34.嘘でもつかないとやっていけない
紀異さんというべきか、キイというべきかよくわからないが、彼女が帰ったあと、なんかそわそわというかワクワクしていたお兄ちゃんが何もなかったというか、何もできなかったことに悲しみながら時間も時間だったので、武藏さんをここで一緒に夕ご飯を食べさせてから、家に返して少し経ったときのこと。私はソファーで寝転んで雑誌を読んでいるお兄ちゃんに、明日ちょっと気分転換にちょっと出かけることを伝えた。
私のお兄ちゃんは心配性というか、頑固というか、私を思ってのことなんだろうけれど、私の行動を把握しておかないと済まないというところがある。まあ、心配なのだろう。ろくに親も帰ってこないこの家にとって兄はこの家の主みたいな存在だから。私を守ろうとしてくれているのだろう。
でもそれが最近の私にとってはただのうっとうしいものへと変わろうとしている。というか、変わっていた。多分これが思春期というやつなのかな。よくわからないけれど。
だから、一応伝えた。そうしたらお兄ちゃんは言ってきたのだった。
「県外にはいくなよ」
いつもの兄のテンションとはかけ離れ、声のトーンも低かったし、とてもすごみが入っていた。怖い。私はお兄ちゃんが嫌いだ。なぜか、それは行動を制限してくるから。どんなにせがってもお兄ちゃんは私を一人で行動させてはくれない。どんな時でも、どんな状況でも、頑として首を縦に振ってはくれないのだ。
それで好きなネット上で生放送をやってくれている人のイベントにも行けたことはない。辛い、悲しい、会いたい。そんな感情がいつも募っていく。
でも、ネットって年齢隠せるし、年上の人も年下の人も平等かどうかはわからないけれど話せる機会があるっていいと思う。その生放送主さんだって二十代前半あたりだから、結構話が合って好きなんだよな。会いたい。でも会えない、何度も言っているが、辛い。
私は怒りを抑えながら、お兄ちゃんにこう告げた。
「……夕方には帰るから」
多分これは本当だと思う。するとお兄ちゃんは雑誌を閉じ、上体を起こしてきた。
「行く場所を教えろ」
相変わらず声が低いままだが、さっきよりは高くなったかな。今のお兄ちゃんの姿は高校時代の少しダボダボしている赤いジャージを上下に身に着けているというとってもラフな格好だった。
ちなみに私とお兄ちゃんは高校は別々のところに通っていた。お兄ちゃんの行っていた学校は家からだと電車を使わないといけない場所に位置している。私は普通に歩いて行けるけれど、お兄ちゃんはそういう学校を選んでいた。もちろん煉璃さん、武藏さんは兄と同じ学校に行っていた。
「紀異さん。あ、今日家に来てくれたこのことね、その子といっしょに中心街近くにあるショッピングモールに行って遊んでくる」
これは明らかに嘘だ。けれど私はそんなウソをしれっと普通のことのように言ってしまえた。なんだか自分が怖いぞ。
でもまあ、昔のことを隠していたのもあったし、今もその他もろもろいろんな事情を隠して、嘘をついていることも沢山あるから、もうなんか手遅れみたいなところはあるな。何も怖がらなくていいか。むしろ、悲しくなるほうがいいかもしれない。相手を信用できない私を、自分で嘲るほうがいいのかもしれない。
「分かった。遅くなる時にはちゃんと電話しろよ」
どうやら今日の初めての私が招いた来客とのことで、キイさんの株は兄の中でとても急上昇しているようだった。思ったよりもあっさりと了承してくれて、私とお兄ちゃんが喧嘩を繰り広げることなく穏便に話をすますことができた。嬉しい。
そうして私はうん、わかったと嬉しそうに返事をした後、自分の部屋に戻っていった。
その後、私は軽く明日の準備をして、最近何よりも一日の中で地獄と化しているお風呂に入ってから私は寝た。
次の日。私は日が昇るのと同時に起きた。身体に包帯を巻きなおした後、服装は黒いワイシャツの上に白いゆったりとしたパーカーを羽織り、白いタイツにワインレッドのキュロットスカートをはいたとてもいつも通りの格好を選び、来た。そして私の荷物を預かってくれる黒いリュックサックの中にはタオルや財布、暇つぶし用品が適当に入っている。そんな状態で私は昔の家に行こうとしていた。
簡単に言えばお気楽なのかもしれない。でもまあ、私はこういうやつなのだ。そしてもちろん、私の唯一の形に残っている思い出。写真はそのかばんの中には入れなかった。
入れても、しょうがないと思った。
私は兄が起きていないことを音で感じて、すべての支度が終わった後、昨日の夜ごはんの残りが少し残っていたのでそれを食べ、そそくさと家を出た。
外の空気はいつもよりも冷たく感じた。まだ六月だ。やはりまだ七時にもならない時間帯だと寒いものなのか。昔はこの時期は寒すぎてガクブルと震えていたが、今の時期は寒いといってもそこまででもないしな。地球温暖化さまさまなのか、それともこれから起こる不幸の予兆なのかはわからないけれど、寒がりにとってこれは少しうれしいことだった。
でもまあ、寒いことには変わりはないので私はパーカーの首に近い部分をを首元に寄せ、寒さをしのごうとする。そして、玄関の鍵を閉めた。
私の家があった場所は今私が住んでいる県の隣の県だ。つまりは県外ということになる。お兄ちゃんには許されてない行動範囲のところに属するのだ。だからばれたらもう何が起こるかわからない。というか、あそこに行っただけでも怒られるのは必然なのであろう。
私は重い溜息の代わりに、大きく深呼吸をした。やはり空気が冷たい。でも気持ちいい。朝日がまぶしい、でも綺麗。
そう思いながら私はこの町を出るために、一歩、足を踏み出した。
そうして、私の小さな旅は幕を開けたのだった。




