秋の章 一:晩秋
窓の外では鮮やかに色付いた葉が風に舞い、踊るようにはらはらと散っていく。そのさまがどこか哀愁を帯びていて、ほんの少しだけ胸が締め付けられるような気がした。そう感じてしまう自分を嘲るように笑みを落とし、綾はそっと窓を開ける。
ふわりと、暖かいとも冷たいとも言えぬなんとも心地よい風が頬を撫でた。……心地よい、はずなのに。それはどこか他人行儀な優しさで、綾の心を癒してくれることはない。
秋という季節はこんなにも色鮮やかで美しく多くの人々の目を楽しませてくれるのに、綾にとっては憂鬱にしか感じられない。そうして冬の訪れを今か今かと待ち望んでしまうのは、『あき』という言葉の響きが大嫌いだからなのだろう。
「考え事か?」
声と同時に優しいぬくもりが綾を包み込んだ。抱き締められているのだと気付くまでにそう時間はかからない。彼はいつでもふらりと現れ、壊れものを扱うように優しく丁寧に綾に触れる。今まで出会ったどんな人からもされたことのないその扱いに未だに戸惑いつつも、綾はその行為が嫌いではなかった。
「あの日からもう随分経つんだなあって、思っていただけよ」
綾はそっと目を伏せた。
ああ、あれも秋だったなあ。
ふとそんなことを思う。
どんな時にだって一番最初に脳裏に浮かぶのはたった一人のとっておきの笑顔。
--愛してる、愛してた。……誰より一番。
いつだって鮮明に思い出せるその笑顔を、きっと綾が忘れることはないのだろう。
※
綾が彰紋に出会ったのは小学校三年生の秋。隣の家に引っ越してきた同じ年の少年、それが彰紋だったのだ。
当時人見知りが激しかったのが信じられないくらい、まるで以前から親しかったかのように綾と彰紋はすぐに打ち解けた。いつも一緒にいる仲良しの友達、綾にとっては誰よりも大切な友人になった。一度だって喧嘩をしたことはなく、彼以上に気の合う友人など見つけようにも見つからなかった。
そんな穏やかで幸せな日常が狂い始めたのは、彰紋と出会って、一年と少し経った頃のことだった。
前兆なんてものはまるでなかった。
それは本当に唐突に起きた。
母親が、綾を見て不思議そうな顔をする。
--この子、誰なの?
まるで今まで見たこともないかのような口振りで、そう言った。
父が、姉が、彰紋が、そして綾自身が驚いてまじまじと母の顔を見つめた。言葉の意味を理解するのに時間がかかり、その言葉の意味に疑問を持つまでに更に時間を要した。
最初に我に返ったのは父だった。
呆然と立ち尽くしていた父は真っ先に我に返り、あまりに笑えない冗談だと繕うように母に笑いかけた。
当然違和感はあった。妻がそんな心にもない冗談を言うような性格ではないと当然知っていた。それでも尚、言わずにはいられなかった。
けれど母は警戒心を露わに綾を睨みつけるばかりだった。
--知らないわ、こんな子供。
自らが腹を痛めて生んだ子供を見て本気でそう言った。
冗談などではなく、本気で。
何かのショックで記憶喪失にでもなったのかとあれこれ尋ねてみると、母はほとんどの事柄についてはスラスラと答えてしまう。父のことも、姉のことも、彰紋のことでさえも。
ただ、綾に関することを除いては。
その日から必死になって母の記憶を呼び覚まそうと、家族は努力を重ねた。けれどもそんな努力の甲斐もなく、ついに母が綾のことを思い出すことはなかった。
そして、更にその三年後。追い打ちをかけるかのように、今度は姉の番となった。
--あなた、だあれ?
にっこりとあまりに無邪気な笑顔でそう問いかける姉に、ただただ言葉が出なかった。
母に綾のことを思い出してもらおうと一番張り切っていたはずの姉が、綾のことを忘れてしまった。
泣きじゃくる綾を抱き締めて、その日父は泣いた。
すまない、と。
母さんと姉さんが忘れてしまってすまない、と。
そして、いつか自分も忘れてしまうかもしれない、と。
ひたすら懺悔の言葉が繰り返され、堪らなくなって綾は父の腕から逃れ町中を駆け回った。家を飛び出し、公園も学校も病院も、自分が覚えているすべての景色を見て回り、泣き続けた。
ここで生きてきた。生きている。自分はここに、確かに存在しているのに。自分は全てを覚えているのに。
どうしてみんなは自分のことを忘れてしまうのだろう。
どうして、どうしてと、声にならずに嗚咽だけを漏らした。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。涙が枯れ果てるまで泣き尽した頃、彰紋が綾の前に現れた。
この三年間ずっと傍らで支えてくれていた誰よりも大切な友人。彼もいつかは自分を忘れてしまうのだろうか。そう考えるとぞっとしたが、恐怖に震える体を叱咤し、彼に向って縋るように手を伸ばした。
どうか、と。
どうか忘れないで、と。
彰紋だけは、と祈りを込めて。
「可哀想だから、いいことを教えてあげる」
ぱちん、というひどく乾いた音が耳に残った。
弾かれた手のひらよりも、なぜだか心が痛くて。枯れたはずの涙がじわりと目尻に溜まっていく。初めて受けた彰紋からの拒絶が、ひび割れた綾の心をじわりと痛めつけ、バラバラと音を立て壊れていく気がした。
そんな綾に構うことなく、彰紋は誰よりも優しくて温かくて、でもどこか違和感の残る笑顔で残酷な真実を口にした。
「僕が君の存在を喰らっているから、君は大切な人に忘れられてしまうんだよ」
それはとても残酷な言葉だった。
※
綾は自分の首に回された腕に自らのそれを絡め、小さく息を吐き出す。
「ねえ、高遠さん。あの時の彰紋にはきっと、友達にひどいことをした罪悪感があったのよ」
高遠、と呼ばれた男は返事をしなかった。ただ腕に少しだけ力を込めて、綾の体を強く抱き締めた。まるでこの世のすべてのものから綾を守るかのように、強く。それが嬉しくて、どこか悲しくて、綾は窓の外に目を向けた。
綾は彼が自分に抱いている感情が嫌だとは思っていない。遠からず、彼の想いを受け止めることができるようになるだろう。そうして彼と家族になって、この先もこのままずっとこの腕の中で生きていくのだろう。
そうすれば幸せな今よりもっと幸せな未来が待っている。
けれど、
「だからきっと、彰紋は私を追いかけたのよ」
夕日に染まる空を見上げれば、二羽の小鳥が寄り添うように飛んでいた。
もしかしたら、今こうして一緒に空を見上げているのは彰紋だったのかもしれない。そう思うとどうしようもなく胸が痛んだ。
叶わないと知りながら、そんなもしもを考える自分が彼を愛してもいいのだろうか。
『秋』という響きはどこか彰紋に通ずるものを感じさせる。だからきっと、こんなにも感傷的になってしまうのだろう。
嘲笑を浮かべたまま、綾は再び空を振り仰いだ。
一羽の鳥が心細そうに両翼を広げる姿が、目に映った。
※
綾は逃げ出した。
彰紋から、自分が身を置いていた環境から、今までの自分を培ってきたすべてから。
路上生活を繰り返し、時には気の良い老人の家を、時には不良と呼ばれる青年達の溜まり場を渡り歩き、拠点を構えることもなく転々と居場所を変えた。
否、変えざるを得なかった。
どこに逃げても必ず彰紋に見つかってしまうのだ。
最初は恐ろしくて逃げ出していた綾だったが、徐々に彰紋の告げた言葉が真実だということを理解するしかなくなっていた。
誰とどれだけ親しくなっても彰紋が関わればその人物の中から綾の存在がすっぽりと抜け落ちてしまう。それが彰紋の言っていた『存在を喰らう』ということなのだと痛感した。何度でも綾の前に現れ、何度でも綾の存在を喰らう。そうして綾の生きてきた道筋を少しも残すことなく、すべてを消し去ってしまう。
何度出会いを繰り返しても、同じだ数だけ忘却が繰り返される。
それはとても辛くて、少しずつ、でも確実に出会うことにも--生きることにさえも意味を見出せなくなっていく。
だから綾はこの連鎖を断ち切ろうと決意した。いつまで逃げればいいのかなんて考える必要がなくなるように、根本からすべてを終わらせてしまおうとした。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
心を落ち着かせるように、決意を固めるように、その行為を幾度か繰り返し眼前の引き出しに手を伸ばした。
音もなく開いた引き出しの中から一本の果物ナイフを取り出す。鞘から抜けば、刃渡り十センチ程の鈍く光る刃が現れた。軽くて持ちやすく、これならば簡単に扱える。綾は口元を緩め、刃へすっと指を押し当てた。うっすらと指に細い血液の筋ができる。裂けた皮膚から溢れ出る赤い雫に綾はほっと安堵の溜め息を漏らした。
このナイフならすべてを終わらせることができる。この忌むべき人生を、恐怖の連続を、文字通り断ち切ることができる。そう思うと安心した。もう逃げずに済む。誰にも忘れられずに済むのだ。
ナイフを握る手の力を強める。刃を自らの喉元に宛がう。指の一本一本に神経を集中させる。
これですべてが終わる。
これで、最後だ。
綾は自分の喉元に勢いよくナイフを突き立てた。
血液は派手に飛び散ることもなく、ぽたりぽたりと床へ滴り落ちていく。不思議と痛みは感じなかった。死というものはこんなにも呆気ないものなのかと、苦笑した。
そこではたと気が付いた。
どうして自分は『笑って』いるのだろう。笑顔のまま死ぬことはあっても『死体』は笑わない。笑むことは生を持つ者のみに許された特権だ。ならば……。
綾は戦慄した。
生きている。
自分は生きている。
そのことがどうしようもなく怖かった。生きていればいつ誰に忘れられるか怯えなければならない。いつまで彰紋に人生を弄ばれつづけるかわからない。それがとてつもなく恐ろしい。
今すぐに殺して。
生から解放して、そう切に願った。
「まったく、君は目を離すとすぐに無茶をする」
ぽたり、と。
滴り落ちるの間違いようもなく血液だ。独特の鉄臭さが鼻孔をくすぐるのがその証拠だろう。
けれどそれは綾のものではない。後ろから抱き込むように腕を回され、首の寸前に差し出された大きな手のひら。その手の甲にまで貫通しているのではないかと思えるほど深々と突き刺さった刃。それが確認できたところで綾はその場でくずおれた。
終わらない。辛いだけの人生も。彰紋からの支配も。繰り返される忘却も。
そのすべてに絶望し、しばらくぶりに涙を流した。どんなに辛くても、彰紋に真実を告げられたあの日以来流さなかった涙。それが今、決壊したダムのように止め処なく溢れ出した。涙の止め方なんて、もうわからない。
彰紋は困ったように微笑むと、自分の腕の中で泣き続ける綾からそっと離れ、ややあって手のひらからナイフを抜き取った。ブジュッと嫌な音を立てて血が噴き出し、小さな肉片が飛び散る。血塗れのナイフを床に滑り落とすとカランカランという小気味の良い音が室内に響き、それに反応するように綾の片がビクンと跳ね上がる。
恐る恐る顔を上げると、彰紋は驚くほど冷淡な目をしていた。その姿に綾は惑い、狼狽え、それでもどうしてか目を逸らすことができなかった。
そういえば彰紋の笑顔以外の表情を見たのはいつ以来ろうか。もう随分と昔のような気がしている。彼は何を思い、今までずっと笑顔を浮かべていたのだろう。
いつも、笑顔だけを。
不自然なまでに徹底した笑顔しか見ていなかったと気付いたところで、今更何も変わりはしないのに、綾の心は不自然にざわついている。
気付かなければよかったとさえ思ってしまっている。
「いいことを教えてあげようか」
彰紋は目を閉じる。
「僕を殺せば君の存在を喰らう者は誰もいないんだよ」
目を開いた彼の表情はどこまでも優しかった。満面の笑みを浮かべる彰紋。その姿が幼い頃の彼の姿と重なる。
あの時も『教える』なんて言って笑っていた。とても優しくて温かく、それでいてとても--悲しそうな笑顔で。
「彰紋は殺して欲しいの?」
あきふみ、と口の中でもう一度呟いた。ずっと意識していたのに名前を呼んだのは久し振りで唇が痙攣したようにわなわなと震えた。
どんなに逃げても必ず見つけ出して笑っていた。皮肉にも誰より一番近くにいた、幼い頃は仲が良かったかつての友人。だが今は違う。今更友人になんて戻れないし、そんな都合の良いことは許せるはずもない。
許すことなんて、できない。
彰紋はふっと息を吐き出した。
痛くないはずがない。相当な勢いでナイフを突き立てたのだ。それで笑っている方がおかしいのだ。
「僕もね、もうそろそろ終わりでいいと思うんだ。逃げられない連鎖を断ち切るなら、僕の命くらいは差し出さないと」
贖罪だよ、と彰紋はまたも笑う。
その笑顔はいつだって幸せそうで--いつだって泣き出しそうだった。
……本当は知っていた。
いつしかうまくなった作り笑いも、最初は拙いものだったことを。その目から悲しみの色が薄れることは決してなかったことを。全部全部知っていた。けれど認めたくなかったのだ。自分を不幸に陥れている彰紋が幸せでないと認めてしまったなら。一体自分は何の為に存在を喰われ続けているのかがわからなくなる。一体誰の為に自分は苦しみ続けているのか、わからなくなる。
(誰の『為』か)
ようやく思い至った胸の違和感の正体に、綾はあえて気が付かないふりをした。先へ進むには今ここで立ち止まることはできない。
綾は彰紋に向き直る。数年振りに正面から対峙した。どんなに追い掛けられても拒絶し続け、彰紋も綾自身をどうこうすることはなかった。だからもう、久しく向き合うこともなかった。
同じくらいだった背丈はもうとっくに彰紋の方が高く、互いに大人びた顔つきに浮かべる表情は対照的なそれ。
笑みと、憎悪。
それなのに、どちらの表情も内心とかけ離れていることに、綾は気が付いてしまった。悲しみを隠す笑顔と、それから……。
「じゃあ、終わりにしようか」
綾は床に転がるナイフを掬うように拾い上げて、強く強く握り締めた。
※
ふと目を開けると窓の外は真っ暗だった。
いつの間にか窓は閉められ、日が沈み闇に呑まれた外界とはガラスの壁で隔たれている。
重たい瞼をゆるゆると持ち上げ、後ろを振り返る。そこには変わらずに高遠がいた。彼はまだ眠っているようで、瞳は伏せられていた。
「ありがとう、高遠さん」
綾は小さく微笑んだ。彰紋を忘れることができず、一生囚われ続けるであろう自分を責めない優し過ぎる彼に、密かに感謝を告げる。
いつか彼が想いを伝えてくれたなら、その時は必ず受け止めてそれ以上を返そう。
窓から見える形の良い月にそっと祈りを捧げる。
どうか、この人が幸せでありますように、と。
※
微笑む彰紋の左胸に、両手で握ったナイフを突き刺す。音も、色も、一瞬わからなくなった。それくらい手だけに神経を集中させていて、だから彰紋が苦く笑う気配にも、すぐには気が付けなかった。
「思い切りが、良すぎるね」
ドサッ、と彰紋は背中から倒れ込んだ。腕に全体重を預けていた綾も一緒に倒れる。
両の手に伝わる彰紋の心音。それがひどく弱々しくて、綾は反射的にナイフを抜こうとしたが簡単には抜けない。力いっぱい引き抜くと、がはっ、と彰紋の口から赤黒い血が噴き出した。
「っ、で、も不合格、かな。……これじゃ、死ね、な……なあ」
振り絞るように言葉を紡ぐ彰紋の傍を離れ、綾は今の自分にできる最高の笑顔を作って見せた。
「これで、終わりだよ」
怪訝そうな顔をする彰紋が荒々しく呼吸する様を見て思い知る。やはり、彰紋には生きていて欲しい。たとえどれだけひどいことをされたのだとしても、彼が友人だった過去までは消えることはないのだから。
その為に自分が犠牲になることは、もうできないのだけれど。
「救急車を呼ぶから。もしも、万が一助かったら彰紋は……彰紋が、私を忘れて生きて」
彰紋の瞳が驚愕の色に染まる。
彼の凍てついた表情に動揺してしまわぬように、綾はポケットから取り出した携帯電話のボタンを素早く押し、現在地と彰紋の容態のみを伝え、すぐに切った。
あまりの潔さに呆れたような、諦めたような表情を見せる彰紋は右手で顔を押えて、笑った。
「愛してる、愛してた。……誰より一番」
その言葉に、迷ってしまいそうになる。このまま彰紋を放っておいていいのだろうか。
生きるか死ぬかは五分だろう。けれどたとえ生き残れたとして、彼が幸せになれるかどうかまではわからない。もしかしたら綾の代わりに別の誰かの存在を喰らわねばならなくなるのかもしれない。
綾は迷って、それでも歩き出した。
最後に一度だけ振り返り、とびきりの笑顔を見せて。
「私も多分、愛してた。今まで出会った誰よりも、これから出会うどんな人よりも。だから、さようならっ。どうか……幸せに」
歩き出した綾には彰紋の涙は見えなかった。
そして彰紋にも綾の涙が見えることはない。
お互いを愛し、愛され、それでも永遠にその道が交わることはない。いつか互いに幸せな人生を築いても、それでも一生囚われ続ける記憶。歪な関係。
存在を喰らって苦しめても傍にいることを望んだ少年と、存在を喰われながらも彼の幸せを願った少女。
相容れない互いの存在に、遠く離れてもきっとずっと、惹かれ続ける。
「それでも、僕は君を愛してる。会えなくても、傍にいられなくても。生涯ずっと、君を想って生きると誓うよ」
彰紋の消息をその後の綾が掴むことはない。
(終)