幕間:秋雨
雨は嫌いだ。
まるで彼女が泣いているようなどこか切ない気持ちになるからいつだって雨音が聞こえると気分が沈む。もう二度と会えもしない人間に気分を左右されるというのもなんだか滑稽な話だが。
「ただいま戻りました」
それでもきっと自分は一生このままなのだろうと心のどこかでは自覚している。これは報いだ。悪魔に魅入られた自分への、そして悪魔を騙った自分への。
「綾峰くん、ただいま」
ふと頭に大きな手のひらが乗せられる。子供に対するようなその行為が嫌いだと何度告げても彼はそれをやめる気はないらしい。確かに彼にとってみれば子供のような年齢なのだろうが、それにしたって自分はもうすぐ成人する。そんな年齢の人間に対する態度ではないだろう。
たとえ彼が元は教職に就いていたのだとしても、それは自分には関係のないことなのだ。
……そもそも教職といっても彼の職場は高校だったはずなのだが。
「遥さん、自分を子供扱いするのはやめて下さいと何度言ったら理解してもらえますか?」
「そうだね、君がきちんと挨拶できるくらい聞き分けがよくなったらかな?」
にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべた彼は再び自分の頭に手を伸ばしたが、寸前で払う。
ぱしり、という乾いた音が響くと同時に顔を顰めた自分に彼は更に笑みを深くした。
「ただいま、綾峰くん」
「……おかえりなさい」
ようやく聞けたその言葉に満足したように彼は自分から離れていく。どうやら本当に挨拶をしに来ただけらしい。相変わらず物好きというか、心からの善人というか、読めない人だ。
どうして自分は彼と組まされてする仕事が多いのだろうとうんざりした。
自分は彼が嫌いだ。
彼の諭すような物言いも、人好きのする微笑みも、頭を撫でる大きな手も気に入らない。生まれながらの相性が悪いのだろう。
加えて彼は『持たざる者』だ。『持つ者』の自分と相性が悪いのはあるいは当然なのかもしれない。それでもそんな彼がこの場所に自分より長く勤めているのには何かしらの理由があるはずで、それを知ることのできる立ち位置に自分はまだ立てていないのだろう。そう思うと更に苛立ちが募る。
この数年の自分の行いは果たして報われているのだろうか。結果だけを求めるつもりはないが、こうも何も変化がないと不安になる。自分にはこの仕事以外に生きる意味などないのに。
『椿総合相談事務所』――それが今自分と彼の勤めている場所の呼称だ。相談事務所の名の通り、困っている人が相談に来る事務所で依頼の内容もその規模も様々だ。主な仕事は必要な人に必要な情報や人材を紹介することで、法律事務所や会計事務所等への仲介の仕事も少なからずある。他にも病院や電気屋、探偵に進学塾まで様々な仲介を行っている。
そしてその裏で様々な事情を抱えて『困っている人』が相談に来たり、その事情により日常生活を送ることが困難な人の支援を行っている。けれど自分や彼はそういった依頼に携わることがほとんどない。
それは自分が『持つ者』の中で下位の存在で、彼が『持たざる者』だからだ。誰に言われたわけでもないが自分はそう思っている。
「雨が強くなってきたね」
彼は窓の外を眺めてそう零した。
『持つ者』と『持たざる者』でありながら表向きは大した違いのない自分と彼。けれどそこにある絶対的な隔たりを自覚しているからこそ、自分は彼とは相容れないまま平行線を辿るのだろう。
降りしきる雨音から逃れるように目を閉じて、小さく溜め息を吐き出す。
「 」
聞こえるはずのない彼女の声が聞こえた気がした。遠い日に置いてきた僕のことを呼ぶ悲しげな声が。
ああ、だから――
だから、雨は嫌いなんだ。
(続)