風邪
寝返りを打ったら、小さいジャック・オ・ランタンと目が合った。家族皆で作ったランタン。ベッド脇に飾ってあるのは夢乃が作ったものだ。
溜息をついた拍子に、咳き込んだ。喉が痛い。折角のハロウィンなのに、風邪を引いてしまった。
「パーティ、したかったわね……」
予定していたハロウィンパーティは駄目になってしまった。可愛いお化けの置物に目をやる。あの置物は知乃が一生懸命作っていた。
私もランタンを作ったし、知乃のお姫様の衣装も、夢乃の妖精の衣装も作った。夕食にはかぼちゃグラタンを作りたかった。デザートにはパンプキンパイも。
仕方がないことを考えながら、目を瞑る。早く風邪を治さないといけない。今日の仕事は休んでしまった。
誰もいない昼間に、部屋に取り残されていると寂しさが募る。楽しげなハロウィングッズに囲まれているから余計寂しい。風邪を引くと気弱になるものだ。寂しい気持ちが口からこぼれる。
「征士くん……」
呼んでしまうのは、最愛の夫の名前。征士くんは今日は仕事だ。私が風邪を引いたくらいで仕事は休めるものではない。だから返事に驚いた。
「はい。何でしょう? 月乃さん」
「え……?」
スーツ姿の征士くんがお盆を片手に立っていた。私はびっくりして上半身を起こす。どうして征士くんがいるのだろう。彼は悪戯っぽく笑った。
「月乃さんが心配だったので、早退してきました」
「…………」
さすがに唖然として言葉を失う。たかだか妻の風邪くらいで仕事を早退する夫がどこの世界にいるのか。
そんな私にお構いなしに征士くんは傍へ来た。身体を屈めて私の顔を覗きこむ。
「まだ熱があるみたいですね。でも少しは何か食べないとお薬も飲めません。食欲ないかもしれませんが、せめてこれだけでも……」
征士くんがお盆にのせていたのは、かぼちゃのポタージュスープだった。私は彼とスープを交互に見つめてしまった。
「僕が作ったので、月乃さんのように上手には出来ていませんが。だけど食べてください。そうしてお薬飲んで眠ってくださいね」
温かそうなポタージュスープを征士くんは匙ですくい、私に差し出す。……これは、もしや彼の手から食べろと言いたいのだろうか。
逡巡した後、私は思い切って征士くんが差し出したスープを飲んだ。
「……美味しい」
征士くんの手作りだというスープはとても美味しかった。また彼は匙ですくって私の口元へスープを運ぶ。今度は素直にすぐに口にした。
それからゆっくり、時間をかけて全てのスープを食べ切った。身体がスープの温度になる。薬を飲んで再び横になると、征士くんは私の手を握った。
「月乃さんが眠るまで僕が側にいますから、安心してください」
「うん……」
大きな手が私の手を包み込む。何とも言えない安堵感が胸いっぱいに広がった。私の熱のある手よりも低い体温の手。心地良い。征士くんを感じながら、私は眠りに落ちていった。
♦ ♦ ♦
次に目覚めた時は、すっかり日が暮れていた。薄暗い部屋の天井をぼんやり見上げる。手の温もりはなくなっていた。何故だか私の目から涙がこぼれた。
──いつから私はこんなに気が弱くなったのだろう。風邪くらいで泣くなんて情けない。
無言で涙を流していると、そっと布で顔を拭われた。
「泣かないでください……。僕がいますから」
「征士くん……」
いつの間にか征士くんが私の側に来て慰めてくれた。頭をそっと撫でられる。それだけで涙が止まった。この夫は私に優しい。
「ちーちゃんと夢ちゃんを着替えさせて、僕の実家に預けてきました。僕の実家でハロウィンパーティするそうです。だから月乃さんは、何も気にしないで休んでください」
征士くんは柔らかく微笑む。優しい微笑みに、止まったはずの涙がまた一つこぼれた。何も言わずに征士くんは涙を拭ってくれる。
「征士くんは優しいわね……。どこにも行かないで。私の側にいて」
私の我儘な発言に征士くんは笑って頷く。優しい……優しい。
「どこにも行きませんよ。月乃さんのいる場所が僕の居場所です。……ああ、熱が少し下がったようですね。おかゆは食べられますか?」
額に手を当てて私の熱を確かめている征士くん。彼の手の温度が私を落ち着かせる。少し冷たい征士くんの手が愛しい。
「おかゆ……。そうね、ちょっとだけなら食べられるかも」
「じゃあ、今持ってきますね」
征士くんはすぐにおかゆを持ってきてくれた。また匙ですくって私に差し出す。これも征士くんの手作りだろうか。塩味の卵入りのおかゆは美味しい。
「味付けは大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。美味しいわ」
卵のおかゆはそんなに量がなかった。でもこのくらいがちょうど良い。食後に薬を飲むと、征士くんはまた手を握った。
「今日はずっとこのままでいますから。月乃さんから離れませんから」
どこまでも甘やかしてくれる夫に嬉しくなる。私は手を握り返して囁いた。
「本当に離れないでね。……大好きよ」
「絶対離れません。僕も月乃さんのことが大好きです」
大好きな征士くん。いつまでも離れないでね。願いをこめて笑いかけると笑い返してくれる。綺麗な見惚れる笑顔はずっと離れないで欲しい。手を繋いだまま、私達はそのまま眠った。
♦ ♦ ♦
明るい日差しに目を覚ます。時計を見ると朝になっていた。ふと隣を見ると、征士くんが私を見ていた。
「具合はどうですか?」
私は自分の身体を確かめる。多少だるさは残っているけれど、熱は下がったようだ。喉の痛みもない。
「う、ん。大丈夫みたい……」
寝起きだからだろうか、掠れ声になってしまった。そんな私の声に征士くんは心配そうだ。
「あんまり大丈夫ではなさそうですね。今日も仕事は休んでください。僕も休みなので、看病します」
約束通り手を握ったまま、征士くんはそう言った。過保護な夫に笑みが浮かぶ。
今日も征士くんは私につきっきりでいてくれた。弱っている身体と心。人の体温を身近で感じていられるのはほっとする。優しい笑顔と言葉にほっとする。
「征士くんが優しい夫で良かったわ」
心からそう言うと、征士くんは苦笑した。
「月乃さんも優しいですよ。僕は月乃さんの優しさを見習っただけです。僕が特別優しくしたくなるのは、月乃さんだけですけどね」
「あら。すごく嬉しいわ」
ベッドに横になったまま、その日も終わった。夜には風邪も全快したようだ。征士くんがいてくれたおかげだ。
「お父様、お母様!」
知乃と夢乃が部屋に駆け込んできた。服装はお姫様と妖精。ハロウィンは終わったのに、どうして着ているのだろう。
「お母様、もう大丈夫ですか?」
「作ってもらったので、お母様に見て欲しくて着てきました」
一日遅れのハロウィンの仮装でも、見ていて楽しい。可愛くて優しい娘達にお礼を言う。
「征士くんのおかげで風邪は治ったわ。似合っているわね、お姫様と妖精の格好。見せてくれてありがとう」
家族皆で笑い合う。優しい征士くんと娘達に感謝する。
いつまでもこの家族の絆はなくならないで欲しい。部屋のハロウィン飾りにそう祈った。
ジャック・オ・ランタンを手にすると、征士くんが手を重ねてきた。征士くんの手の温度に、心が温まる。
そんな私達を、お姫様と妖精はにこにこ見守っていてくれた。
永遠に優しい家族でいられますように。祈りが通じれば良い。
手に取ったジャック・オ・ランタンは、私の心の願いを聞いたように笑い顔のままだった。
特別編8話目ハロウィン……風邪のお話です。最近風邪を引いて二週間寝込みました。風邪を引くと気が弱くなりますね。家族の温かさが嬉しかったです。
ここまで御覧いただき、ありがとうございました!