13
雨霧で霞む街道を走り抜ける鬼の心臓に、身を切り刻むような痛みが襲ってくる。
息ができない。
視界がかすむ。
まともにものを考えることさえ、できそうになかった。なぜ?
虫の知らせだろうか……。
鬼は、景の元を離れてからしばらくたって、居ても立っても居られなくなり、結局彼女の元へ引き返したのだ。
再び姿を現した鬼に景の父は目を丸くしていたが、なかば強引に景の部屋まで戻ってみると……彼女はもう消えていた。跡形さえなく。
殺すつもりだった少女が姿を消したからといって、なぜ、これほど必死になって雨の往来を駆ける必要がある?
答えはなかった。
答えを見つける努力さえ、する気が起きなかった。景に会わなければならない。彼女の顔を見なければならない。彼女の無事を確認し、この腕に抱きしめなければならない……。
この最後の思考が頭をよぎったことに、鬼は衝撃を受けた。
幼い日に聞いた、母が死んだ日の父の慟哭が胸に蘇り、なんどもなんども脳裏で繰り返される。おケイ、おケイ、おケイ。あれ以来、鬼は心を失ったはずだった。
今となっては生来の名前さえ捨て、心のない冷酷な刺客として生きてきた。
それが……。
(剣だろうか?)
剣が景を屠りにきたのだろうか。
できるだけ瞬時に、可能な限り綺麗に、素早く任務を遂行するのが信条の鬼に比べ、剣は相手次第では獲物をいたぶりながら殺すのを楽しむような性癖がいくらかあった。
そんな蛮行を。それを受ける苦しみを、鬼は知っている。
景がそんな目にあって、助けを求めて鬼の名をささやきながら息絶える姿がまぶたの奥に浮かび、鬼は不穏なうなり声を上げた。
鬼は走った。
ザクロのもとへ。
* * * *
まだ日中であるにもかかわらず、重い雨雲のせいで町並みは日暮れのように暗くよどんでいた。灰色の空の下を急いだ鬼は、「紅屋」に駆け込んだ。
雨気を吸って湿った暖簾は軒先にかけられたままで、突然の鬼の到来に、バサリと揺れる。
鬼は蹴り飛ばすように履き物を脱ぎ、家屋の中に入った。
挨拶さえせず、襖をピシャリと開くと同時に、鬼は厳しい口調で問うた。
「ザクロ、景をどこにやった」
奥の畳の座敷には、いつものように、襟口をわずかに着崩したザクロが寝そべるような姿勢で煙管をふかしていた。
まるで鬼の到来を予想していたようだった。
むしろ、
「遅かったね、鬼」
とまで曰う始末だ。
鬼の足袋は雨を吸って濡れていたが、かまわずに畳に上がって、すました顔のザクロに迫った。
「茶番を演じるのもいい加減にしろ、ザクロ。景は、あなたが殺しを請け負うような女ではない。裏になにがある? 景はどこにいる? 剣が手を出したのか?」
ザクロはくつくつと笑う。
「おお、饒舌なる鬼よ。今のはおそらく、あたしが聴いた中で最も長いあんたの科白だね。景姫さんはあんたの氷の舌まで溶かしたんだ。もうちょっと長く生きててくれりゃ、あんたも踊り出しただろうにねえ」
こんなふうに、感情が爆発したのははじめてだった。
ずっと胸中でくすぶっていた重い鉛の塊が爆ぜて、鬼の鎖骨をバラバラにして、胸を血だらけにされたような衝撃だった。
世界が反転した。
おケイ、おケイ、おケイ……。
鬼はやっと、父の気持ちを心から理解した。
そして、幼い鬼を置いてこの世を去った父を許した。なぜなら……耐えられるはずがない。たった数日を過ごしただけの鬼でさえ、この有様なのだから。
「ねえ、鬼」
ザクロはフーッと長く煙を吐いた。
今までなんとも思ったことがないのに、その時だけは、匂いの強い白煙がひどく鬱陶しかった。
「惚れちゃったんだねぇ、かわいそうに。可愛い子だったね。でも、依頼は依頼、そういう世界なんだよ」
「…………」
「剣はいい仕事をしたよ。あんたと違ってね」
さらに、ザクロの唇から吹き出され、宙にけぶる白煙。
目頭がツンと痛んだのは、煙のせいだ。そうだろう……?
違うのか?
なぜ?
「……どうしてもというなら、死に顔を見せてあげるよ。剣には、ひと思いにヤれと言ったんで、綺麗なままだからね」
ザクロは座敷の奥にあるもうひとつの襖を、顎をしゃくって示した。
襖の表面には雅で鮮やかな赤い牡丹が描かれている。
花が落ちる直前の刹那をとらえた、この座敷におあつらえむきの絵だった。そして、鬼の心を映すような……。
(心……?)
心がないなら、なぜ悲しい?
なぜ苦しい?
なぜ……切なくも朗らかに微笑む景の顔が、脳裏から離れない? なぜこの腕は彼女を抱きしめたくてうずく? なぜ足が震える? なぜ魂が慟哭する? なぜ……。
いくら問うても答えは出なかった。
なぜ彼女の亡骸が『紅屋』にあるのか、などという理論的な疑問は、すでに鬼の頭から抜け落ちていた。
ただ、足が向く。
一歩。
そしてまた、一歩。
鬼自身が墓から這い出してきた亡霊のような、不穏で、重い足取りで、牡丹の咲く襖に近づく。ザクロは彼を止めようとはしなかった。いつものように煙管を嗜みつつ、ただただ、黒髪の刺客の一挙一動を眺めている。
罠かもしれない。
罠でもよかった。
もし今、背後から襲われて五体を切り刻まれても、痛みは感じないだろう。心の痛みが深すぎて、肉体の苦痛など、微風ほどにも感じられないはずだ。
鬼は襖を開いた。