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鬼景色  作者: 泉野ジュール
『心』
13/16

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 雨ににじんだ薄靄が、古木に囲まれた塀を取り囲んでいるのをぼんやりと眺めながら、景は自室の前の縁側に腰を下ろして黙り込んでいた。

 強く降り出した雨が、すっかり空洞となった景の心を冷たく打ちすえる。


 これほどの空しさを感じるのは、幼い頃、母が亡くなった時以来かもしれなかった。あの頃、景はほんの童女でしかなかった。感情を制する方法などまったく知らず、溢れる寂しさにただただ枕を濡らした。


 しかし、今の景はもう童女ではない。

 なにも知らなかったあの頃の子供ではない。

 涙を止める方法など、すでに両の手の指でも数え切れないほど知っているはずだった。


(それなのに、どうして……)

 どうして、涙が止まらないのだろう。


 景の涙は、降り止まない雨と同じように頬を伝い続けた。

 たった三日、ともに時を過ごしただけなのに、景の心はすでに鬼の存在の虜になっていた。鬼のあの堂々とした男らしい姿に。あの暗いのに澄んだ深い瞳に。あの高貴な心に。


 景の心は鬼に染まっていた。

 一度色に染まった白い生地が二度と白には戻れないのと同じように、景の心も、鬼と出会う前に引き返すことはできなそうだった。


(もういっそ……)

 いっそ、あの暴漢が再び襲いに来ればいいのに。

 そうしたら鬼はまた助けに来てくれるだろうか。なにがしかの責任を感じて、また景の身を守ってくれるだろうか。父が心を変えて、再び鬼を雇ってくれるのではないだろうか……。


 すべては虚しい空想だった。

 わかっている……多分、景はもう二度と鬼に会うことはない。


 きっと近いうちに父は景の輿入れを決めるはずだ。多分に、おきくの意向が大きく働いた相手選びになるだろう。

 つまり、景が幸せになれる可能性は限りなく低いということだ。


 母はもう亡い。

 父はおきくに盗られてしまった。

 鬼とはもう会えない。

(どうか……。もう、どうか……)

 今まで、必死になって守っていた心の中の大切ななにかが、音を立てて崩れていくのを感じた。壊れていく。消えていく。

 それを止めようという気さえ、もう起きなかった。今この時、あの暴漢が再び現れても、景は抵抗しないだろう。心を失って生きていくということがどれだけ苦しいか、景は学びつつあった。


『俺には心がないのだ』

 と、鬼は言った。

 その言葉を漏らした彼の真意を思うと、胸が張り裂けてしまいそうだった。きっと鬼も、過去になにかひどく辛い経験があったのだろう。

 それでも真っ直ぐに生きている彼に、尊敬と憧れが深まる。もう二度と会えない人への思慕を深めることほど、切ないことはないというのに。


 景は静かに空を見上げる。

 重い灰色の雨雲は心を慰めはしなかったが、世の無常を感じるには十分な静けさがあった。もう泣くことしかできないなら、心ゆくまで泣いてしまおう。

 そう思って下唇をきゅっと噛んだ時だった。

 かすかな、しかし不自然な足音がどこからか聞こえた。庭先から? 背後? 部屋の中?


 もしかしたら鬼が戻って来てくれたのかもしれない!

 そんな期待に鼓動が早打ち、息を呑む。


 確認しようと首を回した景は、次の瞬間、うなじの下を殴られるような強い衝撃を感じて、なぎ倒されるようにどさりと前のめりに倒れた。

 消えていこうとする意識の中で、景が最後に思い浮かべたのは鬼の名前だった。

 そして、彼の深い深い……漆黒の瞳だった。




 次に景が目を覚ました時、最初に意識を刺激したのはツンと香る煙管キセルのけむりだった。

 景の周りで煙管を嗜むのはおきくだけだったが、彼女が愛煙している甘ったるい香りのけむりとは違う……もっと辛味を感じるような、鋭い芳香が鼻をつく。

 どちらにしても心地よいものではなく、景は眉をしかめながらゆっくりと目を開いた。

「おや、思ったよりも早く目を覚ましたね。わたしの見込み通り、なかなか芯の強い娘だよ」

 知らない女の声がして、景は驚いてそちらへ顔を向けた。


 景はさる座敷の、布団の上に無造作に寝かされていた。そして、そのすぐ横に、鮮血のような赤色の花が華やかに広がる着物を着崩した、面長の女が座っていた。

 煙管はその女がくゆらせていた。


「あたしの名前はザクロ」


 聞かれたわけでもないのに、女は名乗った。呆気にとられている景に向かって、にんまりと微笑む女は、よく見ると相当に美しい顔立ちをしていた。控えめに白粉おしろいをはたいた肌は抜けるような白で、艶やかな黒髪を金のかんざしで上品に頭上にまとめている。

 同じ女として、どうしても胸がざわつかずにはいられないような、圧倒的な存在感を持った女だった。


「そうさねぇ……。なにから説明してあげようか」

 ザクロと名乗った女は、のんびりとした仕草で煙管を畳の上の盆に置いた。


 景は寝かされたままザクロの方へ顔を向けて、その背後を観察した。そこは洒落た雰囲気の、立派な座敷だった。

 襖には羽を広げた鶴の見事な絵が。

 床の間には大陸から伝来したのではないかと思われる、白地に青い小花模様の焼きつけられた陶器の大花瓶が飾られている。


「ここは……」

「なにも取って食いやしないから安心おし。まぁ、少なくとも今のところはね。あたしも歳を取ったのかもしれないねぇ……こんなお節介を焼くだなんて」


 なぜか、反抗したり、声を上げたりする気にはなれなかった。

 このザクロという女は、もしかしたらあやかしなのではないかと思えるほど、不思議に引きつけられる魅力があった。駄目だとわかっていても魅せられる……そう、まるで鬼のような……。


「まず最初に」

 と、ザクロは切り出した。

「あんたのことを最初にあたし達に依頼してきたのは、あんたの義理母だよ。おきくとか言ったかい? あれは本当に碌でもない女だね。頭の皮を剥いでやろうかって思ったくらいだよ」

 唐突におきくの名前が出てきて驚き、景は上半身を起こした。

「依頼……?」

「おや、鬼はなにも言わなかったのかい?」


 鬼……。

 その名前を聞くだけで、景の胸は痛いほど膨れ上がった。手足が震えた。呼吸が乱れた。

 涙が、溢れてくる。


「鬼殿が……」

「あたしはねぇ、いくら殺し屋稼業をやってるからって、心がないわけじゃないんだ。世間の裏の裏を生きてきて、こういう仕事も必要だって悟っただけの話さ。だから、器量良しで気立てのいい義理の娘に嫉妬した阿呆女の依頼なんて、受けたりはしないんだよ。いつもはね。でも、あんたの話を聞いてて、なんだか興味が湧いたのさ」

 ザクロの白い手が伸びてくる。

 思ったよりも熱い指が、景の頬をそっと撫でた。

「あの可哀想な男には、あんたのような娘っ子がぴったりなんじゃないかってね」

 微笑むと、ザクロの瞳は薄い三日月のような形を描き、どうにも目を離せない美しさになった。

 この女は誰なんだろう……。なんなのだろう。

 ザクロという名で、鬼のことを知っている……奇妙なひとだ。


 ザクロはザクロで、興味深そうに景の表情をうかがっている。景の胸はざわつき、ザクロの言葉を整理したくて鬼との出会いを思い出していた。


 最初……鬼は、襲われた景の前に飛燕のような素早さで唐突に現れ、彼女を救ってくれた。偶然その場に居合わせただけとは思えない迷いのなさが、彼の刀にはあった。

 つまり、鬼はあの時点で、すでに景が狙われていると知っていて……。

 それは、鬼がこのザクロと関係があるからで……。

 このザクロは、彼女の言によれば『殺し屋稼業』で……。

 おきくから依頼を受けて……。


「あ……」

 景は両手で口元を覆い、嗚咽を抑えようとした。

 鬼。

 景を守ってくれた鬼。

 景の心を奪っていった鬼。

 冷徹に見えた瞳の奥には、熱くて優しい心が宿っているのだと信じて疑わなかった。生まれて初めて惹かれた男性。

 でも、彼は本当は……景を殺すことが目的で、近づいてきた……。


「泣くでないよ、景姫。鬼が本当にあんたを殺す気だったなら、とっくに殺ってるさ。でもあんたは生きてる。これはすごいことなんだよ」


 ザクロは再び煙管に手を伸ばし、スゥッと長い一服をした。

 吐き出された煙が目に染みて、景の目にはさらに涙が浮かんだ。なにをどう受け止め、どんなふうに感じるべきなのかわからなかった。五体のすべてが麻痺してしまったような気がする。

 わかるのはただ、胸が張り裂けそうに痛いことだけ。


「でも、もう一歩、あの男にはお灸を据えてやらないと、なにも認めないと思うんだよ。悪いけど、ちょっと協力してもらうよ」


 え、と景が声を上げようとすると、閉まっていた襖が突然に開いて、ひとりの男が姿を表した。

「はい、はい、はい……と」

 その男は、濃い茶色の髪を肩まで無造作に流し、洒落た灰色の着物を着ている。彼は、腰に刀を携帯したまま座敷の中に入ってきた。

 そして目を細めながらじろじろと景を観察する。

 どこか南蛮を思わせる明るい肌色と、彫りの深い目が目立つが、最も印象的なのは彼のその目つきだった。……普通の男ではない。


「さあ、剣。言っておいた通りにやっておくれ」

 ザクロはまるで楽しんでいるような口調でそう言い放った。


「わかりましたよ、ザクロ。あなたの頼みとあれば、どんなことでも」

 剣と呼ばれた男は答えた。

 剣の手になにかが握られているのが見え、景は思わず悲鳴を上げた。



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