曇った月
同僚の早瀬志貴が泣き出しそうな顔で休憩室に飛び込んできたのは、闇が月をおおうような夜のことだったように彼は思う。息を切らし、目の淵を赤く染める姿に、知らず腰を上げていた。
どうした、と特段の覚悟も心構えもないにもかかわらず険を鋭くして問うたのは、女をそれ以前から好いていたからだとごく自然に理解したからだ。同僚のただならぬ様子に、女に対する距離を受け身ではなく多少強引であっても攻めていきたいという能動的な衝動が一瞬のうちに総身を駆け抜けた。おそらく覚悟や心構えなど、女を目で追うようになって以来とうにもっていたのだろう、ひとえに発露する機会がそのときだったというだけだ。
吉川、おかしいの、辻褄が合わない。辻褄が合うのに前から合っていないと、そう訴える当人の正気を質したくなる発言を同僚は繰り返していた。
早瀬、と険しい表情を自覚しながら同僚をさえぎった。だが、高い位置でくくられた真っ直ぐな黒髪や、どこか縋るような眸、鼻梁につづくゆるくひらいた紅い唇。黒のスーツジャケットからのぞく襟のないクリーム色のブラウス、ごく淡いゴールドのネックレスにかかる鎖骨、上着と同色のタイトなスカートのくびれ、そこからつづく滑らかな脚、ベージュのパンプス……と、そのときの状況も忘れて彼は同僚の女に目を奪われた。
風も音もない、なにもかもが停滞したような奇妙な夜だった。
そしてそれは、いま相対している男にさぞ相応しい夜だろうと。けれど男はそれを裏切っている。嘲笑うかのような表情を浮かべた男が自分の目に映るのは、この夜の不気味なほど煌々と照る月のせいだったから。
射るように自分は目の前の男を睨んでいることだろうと、しかも当然それを男も感じているであろうに、男は一向にこちらを見ない。男の目は、正面にいる女に注がれている。あのとき高い位置でくくられていた髪は今は肩にかからない程度になっている。だがそれ以外はあの夜と同じだと女の横顔を見つめて漠然と彼は思った。
男が相対しているのは自分ではない。女だ。女もまた、男を睨んでいた。けれどそれは吉川のような敵意をこめたものではない。震えそうになる己を叱咤する虚勢のものだ。
吉川の目には、男にもそれが判然としていると映った。男は目の前の女を嘲弄することを己が悦楽としているのを隠そうとするさまもなかったからであるし、男が真実相対するのが女だったからだ。
その事実は余計に彼を苛立たせた。判っていたから。女を、早瀬志貴を正気とは思えぬ長い時間、狂気としか言いようのない方法で男は縛っていたことを。それどころか明かされた真実は、いつ明けるとも知れぬ夜を女が越えていかねばならぬことを彼と女に突きつけていたから。
貴様はこれを超えてゆけるのかと、男が彼を流し見た。これ以上の愛し方を、貴様は示していけるのかと。
志貴、と男が言った。
月を見ろと。
女の横顔が吉川の視界から消え、代わりに肩に届かぬ髪がさらりと彼の目に揺れた。
月は不気味なほど煌々と照っていた。
男は心底おかしそうに口の端をゆがめた。
胸がすくほど、今夜の月は奇麗だなと男は女に言った。
それはこのうえない裏切りだと、吉川は思った。