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習作もの  作者: もぃもぃ
【金蘭の契り】前篇
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金蘭の契り(五)





 緩やかで低い山々が連なり、陸地の東から流れる大川は、三つの藩を縦断し、三藩のもっとも下部に位置する倉名(くらな)藩城の東側をとおり、やがて南西の内海へゆったりと入る。

 冬であっても城下に雪は滅多に降らない。江戸勤番の藩士が、はじめて江戸の冬を経験するときには、泣き言を上役や家族へ文に書いてよこすのが藩の通例であるほどであった。

 山と田畑のあいだを悠々と流れる川を、すこし高台へ登れば眺めることができる。獲物をみつけたのか、隼が羽をうしろに引き急降下で地へ向かっていくのがみえた。

 青みがかった濃い灰色の翼をおおきく広げたときは、獲物を捕らえる瞬間である。足の爪をひと掻きすれば、哀れな獲物の命運はけっする。海岸で獲物を狩るとき、隼の体当たりした獲物が海面に叩きつけられ、凄まじい音が鳴る。動きはあまりにも速い。



「お嬢さま、もう帰りましょう」


 隼は物陰に隠れ、辛抱づよく獲物を待つ。美里も同じであった。おおきな黒い眸が、じっと己をみつめるときがある。美里はその(かん)、ただ息を呑む。


「あと、もうすこし」


 美里はいう。

 そう、あと少しのあいだである。隼の雛は、生まれてからひと月かふた月ほどで成鳥する。ふわふわとした白い羽毛も、間もなく親鳥と変わらぬ色となるだろう。入梅のころには、すっかり独り立ちした子は、親と同じように滑空する。


「奥方さまが、心配なさいます」



 下女が呼んだ。

 美里は片手をついていた幹から手を離した。

 隼のあの黒い、まるいおおきな目は、おかあさまのようだ。あの目にみつめられると、美里はとまどい、怖れのような思いをいだく。おかあさまがとても恋しいのに、美里は不安になる。

 雛が親鳥の懐で団子になって鳴いている。そのあたたかな――血の繋がりとでもいうべきものを、美里はみつめずにはいられない。隼のおおきな、水をふくんだような黒い目は、愛らしく、けれども手が届かない。

 下女がふたたび美里に呼びかけた。親鳥が甲高く鳴いた。

 




「美里さん、おじさまがお越しですよ」


 気落ちしたまま屋敷へ帰りつくと、母・紗江の客人であるおじさまが来ていた。美里の顔にたちまち歓びがのぼったのである。


「おじさま!」

「お嬢さま、お健やかでいらっしゃいましたか」


 庭に面した客間へ駆けこみ、はい、と答えようとして美里ははっとした。彼女の頭に浮かんだのは、山で転んだために台なしにした淡紅色の袷と躑躅を刺繍した綸子の帯であった。母の縁者であるこのおじさまは、江戸の商人であり、斎藤家へ付け届けというかたちで、紗江や美里へたびたび反物や菓子などを贈ってくれていた。件の袷と帯も、仕立てたものを、このおじさまから戴いたのであった。


「斎藤さま――、あなたのお父上へ、江戸で評判の人形浄瑠璃の話をしましたら、お殿様のお耳へ届いたらしいのですな。一座を引き連れてぜひとも倉名へ参られよとの仰せで…………、お嬢さま。いかがされましたか」


 

 斎藤家は、藩の普請奉行ふしんぶぎょうをつとめる中級藩士の家柄であり、江戸の呉服問屋の主・日高平吉とは、当主・斎藤四之助しのすけの妻・紗江をとおして懇意にしていた。四之助が江戸へ赴いたおりに、人形浄瑠璃一座の得意先であった平吉が、一座の話をし、芝居を観せたことを四之助が藩主へ話したのであった。倉名藩主・久世宜則(のぶのり)は大層な芝居好きで、江戸滞在のさいには下屋敷へ歌舞伎役者や長唄奏者などを呼び、江戸勤番の藩士や屋敷の人間、近隣の町人なども招いて興行を披露させたのであった。

 平吉は、付け届けとともに、江戸で流行りの芝居や食のこと、市中を騒がせた事件を子細に文で知らせてくれる。美里はそれを母から聞くのをいつも楽しみにしていた。そしておじさまの今日の来訪を、数日前まで心待ちにしていたのであった。

 その美里が、いまは青ざめた(かお)をしているのである。



「おじさま…………。ごめんなさい……。おじさまがくださった着物と帯をよごしてしまったのです」



 母とよく似た、おじさまの黒くまるい目を、美里はしっかりと見ることができない。しかし、紗江から事情をきいていた平吉は、にっこりと笑って言った。


「着物と帯はほどいて洗いましょう。汚れが落ちきらずとも、仕立て直しで隠せるやもしれませぬ。要は、工夫が大事ということですよ」


 美里は、洗い張りというものをほとんど知らなかった。着物は季節ごとにほどいて洗い、季節にあわせて裏を付けたり綿を詰めたりするものであったが、美里と紗江にはこの呉服商のおじさまがいた。着物には生涯困らないほど反物があったのである。



「ほ、ほんとうですか」



 座ることも忘れて立ち尽くす美里を、義理の姪を、平吉は憐れみ、あるいは慈しんだ。


「お嬢さま。お話はお母上から聞いていますよ。母上は、あなたに怪我がなくてよかったと仰せでしたよ」


 その幼いむすめは、己の母がたいそう好きであった。たおやかな笑みと、やさしくやわらかい手と、うつくしい着物と、黒くまるい、水をふくんだようなおおきな目が、己のすべて、天地万有と等しい。

 足袋が廊下を擦る音がして、紗江が顔を覗かせた。


「兄上、美里さんにあたらしい御伽草子(おとぎぞうし)を持ってきてくださった?」



 青く若い風が、客間にとおった。

 美里は涙が零れそうになって、真一文字に口を結んだ。

 このかなしみの思いに、決着はつくのであろうか。








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