朝市
金曜の朝、カーテンを開けるともう太陽は昇り始め、小鳥の鳴き声が聞こえる。家族は誰も起きていない。時刻は、四時ちょっと過ぎ。シャワーに入り、そのまま会社に行くための支度をし、家を出た。
地下鉄の始発の時間にもなっていない。藤堂さんの店までタクシーで行くしかない。でも、ガランとした道路にそんな頻繁にタクシーが通るわけもなく、知らず知らずに大きな街道まで歩いていた。それでも、なかなかタクシーは通らない。まだ夏も始まっていない六月の朝の風は冷たく、自然と歩みが速くなる。ここが北海道でなければ、もう暑いぐらいなのだろうと考えていると、空車のタクシーが一台遠くから走ってくるのが見えた。僕は、手を上げてタクシーを止めた。
行き先を告げ、タクシーが走り始める。携帯電話の時計を見ると、四時半を過ぎている。道路も空いてるし、約束の時間には間に合うだろうと一安心して、車の外を眺めていた。
本当に人っ子一人いない。ここが北海道で一番の大都市かと思うと、何か寂しい感じもするが、朝四時半、人でにぎわっている方が怖いなと思いながら、タクシーは進んでいった。
「こんな朝早くから仕事ですか?」運転手が僕に話しかけてきた。
「ええ、仕事の前に用事がありまして……」
僕は、寝惚け眼でバックミラーを見た。運転手の目は前を見たまま僕とは眼が合わなかった。
「大変ですねえ。今不景気だからねえ」
「そうですね……」
運転手さんの柔らかい声が、僕にはまるで催眠術を唱えられているかのように、眠気が襲ってくる。話に相づちしウトウトしながらタクシーで藤堂さんの店に向かった。
「次の信号を右にお願いします」
線路を越える二つ手前の信号を曲がるように告げると、「はい」と言いながら、ハンドルを右に切った。五時十分前、約束の時間には間に合った。お金を払いタクシーを降りて少し歩くと、店の前に、藤堂さんと奥さんが立って待っていた。
「おはようございます」
「おはようさんどす」
京都訛りの小気味よい挨拶の奥さんに比べ、朝も早いことで機嫌の悪い藤堂さんは、開いていない目で僕を見て左手を軽く上げた。
「昨日は送っていただいてありがとうございました」僕がお礼を言うと、「いいや、かまへんでおくれやす」と丁寧に応対してくれた。まるで、昨日の話はなかったかのように振舞ってくれる。僕は、とても複雑な気持ちになった。
「ほな、行こうか……」
朝から着物を着て凛としている奥さんに対して、藤堂さんは白いTシャツ、グレーのスウェットに長靴で軽トラックに乗る。よくこんな美人の奥さんをもらえたなと思ってしまう。
「あんた、これ」
奥さんが、藤堂さんに近寄り、棒のようなものを藤堂さんに手渡した。
「ああ、ありがと……」
藤堂さんは、眠気眼で受け取った。
「行ってきます」
僕は、奥さんに一礼をして車に乗る。奥さんも一礼して優しく手を振ってくれる。あんな奥さんいいなあ……。
「今日は、どこに行くんですか?」
軽トラの狭い中で、必死にシートベルトを締めながら、藤堂さんに訊いた。
「行けばわかるわ」
大きなあくびしながら、藤堂さんは車を走らせる。僕は、藤堂さんのあくびがうつってしまい、手で口を抑えた。
軽トラックが止まったのは、中央卸市場だった。こんなに朝早いのに、人が忙しなく働いている。よくテレビで見る、魚屋さんの前掛け(なんか、ゴム製に見えるやつ)をした人たちがいっぱいいる。女の人もいる。若い人もいる。ほとんどが、おじちゃんと呼ばれる世代の人だが、タバコをくわえている人、大声を出している人、魚を真剣に見ている人などたくさんだ。
「お~い! 幸ちゃん!」
明らかに市場とは違う雰囲気を漂わせる、小柄のおじさんがサングラスをかけて手を振っている。
「お知り合いですか?」
僕は、顔をしかめながら訊いた。藤堂さんを見ると、頭を抱えてうつむいている。さすがに、失礼だがあの人の格好に恥ずかしさを感じているのだと僕は思った――が、次に聞こえてきた藤堂さんの言葉に僕は驚いた。
「Zzzz……」
寝ている! 朝も早かったので、歩きながら寝ていたのだ。言葉じゃない、音だったのだ。ちょっと、立ち止ったときに起きて、頭を押さえたときに、また寝たらしい……。ある意味、すごい人だ。
「藤堂さん! 呼んでますよ!」
僕は、藤堂さんの肩を揺すって起こした。藤堂さんは、開いているかわからない小さな目で、辺りを見渡し始めた。状況を把握していないみたいだ。ここはどこ?といった、とぼけた表情している。小柄のおじさんも藤堂さんを指差して笑っている。
「おい、おいまだ寝とうんかい?!」
「ああ、次郎坊……、ここで何しての?」
「何しよるじゃなか! ここは、オレん城だ」
店を指差し、小柄なおじさんは大声で言った。僕も藤堂さんも、その声にたじろぎながら顔をしかめた。ちょっと朝から、きつい元気の良さだ。
「ああ、そういや卸しに来たんやった――。朝早すぎて、あんま覚えてへんわ」と言いながら、藤堂さんはまた寝そうになっていたので、僕が肩を揺すって起こす。今思えば、よくここまで来れたものだ。ある意味、いつ死んでもおかしくない状態にあったみたいだ。全く気づかなかった。
「あの……、こちらは……?」
僕は、藤堂さんに目配せをして、小柄なおじさんの紹介を求めた。
「ああ……、こいつは、坂名次郎……」
「魚?」僕は、驚いて訊き直してしまった。
「その魚じゃなか! 坂名! 坂道の坂に、名前の名」
坂名さんは、怒りながら訂正しているが、藤堂さんは笑っている。けれど、その笑顔に力は無く、マンガに出てくる陰気なキャラクターが笑っているように見えた。
「まあ、いつものことやないか……。そうガミガミせんと……」
「いつでんんこつやけん、腹かくんだ!」
坂名さんは、目が血走って怒っているが、藤堂さんがポケットから奥さんに渡された棒のようなものを坂名さんの口にくわえさせると、坂名さんが静かになった。
「幸ちゃん、わかっとうね」
坂名さんは、嬉しそうに棒を舐めている。
「コーラ味や」
口にくわえさせたのは、飴だった。意外に可愛い一面のある坂名さんは、嬉しそうに飴をなめている。
「初めまして。中川です」
僕の自己紹介を坂名さんは軽く手を上げ、笑顔で応えてくれた。
「お二人は、お知り合いなんですか?」
「もう、二十年近くん付き合いだ」
大きな音を立てて飴を噛み砕き、棒をくわえながら話した。
「お前な、飴砕くのやめえや。そのあとのじゃらじゃら口の中で回す音がうるっさいねん」
「飴ば砕かんっち、男じゃなか」
坂名さんは、本当に口の中で砕いた飴をじゃらじゃら舐めまわしている。確かに、少々うるさい。
「オレの北海道に、まだ見ぬ魚ば探しに来るっち言ったら、ここまで付いてきよったんだ」
「アホ。もうその時には、ここに来るのが決まってたんや。お前が寂しくてついて来たんやろ」
こんなやり取りを、五分近く僕の顔の前でやっている。
「藤堂さん、そろそろ本題に……」
「おお、そうやな」
「何だ?」
「例のものは入ったか?」
「あ? あいね。入っちるちゃ」と言うと、坂名さんは店の奥へ行き、白の五十センチぐらいの発砲スチロールの箱を持って僕たちの前にある台に、ドンと落とすように乗せた。
「こん時期にしてからな、よか型ばい。脂はちょー落ちるの、肉厚でうまかちゃ」
その箱の中には、鮭のような魚が氷に埋もれて入っていた。でも……、
「この時期に鮭ですか?」
僕は、二人に訊いた。
「この時期だから、この鮭なんや」
藤堂さんは、氷を払いながら魚を見ている。魚の目を見て、えらを見て、尻尾を掴み、身の固さを確かめている――僕はその様子を見て、その目の変わりように、息をひそめた。さっきまであんなに眠そうな顔をしていたのに、急にスイッチが入ったように、魚を品定めしている。
「よう入ったのう。生は初めて見たで」
「冷凍もあったんよんばってん、幸ちゃんにはこっちん方がよかっち思ったんばい」
二人は、満足そうに笑っているが、僕は一人取り残された感で一杯になった。
「あの~、この魚は……?」
僕は、二人に尋ねた。
「お前、自分で言うたやん。鮭や」
藤堂さんは、しゃくれたあごで鮭を指しながら言った。
「でも、夏前に鮭ですか?」
「中川しゃん、この魚は〟トキシラズ〝っち言うて、夏に産卵しに戻っちくる鮭なしけんしゅ。ま、ちょー時期は早かばってんね」
「トキシラズ?」
僕は、はじめて聞く名前に興味を持った、トキシラズて……。
「普通な、秋に卵ば産む。ばってん、夏に産んでなおすこんこの鮭な、時期ば知らんたい、つまり時ば知らんたいから、こん名前のついたっち言われとる貴重な鮭だ。まだ脂がのんっちなかがと身のオレンジ色やけど、まちっと夏に近づくっち、動きの活発になるけん、身も赤みのかっち脂もんてくるんだ」
坂名さんは、嬉しそうに鮭を触りながら、自分の仕入れた魚に満足そうな顔をしている。藤堂さんは、違う魚を見ている。
「これもちょうだい。あと、そのイカもうまそうだな……」
「じゃあ、またな」
藤堂さんは、自分の仕入れた魚の入った発砲スチロールの箱を軽トラに積み込みながら言うと、
「気にいった魚のちゃてちゃかった。またほしか魚があったんよら連絡ちゃこしぇちゃ」
「今日は、ありがとうございます。色々勉強になりました」
「よかよ。オレな、市場の休みん日以外ここにおるから、いつばってん来んしゃい」
「ほなな~」
藤堂さんは、あいさつしている僕を置いて、軽トラを動かして行ってしまった。
「ちょっと、ちょっと待てください!」
僕は、カバンを抱えながら、一生懸命軽トラを追いかけた。後ろで、坂名さんの笑い声が聞こえる。
プファー
「はよ走らんと仕事間に合わんで~」
軽いクラクションの音のあとに聞こえた藤堂さんの声が、ドンドン遠くに聞こえていくような気がした。




