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名医の忠兵衛

作者: 濱野乱


江戸は享保の頃だっけな。詳しいことはよくわからん。だいぶ昔の話だ。

江戸の外れに、一件のあばら屋があった。側に濁った池があって、いつも湿っぽい。女は子供をそこに近づけたがらない。池に落ちたら上がってこないからだろう。水仙の花が咲いていて、林ではいつも椋鳥が鳴いていた。

しーんとして、あばら屋に息づかいもない。

「たのもう!」

男の野太い声が、静寂を破る。

はて、あばら屋に訪ねる者がおるぞ。声の主は町人風の、落ち着いた感じの旦那だ。

「ほいほい、どうぞ。おあがりんさい」

あばら屋から、剽軽な声が返事をした。

旦那は、おずおずとあばら屋の縁側から足を踏み入れる。さっそく床が抜けた。朽ちて久しいのか、今にもあばら屋全体が消し飛んでしまいそうだった。

やっとのことで一部屋にたどり着く。黴臭い畳に行儀よく座った旦那。目の前に御簾があって、身じろぎの気配がする。

「よくおいでくだすった。楽にしておくんなまし」

御簾から歓迎の挨拶だ。旦那も頭を垂れる。

雨戸まで締め切って、部屋は暗い。天井に小さな穴がいくつも穿たれ、点描のような光が差し込んでいる。

「貴方が忠兵衛殿ですか? どんな病でも治すという」

「いかにも」

忠兵衛は、そっと肯定した。別に威張らない男のようだ。少し胸をなで下ろす。取って食われることはなさそうである。

「だが誤解があるようだ。私は、医者ではない。病理を取り除くことはできぬ」

「え?」

旦那は面食らった。人から聞いた話とは異なっている。忠兵衛は、どんな病でも治せると聞いていたのだ。

「私にできるのは、話を聞くことだけだ。なあに心配はいらぬ。口が堅いのがとにかく自慢でな」

しのび笑い声が、切れ目のない小雨のように響く。

旦那は困り果てる。さて忠兵衛とは浮浪か、ことによると、罪人かもしれぬぞ。油断ならぬ。よからぬことをされぬうちに引き上げねばと腰をわずかに浮かせた。

しかし、忠兵衛の話し方には、人を引き留める魅惑的なものがあった。話しても命を取られるわけでもないし、旦那は事情を話し始めた。

「実は、私は長屋を人に貸しているのですが、家賃の支払いが滞っている者がいるのです」

「へえ、どれくらいだい」

「三月ほど」

「ほお、それは大変だ」

「親子三人なんですが、大黒柱の親父が、大工でね。落っこちて骨折っちまいやがった」

「そりゃいけねえ」

話好きの旦那のことだ。すいすいと、忠兵衛に乗せられ、気づけば膝を乗り出している。

「私も、追い出すなんて真似はしたくないんだ。でもこっちも入り用でね。来月、娘が嫁入りするのです」

「そりゃまたおめでたい」

二人は黙った。禍福はあざなえる縄の如しというし、旦那だって明日はどうなるかわからない。

「して、お前さまはその家族を如何にするつもりかね」

「忠兵衛殿なら、あの親父の足を治せるかと出ばってきたんですがねえ。それができないとなると。出ていってもらうしか」

「そうさな・・・・・・」

忠兵衛は思案するように、声を落とした。それきり気配をなくしたように、黙ってしまう。

こそこそと、建物をひっかくような妙な物音が響いた。

「忠兵衛殿?」

旦那は不安になって、膝を立てた。

忠兵衛が、ここにおるぞとばかりに咳をする。 

「いや・・・・・・何。ちょっと聞きたいのだが、その親子の住む長屋は、川の近くにありはしないか?」

「は、はあ……、確かにその通りですが」

旦那は動揺し、腰を抜かしそうである。忠兵衛はいかにして長屋のことを知り得たのであろうか。

「ならその家族には、出ていってもらおう。しかし、別の住居に移ってもらうのだ。家賃の安いところはあるか?」

「独り身用なら空いてますが・・・・・・」

「川の近くではいけないぞ。できるだけ急ぐのだ。それから内職の世話をしてやったらどうだ。なあに、骨の二、三本すぐにくっつくさ」

旦那は考えさせてもらいたいと言って、忠兵衛宅を出た。むらむらと疑心が湧いていた。

帰りに茶屋に立ち寄る。忠兵衛のことを教えてくれた、薬種問屋のご隠居が茶をすすっていた。

「忠兵衛殿のことか」

旦那の不安そうな顔を見て、すぐに悟ったのだろう。

「あれは、物の怪じゃありゃすまいね?」

「何故そう思う」

「話してもいないことを知っていたんだ。おっかねえよ」

「忠兵衛殿だ。仕方あるまい。とりあえず従っておいて損はない。まあ騙されたと思って」

こうはっきり言い切られては、旦那も腹を決めるほかない。

その日の内に件の家族の元に出向き、話合う。住居は川から離れた場所にし、子供は知り合いの所に丁稚奉公に出すことにすることを条件に、家賃の延滞を認めた。

帰りには雲行きが怪しくなってきた。夜中には本降りになった。


 二


雨は稀に見る災害となった。堤は決壊し、田畑を大蛇のように飲み込んだ。

雨は三日三晩降り続け、涙の川が乾く暇も与えず人々を追い立てた。  

雨のち晴れ。ちぎれた雲が、ようやく目に痛くなくなった頃のこと。

旦那はぬかるみを走り、忠兵衛のあばら屋に向かった。

あばら屋は静かなものであった。豪雨もなんのその。元より、風通しがいいので雨風をしのげたのであろうか。

「ごめんください」

旦那はえらくかしこまっている。

「どうぞ」

忠兵衛は驚くほど明るい返事をした。

例の畳の間に通され、旦那は座るやいなや労いの言葉を述べる。

「いや、大変なことになりました。そちらは大丈夫でしたか」

「なに、住処などいつでも変えられるますわい。そんなことより、今日はどうなすった。また困り事かね」

旦那は、興奮のあまりうまく口が利けないようである。忠兵衛は急かすことなく辛抱強く待っていた。

「実は・・・・・・」

旦那は、喜色を浮かべてことの子細を報告しにきたのだった。

川の氾濫で、貸していた長屋は粗方使いものにならなくなった。あの親子は一足違いで長屋を離れ、水害を免れた。

もし忠兵衛の忠告がなかったら、人命危うかったかもしれない。

「人死になんて、縁起でもありませんからな。まあ家賃はそのうち回収できるでしょう」

「おや、考えが変わったね」

旦那の顔から笑顔が消えた。

「今回の災害で、多くの人が亡くなりました。私一人の了見の狭さにほとほと呆れたのです。できるなら、家を無くした人々に力を貸したいと思うております」

「それはそれは」

旦那の気がかりは、家賃ばかりのためではなかった。己の良心に咎めることがあったのだろう。

「して、まずは忠兵衛殿。このお住まいは少々痛んでおりますな。私でよければお力になれるかと」

旦那は今にもそろばんをはじきたそうに、落ち着き無く肩を揺らした。

人の性分は、それほど簡単に変わるものではない。だからこそ、人は人に失望せずにいられるのだろう。

長屋を移った親子であるが、父はその後、見事骨折りを治癒させ、存分に棟梁の腕を振るった。奉公に出た息子は、商の才があったのだろう。めきめき頭角を現した。そして店の娘と結婚し、後を継いだ。母は、九十近くまで生き、孫に看取られ天寿を全うしたそうだ。

 

 

ある蒸し暑い夜のことである。懐手をした男がおぼつかない足取りで、堀の側を歩いていた。腰に立派な拵えの刀を差していたが、絣の着物の襟は垢で汚れていた。頬は痩け、眼光けいけいとして、夜道ですれ違う人を震え上がらせる男であった。

飲み屋の赤提灯の光が頼りなく足下を照らすばかり。柳の枝が幽霊の髪のように垂れている場所にさしかかった。男は足を止め、前方に目を凝らす。

「ううぅっ!?」

男は獣のような呻きを上げ、抜刀した。がむしゃらに刀を振り回す。まるで幻を斬ろうかという体であった。

それから肩で息をしながら、男は暗闇に溶けるように消えていった。

男は、些細な諍いから人を殺してしまい、藩を抜けた浪人である。追われる身であるから、白昼の往来は歩けない。

男は根城としている町外れのあばら屋に帰ってきた。身を柱にもたせかけ、ずるずると座る。

髭に覆われた口元がわずかに動く。

「俺は、何をしているのだ・・・・・・故郷を遠く離れ、こんな所に落ち延びて、どうしようというのだ」

男の独白は、幽鬼のように哀れを誘うものだった。この場に聞くものがいれば、感に堪えないものであったに違いない。

男は虚ろな目をして、刀を抜いた。ためらうことなく首に当てて命果てようとする。

「お待ちなさい」

幻聴にしては、確と響いた。男は一度、刀を首から離した。

「何者かは存じ上げぬが、そっとしておいてくださらぬか」

「そうはいかん。ここは私の家だ。床を罪人の血で汚されては困る」

男は月光差す床に、うず高く積もった土ぼこりに目をやった。とても人家の用をなさない朽ちた躯のようだったから、男は終の住処として選んだのだ。

「それは済まないことをした。しかし、あなたの言う通り俺は罪人。もはや生き抜くのに、疲れた」 

男の告白に、忍び笑いのようなひそひそという物音がした。

「罪人が、疲れたとは片腹痛い。おまえ様はまだ生き抜いてはおらぬではないか」

「何?」

男は無神経な物言いに、苛立ち始めたのか刀の柄に手を置いた。

「逃げようとするのは、勝手じゃ。それで救われることもあろう。だが、おまえ様は逃げてはならぬ」

「お縄について刑を受けるのが怖いわけではないのだ。それで一体何が変わるというのか。故人は帰らず、時が過ぎれば皆が忘れゆくというのに」

「忘れぬよ。おまえ様が忘れぬのだ」

男の顔に幾分、生気が戻った。刀を掴んだ手の力が緩んだ。

「そうだ。俺は忘れなかった。あいつが必死の形相で俺に食らいついてきた夜を忘れない。今でも昨日のことのように思い出す。あの日も、こんな夜だった・・・・・・」

男のおとがいから、静かに涙がつたった。

「俺はあいつを忘れない。あいつも俺を忘れないのだな。だから幻影となって俺を苦しめるのだ。俺が逃げれば、地獄まで俺を追ってこよう。どうすべきか」

男は、救い主に助けを求める信徒のように両手を合わせていた。頭上から例の声が降り注ぐ。

「地獄までつきあうのさ」

「できるかな」

「しなくちゃならん」

男は東の空が白むのを待ってから、あばら屋を出た。あばら屋には、男の切ったほう髪の名残が残されていた。


 

忠兵衛の噂が町人だけでなく、お上の耳に届くのに時間はかからなかった。

幕府は、忠兵衛を、やれ孔子や孟子のように崇めるふりをしていたが、内心では幕府の権威を損なわせる存在なのではないかと危惧していた。

忠兵衛はある日、こんなことを言った。

「もうそろそろいいか」

人々は忠兵衛に依存するようになっていた。忠兵衛は病気のこと、天候のこと凡人の目には知らぬことはないように思われた。

「もうじき、身分の区別なく、好きに暮らせる時代がやってこよう。私が世話することはもうないのだ」

忠兵衛は嗄れた声で狭いあばら屋に、またぞろ集まった人々を諭した。すすり泣きが部屋を満たした。忠兵衛が人の話を聞くようになってから、はや十年あまりが経過していた。十年前、流行病で命を落としかけた幼子が立派に成長し、今やここの一座を占めている。

一同は感慨に耽って、押し黙った。

玉のような顔をした女が、沈黙に耐えきれなくなり叫ぶ。

「忠兵衛さま、せめて最後に、ご尊顔を拝したく存じます」

忠兵衛は静かに行かせてくれと、ねばるも女のおしについに根負けした。

「まあ、いいでしょう」

簾が断ち切られたように床に落ちた。人々の口の端からは、嘆きとも驚きともとれぬ声があがった。

簾の向こうにいたのは、灰色のごわごわした毛で覆われた大きな鼠だった。猫くらいの大きさだったが、やせ衰えて骨身が透けて見えそうだった。飢えが原因ではく、病による衰弱だと誰ともなく気づいた。

「笑うのだ。獣が人に忠言など皮肉以外の何物でもないではないか」

忠兵衛がいかようにして言語を操るようになったのか、人々は邪推しなかった。

すすり泣きが場を満たした。忠兵衛は人々の看病を頑として拒否し、それから三日もせずに息を引き取った。

「忘れろ、全て」

忠兵衛の遺言はそれだけだった。

化け鼠の甘言に踊らされたと口さがない者もいたが、多くが忠兵衛に感謝の念を表し、祠が建てられた。

忠兵衛の意志は汲まれず、人々は彼を語り継いだが、祠は関東の震災で消失した。

彼の遺言が守られるようになったのは、それからである。

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