金蘭の契り(六)
美里の母・紗江は後妻であったのだった。ただ、美里にその記憶はない。生母は美里を産んですぐに亡くなった。紗江を斎藤家に嫁がせるさい、日高はずいぶんと申し出を渋った。なにせ初婚が後添えで、倉名は京よりもさらに西である。くわえて先方には、まだ物心もつかぬ子がある。しかし紗江のうえには兄姉が四人もあった。日高は斎藤家にとって分家のさらに遠縁あたる江戸の商家であったが、娘たちの嫁ぎ先に少々悩んでいたこともまた事実だった。
当の紗江は、娘ができるということにかえって喜んだ。末の妹であった紗江は、常々、下に世話のできるきょうだいが欲しかったのである。かくして紗江の楽天的な気質が両家にさいわいし、縁組みの運びとなった。
斎藤四之助は、何事にも度を失うということはないひとで、紗江は夫の酔った姿を見たことも、怒鳴る声を聞いたことも、喜色で破顔した面持ちにであったこともなかった。しかし紗江の、美里のかわいがりようはたいへんなものであり、四之助をして意外の感を抱かせるほであった。
そして跡取りが平吉になってからも、大店の呉服問屋である日高家から斎藤家へ、さまざまな付け届けがなされた。紗江を不憫におもってのことであったろう。
紗江は献上される綾な反物や帯を身につけ、商家にいたころとさほどかわらずに過ごした。
「おかあさま、あやかしのおはなしをしてくださりませ」
美里はよくそう母にせがんだ。伯父の平吉が妹へ送る付け届けには、反物だけでなく江戸で流行りの玩具や、草紙、歌舞伎絵もあった。まだ読み書きの満足でない美里へ、紗江は草紙を語ってやった。
「泥のあやかしは、夜な夜な田んぼへ出で“田を返せ、田を返せ”とののしります。ほら、こんなふうに」
紗江は、顔に片目しかない、指が三本で、身体の上半分だけを田んぼから出して叫んでいるような格好のあやかしの絵を、美里へみせた。美里は、怖がったり歓んだりでいそがしい。
「どうして、あやかしは田を返せというのですか?」
「せっかく翁が息子のために田んぼを買ったのに、翁が亡くなっても息子はお酒をのんでばかりでぜんぜん働かないのです。それどころか、田んぼをひとに売ってしまって。だから夜になってあやかしが現れて、田を返せというのですよ」
「泥のあやかしは、翁なのですか?」
「わたくしは、そう思いますよ。悪いことをすると、あやかしに化けてそのひとを怒りにくるの」
「お酒をのんでばかりで働かないのは、わるいことなのですか?」
紗江はそれを聞くと、しばし目を瞬かせた。そしていたずらげに微笑んだ。
「あんまりにもなまけてしまうのは、きっといけないことですよ。でもおかあさまは、泥のあやかしに追いかけられてみたいとおもいます」
美里は目をまんまるくした。
「どうしてですか? おかあさまは、わるいことをなさったのですか?」
「いいえ。でも、あやかしとおにごっこがしてみたいのです」
「あやかしにつかまったら、どうなるのですか? おかあさま、食べられてしまう?」
美里は泣きそうになって、母のうつくしい着物の袖へとり縋った。
「ふふ。おかあさまは、あやかしと仲直りをします」
「……なかなおり、ですか?」
「ちゃんと田んぼをたがやしますから、ゆるしてくださいと言います」
「あやかしは、そう言ったらわかってくれるのですか?」
「あやかしは田んぼをきちんとたがやさないから、きっと怒るのです。だから、おかあさまは謝ります。そしてまた田んぼをたがやして、そうして……」
「そうして?」
紗江は、ゆっくりと目を瞬いて、夢みるように美里へ言った。
「たがやすことが面倒になったら、お酒をのんで、働きません。そうしてまたあやかしに出てきてもらうのです」
美里はしばし、呆気にとられた。
「おかあさまは、また泥のあやかしとおにごっこをするのですか?」
母はにっこりとうなづいた。
「おにごっこは、たのしい遊びなのですよ」
この母の、なんと無邪気なことか。幼い美里にそのとまどいと母の妙なるさまは、言葉にできようはずがなかったが、美里は悦びのあまり母の膝に顔をすりよせ、いつまでもくすくすと笑っていたのである。
*
同じ家にあって、親と子、きょうだいのそれぞれの血が繋がっていないことは武家ではめずらしいことではない。ゆえにそれは、なにかの話の節に、不意にまぎれこんだ。当の母から、なんの悪気もなく美里は聞かされた。両親ともに隠していたわけではなかった。
“あなたをお生みになったお母さまが……”
美里の心は打ち砕かれたのである。