金蘭の契り(二)
「まあまあ、だからそんなに泥だらけでいらっしゃるのね。桐之さまも美里さんもお二人そろって」
斎藤家の妻女・紗江は、花のような容でころころと笑いをたてた。
裏庭へ通じる居間の縁にゆったりと腰かけ、水で湿らせた手巾で己がむすめ、美里の顔を女中が拭くのをそのきらきらとした眸へ映していた。
紗江の袷は卯の花色に、萌黄地の帯は杜若の刺繍がある。己が子の顔をみやる所作だけであっても彼女はうつくかった。むすめとはまたちがったしっとりした面持ちでありながら、笑みこぼすさまは存外くっきりとしており、それは年頃の女といっても差し支えないものであった。
紗江は悄然とうつむく娘と、その傍らでおろおろと目をさまよわせる桐之に好奇心かがやく眸で事の次第をたずねていた。
隼の雛をみに行ったはいいが、桐之の態度に機嫌を損ねた美里が早々に帰ろうとした。
が、早足のあまり木の根に足を引っかけた美里が転んでしまったのだ。地面が吸いきれなかったここ数日の雨によってできた水たまりに。
「きりのはどこも痛くはありませぬ。みりどのは……」
そう逡巡した桐之は、まず自身の袴の派手な汚れに目をやり、ついで隣でしょんぼりしている美里へ、傍目にもわかるほど冷や汗をかいた顔でみやった。彼女の華やかな袷も帯も、前面は見るも無残なありさまだったからだ。
紗江は、美里を助け起こそうとしてついでに転んだという桐之にしっとりとした面持ちで微笑んだ。
「桐之さまはお怪我はしていらっしゃいませんのね。それはようございました。ほんとうに、井戸でお二人をみたときには、泥のあやかしにでも追いかけられたのかとびっくりいたしましたよ」
「泥のあやかし……ですか?」
「桐之さまははじめてお聞きになりますか? 田んぼにあらわれる泥のあやかしでございますよ、そういう草紙がございますの」
と、美里が咽び泣きはじめた。驚いたのは桐之である。横にひろい目を限界まで見開き、ただただ大泣きする美里を見つめるばかりである。彼にできたのは、美里が泣き出したとき、身体をまっすぐ彼女に向けることくらいであった。
なにがそんなにかなしいのか、聞いているこちらが胸を痛めるような泣き声であった。
おかあさま、ごめんなさい、ごめんなさい、とふっくらとした頬を真っ赤にして大粒の涙をぼとぼととこぼして、わんわんと泣いた。
「みりどの、みりどの。泣かないでくだされ。みりどの……」
あまりにかなしい声で、うつくしい様相の少女が泣くものであるから、桐之はこれ以上ないほどいたたまれなかった。
しかし当の少女には桐之の必死の慰めなど、自身の泣き声に消されて耳に届きはしなかった。
「はやぶさの雛が、雨があがったらきっと巣からでてくるとおもって……」
――――だから誘ったのに、とは言うことができなかった。
桐之にはなにがいけなかったのか、理解できなかった。
次に晴れたら雛を見にいくと約束をしていたことは果たそうとしたし、音をたてると親鳥にきづかれ暴れられて鑑賞どころではなくなるという危惧もあった。なにより、彼は美里と雛を見にいくのを楽しみにしていたから。
「美里さん、桐之さまが困っているわ。ほうら、おめめをそんなに腫らして……。おかあさまなら、だいじょうぶだから」
紗江がゆったりと居間の縁から、美里に、こちらへおいでなさい、と声をかけた。
美里は一瞬、ぴったりと泣きやんだ。母のたおやかな微笑みを、茫然自失の態でみている。
と、みるみるおおきな眸に涙があふれ、口はぶるぶるとふるえ出した。これ以上泣くまいと、いや、声を出すまいと必死で唇を引き結ぼうとしている。
「あなたにお怪我がなくてよかったわ。美里さん、痛いところはなあい? おかあさまに教えてくださるかしら?」
桐之は、またも一瞬のうちに表情をなくした美里に、心を硬直させた。
この世のかなしみをすべてあつめとったような眸だった。ぽたり、ぽたりと真っ直ぐに地面に落ちてゆく雫は、彼女のあまりあるかなしみの証だった。だが、幼い桐之にそれがわかろうはずがなかった。
ただ、美里のうつくしい着物についた泥に、言いようのないさみしさを思った。
*
空ばかりは、からりとして澄んだ皐月の青であった。屋敷を囲う土塀のそばをとぼとぼと歩いていると、門中からいやに威勢のよい声が聞こえてきた。
屋敷には、桜や柿の木が塀を越して植わっている。この時期の桜の木にはあまり登りたくないと思う桐之であったが、物頭である藤間甚衛門の子息、藤間周吾など、桐之の屋敷に遊びにやってきてはなにを躊躇うこともなく登っていく。
彼の屋敷には桜は植わっていないから、というのがその理由であるらしいが、屈託のない明るさと朗らかさで、周吾を咎めるものなどいなかった。
木々も塀も飛び越えて、やあ、だとか、たあ、だとか言いながら草履が地面を擦るかわいた音が複数する。
カァン、と何かと何かがぶつかり、歓声がおこった。おおい、もっと左を突け、つぎは右ががら空きだぞ――――などと、囃したてる声が、桐之の頭上から降ってきた。
疑問をおぼえる間もなく、「よう、きりの」と桜の幹に手をつき、太い枝に裸足で立つ幼なじみの屈託のない笑顔に、桐之は出合った。