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鬼景色  作者: 泉野ジュール
『心』
12/16

11 -心-



 そうしていたずらに時ばかりが過ぎ、気が付けば鬼が景の父に雇われてから、三日を数えるまでになっていた。


 夕方になると景の父がちらりと様子を見に訪れ、娘の安否を確認するのと、時々思い出したように下女が用事を聞きに来る以外は、いつもふたりきりだった。


 おきくとやらは、ついぞ顔さえ見せない。


 屋敷の奥にひっそりと暗く佇む景の部屋は、本来なら飯炊き女か下女あたりにあてがわれる離れなのだろう。しかし、景はその不便を鬼に詫びる以外、文句らしい文句さえ一言も口にしないし、己の身の上を嘆いている風情も一切なかった。

 景は潔よい娘で、心優しく、鬼の目にはどこか不思議なものにさえ映った。


 夕刻、重く垂れこめた雲に覆われた空が、じっとりと湿気を帯びた風を運んでくる。あと一刻もしないうちに雨が降り出しそうだった。

 西に傾いた太陽は、厚い雨雲にさえぎられ、辺りは早くも薄暗くなり始めている。


 ──雨の夜というのは厄介だった。

 警備の足が重くなり、人々は家屋敷に引きこもり、雨音が侵入者の足音を消し流してしまう。そう、雨の夜ほど刺客が歓迎するものはなく、鬼自身がその利点を誰よりもよく理解していた。


 最初の夜以降、剣の襲来はまだなかった。

 ただ、殺気は感じなかったが、密かに誰かに見張られているような、ぴんと張った緊張感を時々背筋に感じた。もしかしたら剣か、ザクロが放った別の忍びが様子見をしているのかもしれない。もしくは……ザクロに景の殺しを依頼したどこぞの馬鹿者か、が。


 鬼は灰色の空を鋭く睨みながら、縁側に片膝を立てた格好で座っていた。

 手元はつねに刀の鞘を確認しており、視線の端はつねに部屋の中の景を意識していた。今日の彼女はまた、静かに竹籠を作っている。造りからして、鳥籠なのではないかと鬼は思った。自らが囚われている鳥籠を、手元に再現しようとしているようで、どこか物悲しくさえあった。


 景の細い指は器用で、慎重で、竹のしなりを上手くいなしながら美しい籠を仕上げていく。鬼も、忘れ去ったほど遠い過去の話とはいえ、家具職人の子である。景の腕のほどと、手仕事に対する愛情はすぐに分かった。


「雨になりそうですね。風が強くなってきました」

 ふと顔を上げた景が、雨雲を仰ぎながら呟くように言った。

「ああ」

 と、短い返事を鬼が返すと、景は雲から視線を移して鬼をじっと見据えた。


 大きく澄んだ目が、まっすぐに鬼を見つめている。彼女の黒目がちな瞳は、深い愛情をたたえて誰かを追っているようで、着物からのぞく細い首は、密かに触れられるのを待っているようであった。


 鬼も阿呆ではない。

 己に心はないが、他の人間がそれを持っていることを否定する訳でもない。

 景はおそらく、大人の男とこれほど長く二人きりでいたことはないのだろう。ただの幻覚ではあるが、思慕を抱くような気持ちになってしまうのも、無理はないのかもしれない。

 そう、ただの幻覚だ。


「鬼殿、今夜は……」

 景がそう言いかけたときだった。人が近づいてくる気配を感じて、鬼はすぐにでも立てるように背筋を伸ばして遠方を睨んだ。景も異変に気が付いたようで、口をつぐむ。

 誰かの足音が近づいてくる。しかし、待ち受けるまでもなく、その人物はすぐにふたりの前に姿を見せた。


「お父さま」

 驚き半分、安心半分といった表情で、景はつぶやいた。鬼は黙っていた。


「鬼殿、楽にしてください。今日は話があって来ました」

 立ち上がろうとした鬼に、景の父は和やかにそう告げて、ゆっくり近づいてくると自らもふたりのそばに腰を下ろした。おきくも下人も伴っていないので、その場は三人だけとなっている。

「本日も、何事もなかったようですな」

「ええ、お父さま」

 答えたのは景だった。父は満足げにうなづく。鬼はこれといって口を挟まなかった。


 しかし、あまりいい予感はしなかった。今までこの父が景の様子を見に来る時、座り込むことなどなかったからだ。案の定、景の父は少しの間、居心地悪そうに姿勢を正して咳払いをしたあと、鬼のほうへ向き直った。


「あれから三日経ちました。特に大事もなかったようですし、もう娘の警護も必要ないかと思いましてな……」

 鬼は、やはり無言で景の父を見すえていた。

 そして、景の瞳が傷つき、外の雨雲のように重く曇るのを横目に感じていた。

「もちろん、しばらくは屋敷の守りも厳しくしますし、娘はあまり外へ出さないようにいたします。今夜は雨になりそうですし、誰もこれやしませんでしょう。こちらは約束の賃金です」

 懐からそっと出した布の包みを、鬼の足元へすっと差し出すと、景の父はわずかに頭を下げた。


 ──この男はなにも分かっていないのだろうか。

 それとも、すべてを承知の上で芝居を打っているのだろうか。


 どちらでも構わなかったはずだ。そもそも、鬼の仕事は景を葬ることであり、彼女を護ることにしたのはただの気まぐれにすぎない。または、この賃金のために。

 または、ほんの少し彼女の声を聞いていたかったために。


 どれも達成したではないか。鬼は引き続きなにも言わず、静かに包みを受け取ると、中身も確認せずに懐へ収めた。景の父は満足げにうなづくと腰を上げた。


「では、わたしはこれにて。景、鬼殿を門までお送りしなさい。外に出るのではないぞ」

 立ち上がった父を見上げながら、景は震える声で、

「はい……」

 と答えたが、その視線はどこか虚ろだった。まだよく状況が飲み込めていないように、ぼんやりと開かれた景の唇は、心なしか徐々に色が悪くなっていくようにさえ見える。


 鬼自身も、まるで着物がぐったりと濡れそぼったように、急に肩のあたりが重くなるのを感じていた。あるいは、めまいのような不快さを全身に感じて動けなかった。

 父が去ったあとの部屋は、雨音だけがいやに重く響き、ふたりはしばらく無言で時をやり過ごしていた。

 どのくらい経ったか、ふと先に口を開いたのは景だった。


「で……では……外へご案内しなければいけませんね……」

 崩れてもいない着物の裾を直しながら、景はゆっくり立ち上がってふらふらと襖に向かっていく。わざと目を合わせないようにしているのだろう、顔を無理に逸らしているせいで、細くて白いうなじの曲線が鬼に向かってあらわになった。


 鬼はここで、一瞬にして景の命を散らすことができた。

 賃金は得た。

 鬼がここで消えれば、その隙をみた剣が、今すぐにでも彼女を消しに現れるだろう。勝ち負けを決める争いをしているわけではないが、鬼も剣も互いに、相手に負けたくないという思いが少なからずある。殺るなら今だった。

 今、だ。


 鬼の心臓がどくりと強く一打ちした。経験にあふれた鬼の手が、無意識に刀の柄に触れる。


 景は開いた襖の枠に手をかけ、そこで一瞬だけぴたりと動きを止めた。


 音もなく立ち上がった鬼は、すぐに景の真後ろにつく。


 景はそのまま部屋を出ようとして、足袋を履いた足を廊下へ一歩進ませた。


 鬼の手が刀の柄を強く握り、音も立てずに鯉口を切る。銀の刀身が鈍い光を放ち、解放され、そのまま一気に細い首を……


「あの、鬼殿」

 景はふいにその名を呼ぶと、後ろを振り向いた。鬼の姿が思ったよりもずっとすぐ近く、真後ろにあったことに驚いたようで、あわてて何度も目を瞬きながら長身の彼を見上げている。

 鬼の手は知らずのうちに刀を鞘に収めていた。

「どうした」

「その……お礼を言わせてください。命を助けていただいて、千代のところまで同行してくださった上に、こんな警備まがいのことまで引き受けてくださって」

 景はその先の台詞を考えているのか、一旦言葉を切り、そしてなぜか頬を赤く染めた。


 その仕草は訳もなく鬼の血を逆行させた。背筋に痺れが走り、立っているのが億劫にさえ感じるではないか。景は切なく微笑むと、続けた。

「今日まで、ありがとうございました」

 鬼に答えることなどできなかった。そもそも、答えさえない。


 この娘の命は消えかかっている。鬼か、そうでなければ剣が、もうすぐその肢体を切り刻む。彼女はあわれな人形のように力を失い、息を止め、どこかで冷たくなっていく。

 あの千代という乳母の他に、景の死をいたむ者はいるだろうか。

 父親? 怪しいものだ。

 彼女と親しげに話をしていた町人たち? おそらく、何人かは。

 義母、おきくにいたっては、考えるのも馬鹿らしかった。きっと景のしかばねの上でよだれを垂らさんばかりにして踊るのだろう。


 では……鬼は?


「ありえない」

 鬼の口は勝手にそう呟いていた。景はきょとんとまばたきをすると、わずかに首をかしげた。

「え?」

「なんでもない。礼を言うにはおよばない、と言っただけだ」

「そう、ですか」

「ああ」


 ありえない、そうだろう。鬼はとうの昔に心を失った。怒りも、悲しみも、苦しみも感じないのに、こんな感情が無から浮かんでくるはずがない。

 たった三日程度を共に過ごしただけの少女だ……。それほど多くの言葉を交わしたわけでもない。鬼はこのままこの屋敷を離れ、これ以上、彼女をかえりみることもなくなる。景を殺すのが誰になるにしても、それは成され、時の経過のなかでいつしか彼女の存在は忘れ去られていく。そして鬼は、新たなる指令をザクロから受け、すでに血にまみれたおのが魂をさらに血で濡らし、殺戮を続ける。


 なんというありふれた筋書き。


「雨ですから、玄関で傘をお渡ししますね。返してくださる必要はありませんから、どうぞ、持って帰ってください」

 景の切ない微笑みは続いた。

 鬼は、自分が今どんな顔をしているのか想像もつかなかった。

 操られたように、ぼうっとしながら景の後をついて長い廊下を渡り、玄関まで進む。景は約束通り玄関脇にたたんである傘の中から一本を選び、それを鬼に向かって両手で差し出した。


「どうぞ」


 まるで、傘と一緒に己の心を差し出そうとしているような、景の表情と仕草だった。

 他に人影は見当たらない。門まで行けば警備がいるのだろうが、ここは鬼と景のふたり以外まったくの無人だった。

 殺そうと思えば一思いに殺せる。今は絶好の機会だ。

 しかしそれを言えば、三日の間ずっと、機会は目の前にぶら下がっていた。鬼は自らすすんでそれを取らなかったのだ。いまさら、それを変えようとも思えない。なんとも説明しがたい重い霧のようなものが、鬼の胸のあたりにつっかえて離れなかった。

 鬼は景から傘を受け取り、健気なほどまっすぐに向けられた彼女の瞳をのぞき込んで、息を止めた。


 景から、離れる。


 その単純で、取るに足らない『はず』の事実が、しかし、足元の地面をすべて切り崩されたように鬼を動揺させた。そのまま底のない暗黒の奈落の底に落ちていくような、おぞましい感覚に襲われる。そして鬼は、どういうわけか心のどこかで、この墜落を止める唯一の方法を知っているのだ。

 景の手を取ること。


「礼を言う」

 と、短く答えた鬼は、そのまま景に背を向けると静かに玄関を開けた。


 雨が降っている。灰色の雲が、まるで泣いているように水滴を地面に落とし、おぉ、おぉ、わたしの悲しみを聞いてくれと嘆いているようでさえあった。それともそれは、景の心を写して、その心情をおもんぱかった鬼が、そう感じるだけなのだろうか。


 それとも、鬼自身の心を写して……?


 ありえないと、鬼は繰り返し打ち消した。鬼の心はとうの昔に消え去った。その証拠に、いくら人を切り捨てても、いくら自らの手を血で濡らしても、なにも感じなくなった。それを、たかが一人の小娘と三日間過ごしただけで変化するなど、ありえない。


 どちらかといえば雨に濡れてしまいたいような気分ではあったが、なぜか景の好意を無為にはしがたく、鬼は傘をさして歩き出した。しかしすぐに、背後に景の視線を感じて、肩越しに振り返る。景はじっと鬼を見つめていた。

「入るか」

 鬼は玄関口にたたずむ景に傘を差し出した。

 驚いて目を見開く景の顔を、鬼は妙な痛みと甘さの混じった気持ちで見下ろした。景は鬼を想っている。たとえそれが、外の世界へ滅多に出られない鳥籠の中の少女の、無垢で無知な若い感情であっても。

「で、では……」

 景はとまどいながらも鬼の差し出した傘の下に入ると、ふたりは玄関から一緒に外へ出た。


 門までの庭道はほんの十五歩ほどである。しかしその十五歩が、一歩、一歩、なにか特別な意味を持っているように重く、憂鬱で、悲しいもののように時間がかかった。

 五歩目で、鬼は、足が地中に沈んでいくような気がして、無理やり身体を前に進めなければならなかった。

 十一歩目には、息がきれるような痛みを肺に感じた。


 そして門にたどり着く一歩手前、鬼は景を見下ろし、景は鬼を見上げ、ふたりは見つめあった。

 そして鬼は自分が、どうにかして……なにか奇跡のようなものがおきて、ふたりがこのまま一緒にいられる方法はないかと、真剣に考えているのに気がついた。


 門のすぐ横、外の通りに面した場所に、警護の者が槍を抱えて立っている。やっと二十歳に届くかどうかという若者で、真面目そうではあるが、たいした使い手ではなく、鬼や剣にかかれば一瞬にしてなんの役にも立たなくなるのは目に見えていた。

 鬼がこのまま去れば、景の命はまさしく秒読みに入ることになる。


「気をつけろ」

 口が勝手に動き、景にそう告げていた。

「え?」

「外に出るな。嫌でもなんでも、一人になるな。俺のような者が隣にいない限り、一瞬たりとも油断するな」

 景はきょとんと瞳をまたたき、鬼の言葉の意味をなんとか理解しようと頭を動かしているようだった。

「あ……あなたのような者?」

「そうだ。お前に近づこうとする輩がいれば、なんの躊躇もなく一瞬で其奴そやつを切り捨てることのできる男……。お前を守るためなら、腕を切り落とされても、痛みさえ感じないような男だ」


 言葉を失った景が、某然とした顔で鬼を見上げている。

 雨水が傘の表面に打ち付け、やかましい太鼓のように小刻みな音を弾かせる。この三日で何度目になるのだろう、景と鬼は見つめあった。


 無言の誓いが交わされる。

 鬼はそれ以上なにも言わず、景に背を向けると、雨が作る灰色の霧の中に消えていった。



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