初めての取材
つけっ放しのテレビの音で、一〇分早く目が覚めた。布団を掛けていなかったため、多少手足が冷えた。僕は、ベッドから起き上がり、そのままトイレへ向かった。
「おはよう」おふくろ。
「おはよう」ばあちゃん。
「ああ」僕。
「トイレは、じいちゃんが入ってるよ」
おふくろが言った。僕は廊下のドアを開けて止まり、静かにドアを閉めた。冷蔵庫を開け、大好きな酢ジュースのパックにストローをさし、一気に飲み干して、じいちゃんがトイレから出てくるのを自分の部屋で待った。クローゼットからスーツを取り出し、ベットに放り投げたとき、トイレから水の流れる音がした。じいちゃんがトイレから出てきてあとに僕が入り、用を済ませ、シャワーを浴びるため、僕は浴室へ向かった。
シャワーを浴びているとき、僕の部屋から目覚まし時計のベルの音が聞こえてきた。目覚まし時計を止めるのを忘れていた。こういう場合、おふくろが僕の部屋に行って止めてくれる。数秒後、予想通り時計のベルの音が止まった。シャワーから上がり、歯を磨きながら、身支度をする。
出掛ける前に、タバコに火をつける。外ではあまり吸わないが、家にいるときだけ数本だが吸って、気持ちを落ち着かせる。吸い終わると、カバンを持って家を出ようとした。
「いってらっしゃい」おふくろ。
「いってらっしゃい」じいちゃん。
「あい」僕。
僕は、玄関を出て外に出たとき、昨日リストアップしたプリントを忘れたことに気づいた。振り返って、ドアを開けようとしたとき、
ガチャ
鍵をかけられてしまった。タイミングの良すぎる行為に、ため息をつきながら呼び鈴を鳴らし、鍵を開けてもらった。
「忘れ物かい?」
おふくろが、少し呆れたように訊いてくる。僕は無言のまま部屋に入り、プリントを手に取り、今度はしっかりカバンの中に入れて家を出た。
今日は、朝から天気がいい。天気予報では曇りだと言っていたが、雲の量が多いだけで、太陽の光りはまぶしいぐらいだ。僕は、少し足早に地下鉄の駅に向かう。
歩いていると、明るくにぎわう街の姿が現れる。小学生が、自分よりも大きなランドセルを背負いながら、学校へ走る。道路には、違う種類の似たような車が、いつものように忙しそうに走る。
人間は何のために生きているのか……。人間はなぜ働かなければいけないのか……
朝から僕は、かなりウザい。そんなことを考えている自分がバカバカしくなってきて、歩きながらほくそ笑む。
駅の入り口に着き、階段を下りる。いつもと同じ光景が目に入ってきているのに、いつもと違う気持になっている自分に気づいた――これが、仕事のプレッシャーか……。まあ、新人なんだから、思い切ってやるしかない。やるしかない! 僕は、心の中で右手を突き上げ、決意を新たにした。
なんだかいつもより時間が過ぎるのが早い。地下鉄が到着するアナウンスがもう聞こえてきた。僕は、改札を通り、プラットホームに急いだ。幸い、僕の乗る駅は人が少なく、僕は一番後ろの車両の、入口から向かって奥の真ん中のロングシートの右端に座った。
いつもなら、きれいな人がいないかとかいろいろ考えるのだが、今日はそうはいかない。僕は、地下鉄が出発すると同時に、カバンからプリントを取り出し、チェックを始めた。しかし、朝が早いのもあり、目に情報は入ってくるが、どうも脳までの伝達が遅れている。朝ってみんなこんなんなのかな? どちらかというと、ボケーっとしている時間の方が長い。目を開けたまま寝ているみたいだった。同じ表情の人もちらほら見かける。地下鉄が走る音だけが僕の耳に入ってきて、その音がとても心地良く聞こえたが、プリントの内容はまったく入ってこなかった。
アナウンスが聞こえ、大通り駅に着いた。人の群れにまぎれて改札を抜け、会社へと向かう。数分後、会社のビルに着き、自動ドアを開いて中に入る。エレベーターを待っている人は少ない。僕を入れても、四人だけだ。それもそのはず、僕は出勤時間より一時間前ぐらいには、出勤しているのだ。高校からの習慣で、どうも学校や会社など、赴く場所などには早く着かないと落ち着かない。ギリギリに着いて忙しなく動くのが大嫌いで、学生の頃にやっていたバイトでも、二〇分ぐらい余裕をもって出勤していた。
そのかわり、友達との待ち合わせには、たいてい遅れて行った。時間のルーズさに、よく友達から怒られていた。だいたい、待ち合わせの時間の一〇分前、ひどいときは、待ち合わせの時間に家を出た。そのうち、友達も待ち合わせの時間より、三〇分遅く来るようになった。プライベートと仕事は、はっきり分けて過ごすのが、僕の性格だった。
昨日と同様、チンという軽い音が鳴って、エレベーターが着き、待っていた四人でエレベーターに乗り込んだ。一人一人、自分が降りる階のボタンを押し、エレベーターが動き出す。一人目は、二階。金融関係の人だろう。黒いスーツが、なんとなく仕事を物語っているように見えた。二人目は、四階。
――四階?
優衣さんが、降りた階だ。
――このハゲ散らかしたおじさんが、優衣さんの上司なのか? 優衣さんにセクハラしたら絶対に許さん!
僕の顔が険しくなったとき、ハゲ散らかしたおじさんと目が合った。僕は真顔に戻り、なぜかわからないが、軽く会釈した。ハゲ散らかしたおじさんは、不思議そうにエレベーターを降りていった。
その後、一回も止まることなく、僕の会社のフロアに着いた。この階から上は、僕の会社のフロアなので、もう一人の人も僕と同じ会社の人だったとは、まったくわからなかった。僕の働いている会社の社員が多すぎて、入社したばかりの僕は、まだ全員の顔を憶えていなかった。というより、憶えれるはずがないと、僕はこのとき悟った。
今日、初めて会う人だと思う。紺のスーツに黒ぶちメガネ、ロングヘアーをクルクルと巻いて、何かピンのようなものでアップに留めている。
「し、ウォホン……失礼します」
家から喋っていなかった分、声が出しづらく、うわずった。黒ぶちの女性は、無言のまま僕とも目を合わなかった。
「何だよ、挨拶ぐらいしろよ」
エレベーターの扉が閉まったあと、僕は後ろを振り返り、呟いた。それにしても愛想のない奴なあ。まぁ、いいか……。肩をすくめ首を傾げたあと、会社のドアを開け中に入った。
会社に入ると、もうすでに仕事をしている人や、ボケーっとしている人、何かに取りつかれたようにパソコンに没頭する人もいる。
その中に、松下の姿があった。髪の毛がぐしゃぐしゃで、昨日同様、スーツがしわくちゃだった。
「どうした? 昨日は大丈夫だったか?」
僕は、挨拶より昨晩のことが気になり、松下の肩に手を置き、声をかけた。
「おう、中川……、……別れた……」
――やっぱりだ。原因は遅刻だろう……。
「どうしてだよ?」
「昨日遅刻したから……」
――ビンゴ!
思っていた通りになって、僕は自分が怖くなる。横の松下は今にも泣きそうだ。
「また違う女の子見つければいいだろ! 一回の遅刻で別れるような女なんて、お前から別れてやれよ!」
励ましのつもりで、僕は言ったのだが、
「お前に何がわかるんだよ! それに遅刻したのは四回目だし……」松下は、うなだれた。
――ていうか、お前が悪いんじゃん!
僕は、松下に怒鳴られた意味も、松下の気持ちもわからなかった。こういう奴を、どう慰めていいかわからず困っていたとき、遠くの方からこっちに向って話しかけてくる人がいた。
「おい、お前ら」
二つ先輩の谷口さんだ。珍しく僕たちのところに来て話しかけてきた。
「今日、食事会があるんだけど、どっちか一人来てくれないか?」
遊びの誘いだった。遊び人の谷口さんはかなりのイケメンで、女性の扱いには慣れている。男同士でも楽しく盛り上げてくれて、僕たちにとっての兄貴分みたいな人だ。面倒見がいいと評判の富田さんとは大違いだ。谷口さんの食事会というのは、だいたい女性との、言いかえれば、合コンみたいなものだ。
「僕行きます!」
即答で松下が、大声で返答した。
――え~! さっきまで落ち込んでたじゃん!
松下と知り合って一ヶ月、僕は松下の切り替えの早さは嫌いじゃないが、たまに鼻につく。
「じゃあ、六時に迎えに来るから、それまでに仕事終わらせておけよ」
「はい!」
松下の返事を聞くと、谷口さんは自分のデスクに戻っていった。僕は、松下のこんないい返事を聞いたことがなかった。松下は、忙しなく動く。
「こうしちゃいられない。中川、ワックスとか持ってないか?」
「……」
「何だよ?」
「別に」
僕は冷たくあしらい、松下のデスクを離れた。
僕は、荷物をデスクの上に置いて、椅子に腰掛けた。一息ついたあと、カバンからプリントを取り出し、目を通した。リストアップした地域には友達もいるし、聞けば僕の探しているお店ぐらいあるだろうと、心配はしていなかった。
――次いでだから、高校にも顔出してみるか
先生たちも、いろんなジャンルのお店に行っているだろうと考えていると、もうすでに多くの社員が出勤していた。遠くの方に、富田さんの姿も見えた。昨日から機嫌がいいみたいだが、今日もよさそうだ。
――富田さんの鼻毛はどうなったのかな
僕のデスクの右斜め前に、立ち直った松下がいて、
――松下、気持ち悪い顔してんな
延長線上の窓際の席に、編集長がいた。
時刻は九時。編集長がラジカセをつけ、ラジオ体操をやるのが、この会社の通例だ。まだ起きていない人は、立っているだけで全然動かない。やる気を取り戻した松下みたいのは、全身を使って体操をしている。僕は、ちょうどその間ぐらいで、まじめに体操をしているわけではないが、しっかりと体を動かしている。
――松下、笑顔でやってんな。谷口さんはやる気ゼロだな。富田さんはもっと……え~! 笑顔でやってる! どうしたんだ?
僕は驚いた。こういうのに一番やる気を出さない富田さんが、まじめに体操をしている。僕の動きも止まった。
「今日、雪降るんじゃねぇか」
僕は、ボソッとつぶやき、心配になった。昨日から富田さんの様子がおかしい。
「いったい何があったんだ?」
ラジオ体操が終わり、編集長から一言。
「じゃあ、今日も一日頑張りましょう」
「はい!」
一同が返事をしたあと、各自自分の仕事を始めた。体もほぐれて、調子もいい。僕は出かける前に、編集長に挨拶するためデスクに向った。
「編集長、おはようございます」デスクの前に立ち、編集長に挨拶した。
「おう、おはよう。なんだ、やる気満々だな」
「そうですか? それより、富田さんどうしたんですか?」
「何がだ?」
「ベネットカンパニーから帰って来た時は怒り狂ってたのに、編集長と話したとたん、機嫌が直ったみたいで……」
僕は、富田さんを見て話した。富田さんは、僕には見せない優しい笑顔で、後輩を指導していた。
「まあ、あいつを扱うテクニックだよ」
「何ですか? それ?」ある意味、差別にも聞こえる言動だった。
「そのうち、お前にもわかるよ」
編集長は、笑っていた。僕は、これ以上話しても、何も聞けないと思い、聞き出そうとはしなかった。
「それじゃあ、やる気が無くなる前に行ってきます」
僕は、冗談混じりに言った。
「おう、行って来い」
編集長は、笑いながら送り出してくれた。僕は一礼して、編集長のデスクを離れた。
松下は、仕事せずに髪型を直している。富田さんは、もうすでに誰かに連絡して出かけるみたいだ。僕は、一足先に会社を出て、エレベーターに乗り外に出た。
ビルを出て、もう一度地下鉄の駅に向かう。車もあるが、僕はまだ使わせてもらえない。新人は、自分の足で記事を探せということだろう。僕は歩きながら、カバンからリストを取り出し、これから向かう店を決めかねていた――どこの店にしようか。イタリアン、フレンチ、もっと違う店……、
「中川さん、中川さん」
優しい声が、僕の思考をを遮って、現実に戻した。
「あ、優衣さん!」
振り返ると、優衣さんがいた。僕の顔がみるみるうちに、笑顔に変わるのが自分でわかった。でも頭の中は、仕事のことがどこかに吹っ飛び、優衣さんに会えた驚きと嬉しさで破裂しそうだった。
「お、おはようございます」
「おはようございます、中川さん。これからお仕事ですか?」
「あ、はい」
僕の慌ただしくおどおどした挨拶とは違い、優衣さんは上品で優しく話しかけてくれた。
「いいなぁ~、おいしいもの食べに行くんでしょ?」優衣さんは、笑いながら探ってきた。
「まあ、それも仕事ですからね。でも僕は、自分の理想の店しか取材しないんで」
思わず強がったが、心の中では、
――やべ、カッコつけ過ぎた……。
しかし、優衣さんは、
「ふふふ、頼もしいですね」
優しく返してくれた。二人で微笑み合ってしばらくして、
「あの――」
二人同時に、同じ言葉をハモった。二人の間に気まずさが流れた。
「僕、そろそろ行きますね」沈黙を破ったのは僕だった。
「あ、すいません。あの~、今夜の――」
「それじゃあ」
僕は、再び地下鉄の駅に向かった。
優衣さんが、何か言いかけていたのに気付いていたが、僕の「それじゃあ」とかぶってしまい、引くに引けなくなり、そのまま振り返り歩み出した。しばらくして、
――優衣さん、何か言いかけてたな。何だったんだろう?
僕は、優衣さんが言いかけてたことが気になり、後ろを振り向いた。優衣さんは、まだこちらを見て立っていた。僕は、体を優衣さんに向け、後ろ歩きしながら、大きく手を振った。優衣さんも背伸びし全身を使って手を振ってくれた。
今日も、優衣さんは可愛かった。薄手の白いシャツにデニムのパンツ、少しヒールの高めなブーツを履き、カジュアルな服とコーディネートされたハートのピアスがとても可愛い。でも、なんといっても――なんていい香りなんだ!
優衣さんとのほんの少しの会話が、僕のやる気に火をつけた。
――こうなりゃ、何が何でもいい記事を書いて、優衣さんに見てもらわなければ!
僕は、走って地下鉄の駅に向かった。
今から向かう地域は、僕の家とは全くの逆方向で、いつも使っている定期券が使えないので、ウィズユーカードを買う。改札を通り、いつも帰りに乗るホームとは反対側で地下鉄を待つ。そして、もう一度プリントをチェックする。
――う~ん、どこへ行こうかなぁ。イタリアンもいいが、フレンチもいい。だけど、お店の数が少ない。和食もいいが、これも数が少ない。居酒屋は多いのだが……。とりあえず、このレストランに行ってみるか
アナウンスが鳴り、遠くの方から地下鉄が走ってくる音が聞こえる。カバンにプリントをしまい、僕は地下鉄に乗り込んだ。
席が開いていないので、僕は入口付近の吊り革を掴んだ。すると、今度は優衣さんのことで頭がいっぱいになった。
――今日も優衣さん可愛いかったな。ハートのピアスもよかった。もしかして、今日デートなのかな? だけど、さっき何か言いかけてたな。何だったんだろう?
僕は、地下鉄に乗っている間、優衣さんのことだけを考えていた。
地下鉄を降りると、とても懐かしい雰囲気が僕を覆った。駅のプラットホームの造りに色、それら一つ一つが、高校生のとき通っていたままだ。僕は、エスカレーターに乗り、改札に向かう。駅の構内も変わってない。変わっているのは、新しい世代の高校生と貼り出されている掲示板のポスターぐらいだ。
「さてと……」
今日は、ここの駅を拠点に飲食店を探す。僕は、地下鉄と連結されているバスターミナルに向かった。
バスはもうすでに到着しており、出発時間を待っていた。僕は、急いでバスに乗り、席についた。カバンの中のリストを見ると、ここから四つ目の停留所で降りる。バスの運転手が低い声で、出発のアナウンスをし、バスの大きな車体をスムーズに動かした。途中、誰も降りることなく、目的の停留所に着いた。お金を払い、バスを降りる。目的のお店は、坂の途中にある。二車線の広い道路を横目に、坂を上る。近くに大学があるため、学生の姿が目につく。
「どの店だ?」
プリントを見ながら、お店を探す。
「あ、あれだ」
木材で作られた個人まりとした小さなお店が、反対側に見えた。理想の隠れ家的なお店ではないが、一店舗目にしては上々に思えた。
「待てよ」僕は、信号を待ちながら考えた。
いきなり取材させてと言われても、断られる可能性もある。僕は、とりあえず一品食べてから取材を申し込むことにした。信号の色が変わり、プリントをカバンにしまいながら渡る。店の階段を上ると、ドアに〟準備中〝の札がかかっていた。
思えば、まだ一〇時になったばかりだった。仕込中に決まっている。ドアのガラス越しに、おばちゃん店員がダスターで前のめりになり、大きく腕を振りながら、テーブルを拭いている。おばちゃん店員が、隣のテーブルを拭こうと体を起こしたとき、ドア越しに立っている僕と目が合った。
僕は、軽く会釈した。すると、おばちゃん店員がテーブルを拭くのをやめて、こちらに近づいてきた。
「何か御用ですか?」
「すいません。まだ準備中ですよね?」
「お客さんですか? いいですよ。入ってください」
「え、いいんですか?」意外な返答に、僕は驚いた。
「ええ、この近くに大学があるでしょ、そこの学生さんが、たまに早くきて食事することがあるから、準備中でもお客さんを入れることもあるんですよ。さあさあ、どうぞ」
おばちゃん店員は、店内に僕を通すと、ピカピカに拭いたばかりのテーブルに案内してくれた。僕がテーブルに座ると、おばちゃん店員は暖簾を潜り、厨房の人に何か一言二言話をして、水とおしぼりとお店のメニューを持って来てくれた。
「決まったら、呼んでください」おばちゃん店員は、また掃除を始めた。
「ありがとうございます」
僕は、さっそくメニューに目を通した。日替わり定食のほかに、オムライスやパスタなど、メニューに富んでいる。ソース焼きそばもある。
「すみません」
「はいはい、決まりましたか?」おばちゃん店員は、前掛けで手を拭きながら、僕のそばへ駆け寄った。
「今日の日替わり定食は何ですか?」
「あら、ごめんなさい。今日は、豚の生姜焼きになります」おばちゃん店員は、笑いながら答えた。
――豚の生姜焼きか……。
僕は、生唾を飲んだ。
「じゃあ、それください」
「はい、少々お待ちください」
おばちゃん店員は、メニューを片付け、厨房に向った。
メニューばかり見ていたので、店内を見ていなかったが、とてもきれいなインテリアだった。壁一面木でできているため、店内に落ち着きが感じられた。壁に掛けられている写真も、安心感を与えてくれる。店内を見渡していると、奥の方から調理の音が聞こえてきた。
想像してください
聞こえますか? まな板の上で、切られている野菜の音が。ジューッというフライパンで焼かれる肉の音が。ガランガランとフライパンを回す音、あ、今肉を返し、また新しいジューッという音が聞こえた。今肉は、焦げ茶色に模様替えをしているところに違いない。音が安定してきたとき、いよいよメインイベント、フライパンにタレが注がれる音がしてきた。目をつぶれば、フライパンに注がれたタレの姿が目に浮かぶ。溶岩と化したタレが、肉たちに染み込んでいく。カチッと火を消す音がしても、まだ溶岩は死んでいない。肉が盛られて音が小さくなっていく。そして、最後に熱々に熱せられたフライパンのふちで、溶岩が息を吹き返し、肉にかけられる音が、僕の耳で響いた。
僕しかいないホール中に、ほかの料理と混じっていない純粋な醤油ダレの、香ばしくほのかに甘い香りが、僕の鼻にまとわりついた。
数分後、おばちゃん店員がトレイにのせて料理を持ってきた。
「はい、どうぞ」丁寧に、僕の前に料理が置かれた。
「ありがとうございます」
僕は、満面の笑みと期待と感謝を込めて言った。
僕の前に、白飯と味噌汁と一緒に豚の生姜焼きが出された。僕は、のぞき込むように料理を見る。白い皿の上に置かれたキャベツの千切りに寄りかかって、まるで醤油ダレの漆に保護され美化された芸術品のように光り輝く豚肉がのっていた。フライパンによって付けられた、香ばしく程好い焦げ目が肉の縁に彩られ、立ち昇る湯気にのり、焼かれた生姜の効いた醤油ダレの香りが、僕を包み込んだ。僕は、その香りを鼻いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出した。もう我慢の限界だ。僕は両手で箸を割った。
「いただきます」
一枚の肉をつかみ、口に運んだ。
「うまい!」
僕は、思わず口に出してしまった。
肉にしっかり味が浸み込み、そしてなんといっても、肉についた醤油ダレによる焦げ目がなんとも言えない。この部分で、ご飯二・三杯はかき込める。それほど、焼き具合が絶妙だ。
僕は、夢中で料理を食べた。おばちゃん店員のあんぐりとした視線を感じたが、そんなのは関係ない。今は、この料理のことしか考えられない。
僕は、付け合わせのキャベツや味噌汁、茶碗のご飯粒一粒残すことなくたいらげた。自分でも驚いたが、肉がのっていた皿が、まるで洗い終わったかのように、白く光っていた。よく見ると、キャベツでタレがなぞられた跡がある。とてもきれいに曲線を描いている。
――はぁ~、おいしかった。ここなら期待してもよさそうだ!
僕は、覚悟を決めた。
「よほど、お腹が減ってたのね」
おばちゃん店員が、食器をさげながら、笑顔で言った。
「すみません」
食器を厨房にさげようとしているおばちゃん店員を呼び止め、僕は名刺を出した。
「私、〟月刊フードボーノ〝の中川と言います」
「あら、どうも」
おばちゃん店員は、食器をテーブルに置き、前掛けで手を拭いてから、冷静に名刺を受取った。きっと、うちの雑誌のことを知らないのだろう。
「今度雑誌の企画で、コース料理の特集やるんですが、このお店に手伝っていただきたいのですが。ここの料理はおいしくて、非常に気に入った――」
「ごめんなさい、うちはコース料理はやってないのよ」
おばちゃん店員が、僕の話をさえぎった。
「え? ここレストランですよね?」
「いいえ」
「でも、ここに――」
僕は、カバンからプリントを取り出した。
「ほら、ここに――」書いてなかった。業態の欄が一つズレていた。
「レストランで、生姜焼きはやらないわ」
おばちゃん店員は、失笑しながら言った。僕は、とても恥ずかしくなった。顔を赤く染めながら、少し粘ってみた。
「これからも出す予定はないですか?」
「ないと思うけど、ちょっと待ってて」
おばちゃん店員は、食器を片づけながら、厨房に向った。暖簾の奥から笑い声が聞こえ、さらに僕は恥ずかしくなった。おばちゃん店員が、少々笑いながら僕の所に戻ってきて、
「やらないみたいよ」
「あー、そうですか……。すみません、お会計お願いします」
「ごめんなさいね」
僕は、会計を済ませ、プリントを握りしめたまま、店を後にした。店のドアに付けられた鐘が、カランコロンと悲しく鳴った。