秋の章 二:望月
「ようこそ、珠洲島神社へ」
それが神に愛されなかった男が基に向けた最初の言葉だった。
10歳の誕生日を区切りに基は家族に捨てられた。本人にしてみればよくもまあ10歳まで我慢したものだと正直感心していた。自分が自分のような化け物を我が子に持ち10年も耐えられるかは定かではない。というより十中八九無理だろうと冷静に考えていた。
そうして本日めでたく10歳の誕生日を迎えた基は生まれ育った町を離れ、県を跨いだこの山奥の神社に預けられることになった。名目上は。
実際には山の裾野の石段の前まで連れて来られ多少の説明の後放置されたのだから捨てられたという解釈になるのも仕方ないだろう。決して目の前の長い石段から意識を逸らしたいわけではない。
このまま方向転換してどこかへ逃げてしまおうか。そんな思いもあったが、すぐに現実に直面した。
逃げたとして、行く宛てなどない。それならばこのまま進んで様子をみようか。今は手足も自由で逃げ出すのも難しくない筈だ。
少し冷えた風が吹き付ける中、長い長い石段を上り切ると朱色の鳥居が見えた。なるほど、確かに神社のようだ。実際に見るのは初めてだが、朱色の鳥居と注連縄は写真で見たことがあった。
自分のような化け物を神を祀る神社に捨てるとはとんだ罰当たりだ、と自嘲気味に笑えば砂利を踏む音が聞こえた。視線を彷徨わせば鳥居の向こうから自分よりやや大人びた少年がこちらに向かってきていた。神社の写真によく映っていた、赤と白の衣装を身に纏ったその少年を一目見て直感した。
この少年はいわゆる穏やかで優しいいい人と言われる類の人間だ。自分とは正反対の。
「ようこそ、珠洲島神社へ」
人のよさそうな笑みを浮かべた少年は心から祝福するように言った。
「初めまして。柏基くんだよね?僕は我妻愁一、この神社の神主の孫です」
ゆっくりと歩み寄ってくる彼に隠すこともなく基は舌打ちをした。
最悪最低の気分だ。多分彼は基にとって最も相性が悪い人間だと瞬時に理解してしまった。ただでさえ他人の家に預けられるという事実から目を逸らしたいのに、それに加えて同じ屋根の下で相性最悪の人間と暮らすなんて反吐が出そうだ。基は自分の勘が鋭いのを自覚しているので尚のこと機嫌が悪くなる。
数十センチの距離を空けて差し出される手のひらを見て溜め息を吐き出さなかった自分を褒めてもいいと思う。
この少年は知っているのか知らないのか。おそらく後者だろう。知っていれば『右手を差し出す』というごく当り前な挨拶を避けるはずなのだ。
なるほど、それならばすぐに教えてやろう。自分に手を差し出すという自殺行為を軽々と行う無知な彼への初めての挨拶の代わりに。
基は右手の手袋を外し、差し出された手に触れた。その瞬間に少年との関係は始まることなく砕け散るはずだった。
そのはず、だったのだ。
「僕は君を歓迎するよ」
にこやかに告げられた言葉の真意を理解することもできず、基は呆然と少年を見つめ続けた。左手に持った手袋はいつの間にか砂利の上に落ち、言葉を発することもできず、それでもただずっと彼を見つめ続け――ようやくひとつの確信とひとつの予感に震えた。
この少年は基がここに預けられる理由を正しく理解した上で右手を差し出していたという確信に。
そして、
彼との関係が長く続いていくだろうという、嫌な予感に。
※
愁一に連れられ神社の更に奥にある平屋に入れば、そこには彼と同じ格好をした老人がいた。話の流れと年齢から察するにこの神社の神主だという愁一の祖父だろう。
老人は愁一と基に座るように指示し、二人は並んで座った。愁一は正座で基は胡坐を掻いた。その姿を交互に眺め、老人は少しだけ口元を綻ばせた。
基も老人をじっと観察していた。愁一の祖父とは思えない厳格そうな顔付きの老人だ。強面ながら若い頃は相当女性にモテたことが窺える。愁一が柔らかに微笑むのならば、この老人は力強く笑む。愁一が人を和ませ安心させるなら、この老人は人を頼らせ安心を与える。そういうイメージだ。
似ているようで似ていない、かといってまったく違うとも言い難い。これが血縁関係というものだろうか。基には縁遠い話なのでいまいち実感しがたいが、そうなのだろうと違和感なく腑に落ちた。
「さて、初めましてだね。私は我妻邦治、愁一の祖父でこの神社の神主だ」
思ったよりも張りのある凛とした低い声が室内に響く。
「君のことは聞いているよ。右手に特殊な力を宿しているそうだね」
邦治は前置きもなく本題を切り出した。
「君が自分自身で完璧に力を制御できるようになるまでは愁一と二人でここで生活してもらう」
……。
…………。
「は?」
ここに来て初めて基は言葉を発した。今まで無言を貫き通していたのが嘘のように。それくらい衝撃的な内容を、今この老人は口にした。隣で静かに邦治の話を聞いていた愁一と、基の右手をいとも容易く掴んで見せた愁一と、ここで二人で生活しろと。
基の頭の中に疑問符が溢れる。というより疑問符しか出てこない。けれどどの疑問からぶつけるべきか悩んでしまって声にならない。
とりあえず一言にまとめるなら、
「ふざけんな」
が適当だろうか。
邦治は至極真面目な顔で基を見つめ返した。その瞳は何事にも揺らがないと思える程強い光を秘めていた。
「ふざけてなどおらんよ。現状それしか方法がない。基には申し訳ないが、私でも君の右手には容易に触れられない。おそらく現段階で障りがないのは愁一くらいだろうね」
有無を言わせぬ強い声で邦治は無理やりにまとめる。
「とにかく愁一と暮らして力の制御を覚えなさい。……それが君をあそこから引っ張り出す為の最低条件だったからね。できなければ君に居場所はないよ?」
にこやかにスパルタだ、このジジィ。
基は声に出さずに心の中で呟いた。
※
昔々――というほど昔の話でもない。ほんの10年ほど前の話だ。柏という一族に起きた不幸せな物語の、唐突な始まりの話。
その一族の人間は医療に携わることを義務付けられていた。昔から医療により多くの命を救ってきた自負と誇り、そしてそうして培ってきた周囲からの多大な信頼を手放せなくなってしまった故の、肥大なまでの自尊心が子々孫々と医療に携わることを義務としてしまった愚かな一族。
そんな一族にある日一人の子供が生まれた。それが始まり。
最初の被害者はその子の両親だった。初産だった母親にとって我が子を抱くということ自体が初めての体験で感動と感激で涙を流したという。その涙が恐怖と絶望に染まったのは、無邪気に伸ばされた子供の手が自分の指を掴んだその時。可愛らしい小さな手のひらに包まれた小指が跡形もなく破裂した瞬間だったそうだ。
突然の事態にパニックに陥り、その場の誰もが母親が子供を腕から落としたことに暫くの間気が付かなかったという。幸か不幸か――床に落下し頭を強打して死亡とはならず、母親のベッドに落下した子供は母親に向かって再び手を伸ばした。
いち早くそれに気付いた父親は母親と子供の間に無理やり手を差し込み、そして今度は父親の親指が破裂した。母親と違い根元から掴まれたのではなく指先に触れられただけだった為か、第一関節から下は残っていたが、だからといって何かが変わることはない。
おびただしい量の血液と痛みと、子供の泣き声と。パニック状態に陥った処置室の中で子供の手を包帯で縛り上げベッドの柵に括り付けた勇者が誰だったのかはわからないが、とにかく子供の自由が奪われるまでその場にいた人間の混乱は収まることがなかったという。
その子供の誕生には必要以上の血が流れ、そしてその後子供の右手が自由になることはほとんどなかった。
包帯を巻き付けられた右手をあえて壊死させようという父親の強硬な姿勢が反映された子育ての中、よくもまあ本当に壊死しなかったものだと大きくなったその子供はその話を聞いた時に思った。
やはり母は強しということだろうか。小指を失った母親はそれでも子供を庇い続けたそうだ。父親の目を盗んで子供の包帯を緩めてやり、一生懸命その子の手を動かし続けたという。
しかしそのことで父親は彼女のことを疎ましく思い始め、夫婦仲は一気に冷え込んだ。
父親は医者だった。心臓を専門とする医者だった為自分が数多の命を救っているという意識が非常に強かった。何度も難しい手術を成功させた彼は、もう二度と手術ができなくなった。親指がなければメスが握れない。それは彼にとって屈辱以外の何物でもなかった。
当然のように衝突する両親は父親優勢ながらも、医者としての良心か世間体を気にしてか子供の処遇を決めかねていた。
その子供が自らの意思で他人を襲うようになるまでは。子供が自分の右手の脅威を理解できるようになるには時間が足りず、けれど自身の右手の扱いを窮屈に思うようになった頃、不満を訴えるかのように周囲の人間に危害を加え始めるまでは。
結果として子供は幽閉された。監禁と表現した方が正確なのかもしれない。とにかく子供は閉じ込められ、今日この日まで鎖に繋がれ外に出ることを許されなかった。
外に出された経緯はわからない。邦治が何かをしたらしいということは朧げながら理解しているが。
いつのまにかいなくなった母親が今どこで何をしているのかも知らない。大方の予想は付いているけれど。
けれど最後に見た父親の左手の薬指を見て、自分が両親の指だけでなく、絆まで吹き飛ばしてしまったことだけは理解できている。
悲しむべきことにそれについて何も感じることはできなかったけれど。
――もう二度と会うこともあるまい。
父親の捨て台詞と歪みきった表情に対してすら何も感じなかったのだけれど。
※
力の制御云々の話をする以前に問題があった。二人で生活する、という大前提が困難を極めた。
基は物心ついた頃にはどこかに閉じ込められていたので『普通の生活』というものを知るはずもなかった。常に周りに医学書と扉の隙間から聞こえてくる大人たちの会話があったので多少の知識はあったし、人体についてならそんじょそこらの大人より詳しいはずだ。
だけど、それだけだった。
たとえば食事前に手を合わせる意味だとか、干したばかりの布団のにおいだとか、平屋の周りを自由気ままに闊歩する犬猫やおまけに狸の姿も全てが目新しく、反応に困った。しかも愁一は何をするにも大抵基を連れて歩き、彼の反応を楽しんでいる節がある。それが少し腹立たしいながらも抵抗する気は起きなかった。
予想以上に愁一との生活は居心地が悪くなかった。
新鮮、という言葉の意味を初めて理解した気がした。
それでもやはり鳥居の外には出られなかった。愁一が学校に行っている間だけは一人きりだった。出掛けることを直接禁じられているわけではない。けれどそれは暗黙の了解だった。決して越えてはならない目には見えない境界線があることを忘れるつもりはなかった。
他言するつもりはないけれど、室内に一人というのは案外息が詰まる。閉じ込められているわけでなくとも扉を開けることが難しいように思えて愁一が出掛ける時、特に学校に行く時は室外へ出ることを決めていた。
たとえばそれがこんな風に風が強く土砂降りの日でも。
濡れて汚れた自分を見て、愁一はどんな言葉で笑い掛けるだろうか。不思議と予想がついてしまう。おそらく
「大丈夫?」
脳内の愁一の声と重なって、高く甘やかな声音が背後から聞こえ驚いて勢いよく振り返れば赤い傘が目に入る。薄い紫色のワンピースを着て、赤いランドセルを背負った同年代の少女が基に傘を差し出していた。同年代の少女など愁一と暮らし始めてからテレビでしか見たことがないので年下なのか年上なのかの判断もつかないが。
ただひとつわかるのは、ランドセルを背負った少女が昼前のこの時間にこんな場所にいるのは本来であればありえないということだ。愁一が毎日同じ時間に学校に行って同じ時間に帰ってくるのだから、そのはずだ。
少女は背負っていたランドセルを肩から下ろし、金具を回して中に入っていた真っ白なタオルを取り出し、基の髪を拭き始める。次いで顔、そして腕から手に向かうその手を慌てて制する。驚きつつも少女は基の右手の手袋を見て、不思議そうな顔をした。
「右手寒いの?」
「っ」
何も言えずに目を逸らす基に何を思ったのか、少女は突然基の右手を自らの両手で包み込んだ。
「あったかい?」
瞬間、弾かれたように少女から逃げ出し基は無意識の内に鳥居の外へ飛び出していた。背後からの声を無視し、ただひたすらに石段を駆け下りる。そして思い知る。この鳥居の内側が決して自分から他人を守ってくれる聖域ではないことを。閉じ込められていたあの場所と何も変わらないということを。
ただひとつ、愁一の存在を除いては。
基は自分が今どこにいるのかもわからなかった。少女から逃げ、闇雲に走り回った挙げ句に迷子になり、雨に濡れて座り込んでいた。立ち上がる気力もない。
ただただ――恐怖で震えていた。
他人と触れ合うことがこんなにも怖いことだとは思わなかった。柔らかなタオルの感触も、触れた指先のぬくもりも、心配そうな瞳も、自分の右手がすべて壊してしまうと直感した。
今まで壊したいと思うものに触れることを躊躇したことはない。母親や愁一のようにあちらから触れてくる場合にも少なくとも恐怖を感じたことなどなかった。その二人と彼女の何が違うというのだろうか。
「見つけた!」
聞き慣れた声に安堵して顔を上げれば汗だくの愁一の顔があった。手にした傘もほとんど意味を為していないようで、髪も服も濡れているからもしかしたら顔が濡れているのも雨のせいじゃないかと思い直して、再び思考に待ったをかけた。
息を切らして傘の意味もなくなるくらい夢中に走って来たのだから汗だろう。
妙なところで冷静な自分の思考に思わず笑い出しそうになって、失敗した。表情が緩んだ瞬間に口元は弧を描くこともなく歪み、目からは涙が零れ落ちた。
「あ、あああああああああああ、ああああああ!!」
堰を切ったように溢れ出す涙と意味のない叫び声。生まれて初めて抱いた激情に振り回される基を抱き締め、幼い子供にするように愁一はその背を一定のリズムで叩いた。それが余計に基の琴線に触れ、縋るように愁一の背へ手を伸ばし必死にしがみついた。
今まで一度だって声を荒げたことはなかった。必要であれば右手を伸ばせばそれですべて事足りた。身の内に巣食う不気味な能力も自身の一部で恐怖など感じたことなどなかった。誰かを傷付けることも何かを壊すことも自分にとっては当然のことで、それを否定される意味が理解できなかった。邦治に能力の制御を覚えろと言われてもそれが外の世界で生きていく為になぜ必要なのかまでは考えたこともなかった。
初めて感じた恐怖。それは他人と触れ合えない自分自身の異質さに対してだった。
そのことがどうしようもなく悲しくて悔しくて、それでも怖くて怖くて。基の涙と叫び声は雨が上がるまで止むことがなかった。
※
愁一はいつも手を繋ぐ時に必ず左手を差し出す。それが当たり前のように振る舞っているが、基にとっては不思議でならなかった。愁一には何故自分の能力が効かないのだろう。壊したいと思ったことは初対面の他にも実は数回あったのだが、愁一はそんな時でも自然に手を伸ばし基の右手を掴んで笑った。今だってどうして自分を追い掛けてきたのか、学校はどうしたのか、聞きたいことはたくさんあるのに言葉にできない基の右手を掴んで歩き出した。
いつの間にか止んでいた雨の名残も感じさせない満月を見上げながら半歩前を歩く愁一がかすかに笑う気配がした。
「君みたいに不思議な力を持っている子はね、神様に特別に愛されているんだ」
唐突に呟かれた言葉に思わず耳を疑った。愁一は自分の能力がそんなに神聖なものなどではないと十分に理解している筈なのに、そんな綺麗ごとを口にする。それがとても奇妙で――不愉快だった。
「けれどね、神様に愛されているとはいえただの人間にその愛情は大き過ぎて、君のように逆に不運に見舞われてしまう子も少なくないんだ」
「……押し付けな愛情だな」
「そうかもしれないね」
愁一の笑い声が妙に耳に残る。前を歩いているから表情が見えないが、今の愁一はどんな顔で笑っているのだろうか。気になったのに何故だか見てはいけない気がしてそのままの距離を保つ。
満月には魔力があるという。ある病院では満月の夜に患者が暴力的になるという事件があったと何かの本で読んだことがある。その月の魔力に愁一は取り憑かれてしまったのではないかとそんな夢みたいなことを考えた。
神様に愛された子供はそれ故に不運に見舞われる。
そんな馬鹿げた話を信じられるほど基は信心深くもないし、純粋でもなかった。
愁一は暫く黙ったままだったが、神社の石段が見えてくると足を止めた。
振り向いた表情はいつもよりずっと穏やかで、それでいてどこか寂しそうだった。
繋いだ手をゆっくりと離し、石段を三段程上がると愁一はもう一度満月を見上げて小さな声で言う。
「僕は神様に愛されなかった」
涼やかな風に消えてしまいそうなか細い声だった。
「だから僕は神様に愛された子供の影響を受けないし、僕の元には神様に愛された子供が集まるんだ。……なんて皮肉だろうと思ったよ。神様に愛された子供を神様に愛されなかった僕に見せつける神様の意地悪だと、ずっとずっと疎んでいたんだ」
愁一は泣きそうな顔で微笑んだ。心の底に隠していた感情を少しずつ曝け出すように、ぽつりぽつりと言葉が漏れた。
優しくて穏やかでいつだって笑顔だった愁一の、それは初めて聞く懺悔のようだった。
「神様に愛されたかったわけじゃない。それがどんなに大変かは随分見てきたからね。けれど見せつけるだけ見せつけて、救う力も与えられなかったことに腹が立った。僕に直接影響がない能力に干渉することはできないから、目の前で苦しむ姿をただただ眺めているしかないことの方が多かったんだ」
基のように爆発させることもなく、一言一言間違えない様にまるで自らの体内で消化するように話し続ける。
「君のことを知らせてくれた女の子を、僕は救いたかったんだ。あの子の救いになりたかった。でも、できない。僕にはできない。それが悔しくて、それでもあの子の前でいい人ぶってる自分に、嫌気が差した。そこへ君がやってきて、僕が物理的に救える君が来て、あの子にできなかったことをしているような感覚で君に笑い掛けてた」
悪夢のようだと思った。
月の魔力のせいでおかしくなったのだと思いたかった。
そう思えなかったのは月を見上げる愁一の目がいつも以上に穏やかだったからだ。溜め込んだ汚れを吐き出すように、濁っていた心をまっさらに戻すように、徐々に愁一の瞳が凪いでいった。
だからこそ本当なのだろうと思った。本当に愁一は自分を少女の身代りにしたのだろう。そしてその結果、基は偽りの聖域を手にしていた。それだけの話だった。
自分が化け物だという事実も忘れてしまうような日々を手にできたのは、愁一のエゴと少女の存在があったからだったというだけの話だった。
基の中ですべてのことに納得がいった。
神主が基と愁一を二人で生活させたのは決して基だけの為ではないということも、父親が慰み者として自分を神社に売ったのだということも、少女に触れられるのが怖かったのは愁一や母親のように自分に対する偏った感情を持っていない無垢な存在だったからだということも。理解し、納得した。
神社の中も、閉じ込められていたあの部屋も、違いは鎖のあるなしだけだったということだろう。そう思うと笑えてきた。笑い過ぎて涙が出そうだったが、今度こそ笑いだけにしてみせた。
声を出して笑い出した基を不審に思った愁一が満月から視線を移せば、彼は今まで見たこともないような凶悪な笑みを浮かべていた。それは監禁される前に他者を傷付けていた頃と同じ表情だったのだが、愁一がそれを知るはずもない。ただただ基の変化に驚き目を見開いた。
「いいぜ、救わせてやるよ」
傲慢としか言いようのない口調で基は告げる。どこまでも尊大な態度で、蔑むように微笑む。
「俺を救って満足すりゃいい。そんで、俺はあの女の子とやらを救ってやる。お前にできねーなら俺がその女の子を救ってやるよ。それで万事解決だろ。お前は優越感に浸れて、女の子は救われて、俺は普通に生活できるようになるわけだ。最上の結末ってヤツじゃねーの?」
今までほとんど言葉を発する事がなかった基があまりにもスラスラと口汚く喋り出すので愁一は唖然とする。これがあの基なのだろうか。本当に同一人物なのだろうか。ショックでおかしくなってしまったのではないだろうか。疑問符が溢れ出して止まらない。
それでもこれが本来の彼なら彼が閉じ込められていたという事実にも納得がいった。今までどうしても彼が閉じ込められる程の存在ではないと思っていたが、凶悪な能力と凶悪な思考を持ち合わせているのなら周囲の人間が怯えるのも理解できた。
お互いに認識を改めたところで、基が手を差し出す。
「共同戦線ってことだ」
意地の悪い笑みを浮かべ愁一からの返答を待つ。そんな基に応えるように愁一は差し出された左手をそっと握り締めた。力強く握り返され顔を顰めれば基が今までで一番楽しそうに笑っていた。
幼い子供のような無邪気な笑みにほっとして愁一は石段の先の鳥居を見上げた。
「帰ろうか」
「おう!」
すぐに手を離し石段を駆け上がる基を見つめる愁一の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。罪悪感からか安堵からかわからぬ涙を堪えて、愁一もすぐに後を追い掛けた。
鳥居を潜れば既に基はこちらを見ており、勝ち誇った笑みを浮かべていた。思わず愁一も笑みを返す。
奇妙な共同戦線を張ったものだな、と思いながら。
「……それでも、俺はここにいたいと思ったんだ」
基の小さな呟きは夜風に流され消える。
少女を巻き込んだ新しい日常が始まるのは、もう少しだけ先のこと。
(終)