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部屋に死の匂いはなかった。
でもそれは、鬼の嗅覚が麻痺して、なにも感じられなくなっていただけかもしれない。
身体中の臓物がひどく重く感じられた。胸が、腹が、頭さえもが、その働きを放棄してただの肉塊に成り果てたようだった。血潮はたしかにうるさいくらいに脈打っている。しかし、そこに生気はない。
「景……?」
二十畳ほどの広さの部屋の中央には、布団が敷かれていた。純白だ。死者の色。
鬼の足はひとりでに、一歩、もう一歩と、景だったものに近づいていく。鬼の足袋は濡れていて、彼が歩を進めるたびに畳を濡らした。
ザクロは潔癖症なところがあって、いつもならこんな振る舞いを許したりはしない。
しかし今日はなにも言ってこなかった。
代わりに彼女は……なんと言っていた?
『惚れちゃったんだねぇ、かわいそうに』
かわいそう?
父のかつての慟哭が耳の奥に木霊する。
『いかないでくれ。いかないでくれ。いかないでくれ』……。
いいや、父さん。
少なくともあなたには別れを告げる時間があったじゃないか。
俺になにがある? 数日ばかりの、秘密の上に成り立った、ささやかなばかりのやり取りの時間。景は木籠を作っていた。
鬼には、心などなかった。ないはずだった。
鬼はひとの命を奪って生きる獣だ。心は必要ないだけでなく、持っていてはいけないものだった。鬼自身が、生きていくために。
なんたる皮肉。
布団の一歩手前で足を止めた鬼は、白い布をかけられて盛り上がる、ひとの形をじっと見つめた。
小さい。
そうだ、景はとても小さくて、細くて、儚げだった。剣の振るう刃の前にはまったくの無力だっただろう。せめて……。
せめて……。
「景……。痛くは……なかっただろうか……」
もちろん答えはない。
「お前を一人にするべきではなかった。すまない……すまない……」
許してくれと言いかけて、鬼は口をつぐんだ。
許しが欲しいわけではない。許しなどいらない。そもそもそんなものを受ける資格は鬼にはない。
鬼が欲しいのは景だ。彼女の声だ。あの、はにかんだ微笑みだ。『鬼殿』と鬼を呼ぶ、あの景だ。
白い布はすっぽりと景の体を覆っていて、遠くに立ったまま彼女の姿を見ることは叶わなかった。鬼はさらに進み、亡骸の隣にひざまずいた。
腰に差していた剣を、畳の床に置く。
もう遅すぎることだ。
しかし、なにがあっても鬼は景に危害を加えないという印を、彼女の前に示したかった。
もう遅すぎる……。本当に、なにもかもが遅すぎることだ。
鬼は、景の顔にあたる部分の布をめくった。
安らかに目を閉じた、景の顔が現れる。青白くはあったが、まだ息を引き取ってからほとんど時間が経っていないのだろう、まだほのかな桃色が頰に差している。
『おケイ、おケイ、おケイ』……。
まさかこんな運命が繰り返されるとは。
鬼も父と同じ道を辿るのだろうか。そうかもしれない。それについてはいいとも悪いとも思わなかった。ただ、そうなるのだろうなという空虚な想像が、ぽっかりと穴の開いた体の奥に満ちていく感じだった。
『鬼とは、必ずしも悪いものを指すだけではないのだと思います』
景は言っていた。
悪鬼という言葉があるのだから、悪くない鬼もいるという意味だと。子供騙しの理論ではあるが、あの時たしかに鬼の中でなにかが震えた。
もしかしたそれが……鬼の中で眠っていた、心、だったのかもしれない。
『あなたの心は、きっと、どこか静かな所で眠っているのですね』
「景、お前は俺の心を起こしたんだよ」
もうずっと長い間、こんな喋り方をしたことはなかった。喉の奥が痛い。鬼はそっと景の首筋に視線を流した。が、傷はひとつもない。剣は喉を狙わなかったようだ。
となると、考えられるのは心臓だった。
心。
「それなのに……俺を置いて行ってしまうんだな。俺は……お前の心を守れなかった」
鬼のささやかなる独白は静かに部屋に響いた。外の霧雨のせいで、寒々とした湿気のある空気が充満している。
景は動かなかった。
でも、死が彼女を蝕んでいるようには見えない。景は綺麗だった。可愛かった。静かだった。
「すまない。すまなかった」
鬼は上半身をかがめ、ゆっくりと景に顔を近づけた。自分の前髪が彼女のひたいにかかる。鬼は目を閉じて、心を込めて景の唇に口づけた。
「景……」
鬼の心はなくなったわけじゃない。
ここにある。ここで脈打って、景を求めている。彼女を愛したかった。彼女と生きたかった。
鬼の頰にひと筋の塩水が垂れる。それが涙だと気づいた時には、その水滴は景の頰にぽとりと落ちていた。
「……ん……」
幻聴が聞こえる。景の声だ。まるで微睡から覚め、ぼんやりと現実を探しているようなかすれた声。
ぴくりと景の睫毛が揺れ、震える。
鬼は目を見開いた。
「け……」
……い。
なにか、とても心のこもった温かいものが唇に触れた気がして、景は目を覚ました。
不思議な感覚だった。
ザクロなる女の座敷に連れ込まれて……突然現れた剣と呼ばれた大きな男……いつか景を往来で襲ったことのある南蛮風の変わった男……に匂いの強い薬を嗅がされて……。気を失ったところまでは覚えていた。
それからしばらく夢を見ていたような気がする。
母を思い出した。千代を。そして……なによりも鬼を。おきくの裏切りを聞かされたというのに、恨みつらみは浮かばなかった。そんなことよりも、愛するひとの顔を見て安心したかった。
鬼。
景の初恋。そしてきっと、いつまでも最後の。
「景……景……け、い……」
それから……目を覚ますと、景の体はなにかひどく力強くて大きいものに抱き抱えられていた。手繰り寄せられるように力を込められ、雨に湿ったと思われる布や髪が押しつけられる。
それが、鬼だと気づくのに、いくらかの時間を要した。
「お……にどの……。どうして……ここ、に」
嗅がされた薬の影響だろうか、舌がうまく回らない。でも鬼はそんなことを構ったりはしなかった。ただひたすらに強く景を抱きしめて……それから彼女の体を離した。
「鬼殿……わたし……」
鬼は無言で、あり得ないほど真剣な目をして景の体をまじまじと見た。
と、思うと、鬼はおもむろに景の着物の胸元をずり下ろして、肌着をはだけさせた。
「って、え! ま、待ってくださ……!」
白い肌着に守られただけの胸元があらわになり、景は真っ赤になって狼狽した。なにが起きたのかわからなかった。
鬼は憑かれたような目で景の心臓があるあたりをじっと見つめていた。
肌が焼けるように熱く火照る。
「……景」
「鬼殿……こんな」
「お前は無事なのか」
「わ、わかりません……。ここに、連れ去られて……薬を嗅がされて……気がついたら、あなたが」
景が鬼を知っているのは、そんなに長い時間ではない。やっと三日を数えるほどで、彼のなにを理解できたというのだろう。
でも、その時に鬼が見せた表情は、信じられないほどたくさんの感情に溢れていた。驚き、悲しみ、希望、落胆。
そして、愛しさ。
なによりも、愛しさを。
鬼の心がふたたび息を吹き返したのだ。景にはそれがわかった。
「お前は俺が守ろう……。永久にだ」
鬼は震えた低い声でささやき、景をきつく抱きしめて離さなかった。