きにも、女の長い首がのぞく襟元がどれだけ近づいてきても、その媚薬のような甘い香りが鼻腔をくすぐっても。


 男は動かない。

 動く理由がない、とでもいうふうに。


 女の方も、男の無反応に気を悪くするわけでもなく、好き勝手にしている。

「まぁ、あれだね。あの男はもっと苦しませてやってもよかっただろうけどね。でも、確実にしたかったんだよ。だからあんたを選んだって訳さ、鬼。剣じゃなくて」

 すると、女は自分の着物の衿に手を入れて、胸元あたりをさぐり、一つの和紙に包まれた包みを取り出してみせた。

「報酬だよ。はずんでおいたからね」


 男はそれを女から受け取り、自分の着物の中へしまい込んだ。中身を確認するということはなかった。

 女はまた煙管をくゆらせ、鬼と呼ばれた男をじっくりと鑑賞するように見つめる。

 そして、ある時点でなにかを決意したようだった。

 横にあった丸い漆喰の盆に煙管をのせると、紅を塗った唇でふふと微笑んで見せる。しかし、目は笑っていなかった。


「さっそくで悪いけど、鬼、あんたに頼みたい仕事がもう一つある」


 男はわずかに首をかしげながら女を見下ろし、彼女が言葉を続けるのを待っているようだった。女はこの、男の無反応に近い反応に慣れているようで、滑らかに先を続けた。


「なぁに、簡単な仕事だよ。きっと今までで一番楽な依頼だろうね。相手は、若い娘っ子でね。鍛えてるわけでもない、ただのか弱い女子さ。名前はケイ


 この時はじめて、男はピクリと眉を動かした。

 そして、形いい、ずっと結ばれていた男の唇が動くと、低い、まるで鐘の音のように空気を震わせる声が響いた。

「そんなに簡単なら、なぜ俺を?」

 その問いに女は、唇の両端をますます上げて、満足そうにうなづく。

「まぁ、怒らないでおくれよ。実はね、この娘はたいした別嬪べっぴんさんなんだ。可愛らしくて可憐な娘さんさ。おまけに彼女自身にはなんの罪もないときた。だから剣じゃ、情にほだされてしまうかもしれなくてねぇ……人情どころか、色情までねぇ」

「なぜ?」


 なぜ、殺る必要がある?

 男の素朴な質問に、しかし、女は笑いながら、答えなかった。


「実はね、剣にも同じことを頼もうと思っているんだよ。もし剣が殺れなかった場合は、鬼、あんたが殺ればいい。どうだい?」


 男に選択の余地などなかった。選ぶ必要も、その理由もなかった。

 そう。今までは。



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