00 -序-
穏やかな夕日が窓から差し込んで、小さな部屋に横たわる、すっかりやせ細った母の髪を明るく照らしていた。
母の隣には、父がその大きな背中を丸めてかがみ込み、彼女の手を握りながら小さな声でなにかを呟いている。少年は、こんなふうに父親が弱りきった姿を見たことがなかった。
「お圭」
父はほとんど聞こえない小声で、絞り出すように呟いた。
「いかないでくれ。いかないでくれ。いかないでくれ」
父の骨ばった大きな指が母の手を握り、優しく包み込んでいる。
父の手は不器用だった。弱りきった母の手を傷つけたくないのと、彼女を放したくないのとで、どれだけ力を入れていいのか分からないようだった。
母はゆっくりと目を細め、枕元にかがみ込んでいる父に、切ない微笑みを向ける。
そんな母は美しくて、少年の目には涙が溜まってきた。このまま自分の息も止まってしまうのではないかと本気で思えるほど、息をするのが難しかった。
「ありがとう、あなた。愛しているわ」
少年は父の後ろに控えて座っていたから、父の表情までは見えない。しかし、広い肩幅が、まるで雷に打たれたようにビクリと揺れるのを感じた。
ついに、避けられない時が来たのだろうか。
しかし母は、消え入りそうな微かな声で、「ぼうや」と少年を呼んだ。少年は震える身体を動かし、父の横に座り直した。
「あなたのことも愛しているわ、ぼうや。強く生きるのよ。どうか、父さんを守ってあげてね」
病に冒されきった母が、これだけ言い切るには相当の体力が必要だったはずだ。実際、彼女はそれだけ言い終わると、安心したように目を閉じた。
そして、長い静寂が訪れた。
いつしか父はよろよろと力なく立ち上がり、部屋の襖を開けると、廊下に突っ伏して丸くなり、激しく嗚咽しだした。
少年の頬には、熱い涙の筋がいくつも流れ、畳にまで染みを作っている。
父は、母の名を繰り返し呼び、なんどもなんども拳で床を叩いては、大きな声を出して泣いている。泣き声は止むどころか、どんどん大きくなっていった。
おケイ、おケイ、おケイ。
しばらくすると、同じ長屋の住人たちが、父の嗚咽を聞いて集まってきた。
男たちは父を支えようとし、女たちは母の亡骸を確認すると、白い布をどこからともなく用意して、母の顔にかぶせた。少年はただ呆然と涙を流し続けた。
西日が眩しく、温かい夕暮れだった。
いつかこういう時がくるなら、それは身も震えるような冷えきった真夜中だろうと思っていたのに。
葬儀は短く、形式だけだった。
参列者は少年と父、そして親しかった長屋の住人たちが数人と、両手の指で数えきれるほどしかいない。しかし、どれだけ参列者がいようと、いまいと、母が死んでしまった事実はなにも変わらないのだ。
泣きはらした目をした少年は、父の隣に座って静かに経が終わるのを待った。
父は、すっかり抜け殻のようだった。
髭も剃らず、風呂にも入らず、隣人がすすめた酒をちびりと飲んだ以外、なにも口に入れない。まるで父も、母と一緒に亡くなってしまったようだ。
葬儀がすむと、親子二人は無言で家に帰った。しかし、家はもう家と呼べるようなものではなく、ただの壁と屋根と床あるだけの箱にすぎなかった。
温かい食事も、父と母の会話も、母の微笑みも、なにもない。
なにもない。
少年にはまだ父がいるはずなのに、その父はもう、動く亡骸としか言いようがない有様だ。それでも少年はなんとか食事のようなものを用意し、父に箸を持たせ、どうにか少量の食物を食べさせた。
『どうか、お父さんを守ってあげてね』
普通、これは逆なのではないだろうか。父に息子をたくすのであって、息子に父を守れというのではなく。しかし、やはり母は母であり、父の妻で、すべてをよく見通していたのだ。少年は年よりもずっと背が高く大人びていて、しっかりしていた。そして父は、母が亡き後もまともに生きていくには、母を愛しすぎていた。
これから二人はどうなるのだろう。
その答えを知るのに、長い時間はかからなかった。
葬儀から五日が過ぎたころ、父は仕事に戻りはじめた。家具職人である彼は、ひたすら黙って木を削り、鉄鎚を打ち、日がくれて明かりがなくなるまで黙々と働き続けた。家に戻ると形ばかりの食事をとり、すぐに布団にくるまって寝てしまう。まるで世界のすべてから逃げているようだった。
少年からも。
そんなだから、父は当然、見る間に痩せこけていった。少年とは、挨拶以外の会話をするのを避けている。多分、母の話題が出るのが怖いのだろう。
そして、町外れの川で洗濯をしていた少年のもとに、隣人の一人が息を切らして駆けつけてきたのは、母が亡くなってから三十日もしないうちだった。
「五平さんが……五平さんが……!」
父は、荷馬車に轢かれて即死だったという。見た者によれば、父は、右も左も見ないで往来の多い道を亡霊のように渡ろうとしたということだった。
母の時と同様に、少年は声も出さずに涙を流し続けた。
父さん、黄泉で、母さんに会えましたか。
まったくの天涯孤独となった少年は、どこかに奉公に出されるのだろうと、誰もが思っていた。少年は職人の家系の出ではあったが、賢く、肉体的にひじょうに優れていたので、どこかの武家が養子にして丁稚奉公に取るのではないか、と。
その予想は、半分は当たっていたし、半分は外れていた。
「あんた、いい度胸してるね。気に入った。その目もいい。この仕事をするには、あんたくらい心を隠すのが上手くないといけないのさ」
愛することが、これほど苦しいというのなら、俺はもう誰も愛さない。
この心が誰かを愛するというのなら、心など無くなればいい。
俺には、もう、心などない。