金蘭の契り(二)
だれかを思いやって剣をふるうのならば、それはあるいは人の道といえるかもしれない。桐之は折りにふれてこの言葉を思い出す。そしていま、相対する仇敵ともいえる男へ。
いつの間にか、心に根ざし、どれほどの時の移ろいがあったのか、そのなかで、どれほど薫り、咲かせたものであったのか、ふたりでそれをどれほど語りあったものであったのか。今はもう、遠くなったあのひとへ。
『そなたは、ひとをいたわったことがあるか?』
「…………美里どの」
桐之は、かたく剣の柄を握った。
*
物憂げな美里の横顔へ、雨はこまかく差した。以前からの懸案がいよいよまことのこととなってしまったのであった。
心のありようは行きつ戻りつする。草履の爪先を踏みだそうか踏みだすまいか、なにごとも感じず、ただ繰る季節を眺めてだけいればよいか。
引き合わされたときのことは、もう朧気である。三年ほど前だった、斎藤と昵懇の黒田家の祝言の場においてである。三三九度の盃事、雄蝶雌蝶の長柄の酌をもち、新田卯松とともに新郎新婦の杯に酒を注いだ。
朱塗りの盃に、橙の灯火がやわらかく映え、花嫁の楚々とした白無垢は淡く場にとける。
ぼんぼりと、お雛さま。
桃の節句を思いだす。桐之と、藤間周吾と、隣近所の女の子とがあつまって、年ごとに。
ちいさいぼんぼり、内裏雛、三色菱餅、霰に桃花、杏の香……。藤色に蝶の袷と錦織の帯を締めたうつくしい母、今年も隼の雛をみにゆきましょうと、児戯に語らうふたつの影。面影は、ぼんぼりに照らされた新郎新婦へあい重なる。だが、とおい戯れを鋭くさえぎる眼差しがあった。
そうであると、父母からはっきりと告げられたわけではなかった。提子役の新田卯松どのだと、式のまえに顔合わせで呼ばれただけのことではあった。知らぬ者同士のわけでもなし、改めて言われるまでもない。
武家屋敷の連なる通りは、いま、まるでひと気がない。築地塀の軒下から、美里は草履の爪先を行きつ戻りつさせていた。父が出仕の帰りにここを通るはずだ、傘に入れてもらおうか、濡れたとて、いかほどのこともあるまいか……。美里はぐずぐずとそこを去りかねていた。
土を踏む草履の音が立った。紺桔梗の袷に浅葱鼠の袴は、その匂いたつような才気にふさわしい。癇のつよそうな目元を引き結ぶようである。
美里は、その端然とした姿に息を呑んだ。
「新田さま」
藩校の同年で、藤間周吾と首席をあらそうと聞こえのよいひとだ。当人たちからでなく、母紗江が、おっとりと美里へ伝える。母には、たしかな意図なぞおよそないであろう。どこからか種が飛んだものか、盛りをすぎた足元の桔梗が、しっとりと雨を吸う。卯松の差す番傘にも雫がながれた。
「茶稽古の帰りか」
鋭く、斬り込むような眼差しである。卯松は、美里のもつ茶道具の包みを一瞥した。茶稽古の帰りに茶菓子をたずさえ、美里が桐之の家へ寄らなくなってから久しい。訊いてはならぬという分別は、むすめにもあった。桐之の口から新田卯松の名を聞いたことなど皆無にひとしい。
「あの、桐さまは……、三好さまはお元気なのですか」
瞬間、新田の目に火のごとく怒りが奔った。
「知りたいですか。よりによってこの俺から」
これほど体つきのおおきなひとであったろうか、と美里は身を強ばらせた。提子役をになった翌年の年始の挨拶に、卯松を伴って新田家が訪れるようになった。ふたりきりで言葉を交わすことこそないものの、美里はおよそ気詰まりなおもいであった。
『新田卯松が、なぜだか桐之を目の敵にしているらしく……。昔からいやにあいつに絡むのですよ。道場の師範にも再三お叱りを受けているというのに、やめない』
周吾がこぼした話だ。
『新田はできるやつなのになあ。粗暴でさえなければ、桐之は見習ってもいいくらいなのに』
時節の挨拶に菓子をたずさえて、美里は新田家へ訪れるようにと、これは今年の年頭に母から頼まれた。そのときの対応ははじめこそ卯松の母であったが、二度目三度目と卯松であった。
なにかおおきな決め事が果たされたのではあるまいか、果たすまでもないものの、その運びであるのではないか。判然としないなにかしらの揺らぎの、その兆しというようなあまりにも朧気なものは、霧雨かのようにしとしとと美里へ寄せ、返す。
そして十日ほど前、その心積もりでいるようにと父から告げられた。まだ先のことでそう近い話ではない、確約したわけでもない、先方がしかるべく出仕する折りを見計らってと、訥々と父は述べた。
桐之の、はにかむ顔が浮かんだ。
『美里どの、ことしも隼の雛をみにゆきましょう』




