金蘭の契り(一)
仁遠からんや。我仁を欲すれば斯ち仁至る。
*
高台にある寺の境内から、一心に空をみあげているむすめを、周吾はみとめた。
「やあ、美里どの。茶稽古の帰りですか」
ぱっとふり向いたむすめは、島田に結った髪がいまだ初々しい。白藍地に手鞠紋様の小紋と生成りの帯を締めた姿は、入梅の時分にあって爽やかである。茶道具が入ったらしき風呂敷包みが、むすめの傍にある腰掛けに置かれてあった。
「周吾さま」
「もしや隼ですか」
美里はうなづいて空を指さした。二羽の幼鳥がたがいに足をかけ合い、高い鳴き声を叫びながら、くるくると飛翔している。
「あれは……雛ですか?」
「もう巣立ちしたんですのよ、七日くらい経ちましてよ」
周吾は小手を翳した。田植えは済み、稲はさやさやと風に揺れる。その上空を、隼は旋回する。灰とも茶とも黒銀ともとれる羽色と、首と腹の白がまだらに絡んでいる。
「雛同士で獲物を狩る練習をしているのですね」
そのやや覚束ないさまは、道場での幼き門下生たちをおもわせ、周吾の顔は綻んだ。
すると美里が断固として言い返した。
「もう雛ではありませんわ、巣立ちしたのですわ、美里はいまそう申しましたわ、周吾さま」
「あっ。これは失敬!」
周吾は頭をかきながら、いささか眼光の鋭い美里へ謝った。ふたりは向かいあい、見つめあうことしばし、同時に笑いだした。
「周吾さま、ご免なさい。わたくし意地みたく言ってしまって」
「いえ、いえ。ふふふ」周吾はなお笑いながら首を振った。「では桐之はこのあと来ますか?」
周吾は辺りをみまわした。隼の雛の成長をみまもるときは、ふたりはたいてい一緒であった。たちまち、美里の顔は悲しみをまとった。美里はちいさく首を振った。その動きに劣らずちいさく、今年は一緒に雛をみていませんのと言った。
周吾は驚いた。
「えっ、どうしてです。喧嘩でもしたのですか」
美里はまた首を振った。周吾がなお驚いたことには、ふたりは美里の屋敷でひらかれた桃の節句の祝い以来、ほとんど顔を合わせていなかったのだ。
言われてみれば思いあたる節はあった。美里のことも隼の雛のことも、近ごろ桐之の口から聞いたことはなかった。
「桐さま、元気でいらっしゃいますか? 学問や剣のお稽古はつつがないんですの?」
「いや、元気というよりもあれは、」
がむしゃらといえた。じっさい剣を振るい、書を読んでもすこしも見当がついていない。
「今までのようにはもう会えないと、桐さま、とつぜんおっしゃったの。桃の節句ももうあれきりにしますと言って、剣や学問の習いにもっと励まなければいけないからって…………」
美里は悄然としていた。周吾は頭を掻きかき、ため息を吐いた。「あいつはおれを困らせることにかけては人一倍だな」
「………美里どの。たしかに桐之はいまちっとも穏やかじゃありません。屋敷裏の神社で一日じゅう剣の素振りをしているし、かとおもえば漢籍をひたすら頭に詰めこもうとしているようだし」
「桐さま、そうなんですの」
「どうにも妙だなあ。べつに、いきなりそうなったというわけではなさそうだけれど」
「新年のあたりから、ご様子がおかしかったかもしれません」
美里は胸のまえで手を組みあわせた。彼女は風呂敷包みに目をやり、「わたくしのお茶稽古の日は、いつも余分にお茶菓子を戴くんですの。だから桐さまにもお裾分けを申しにお屋敷へまいっていましたの。でもお訪ねしても、桐さま、いらっしゃらないことがたびたびあって……。お忙しいのかとおもっていたのです。そうしたら桃の節句には周吾さまもご一緒に屋敷へ来てくださいましたでしょう、でも、もうこのようにして会うことはできないし、今年からは隼の雛を見にいくこともやめますと」
「なんてことだ……」
周吾は額に手を当てた。
「周吾さま、桐さまはどうされたのでしょう」
ひときわ甲高い声が鳴いて、幼鳥が縺れあった。親鳥が鋭い爪にしとめた獲物をかかえ、二羽のまわりをぐるりと舞った。一羽がそれを追いかける。
親鳥は高くたかく飛翔してゆく。子は鳴いて一所懸命、親へ飛び寄る。親鳥はますます高く飛び、子を誘う。
「……まぶしい…………」
美里は目を細めて、ふと思い立ったように「わたくしも周吾さまの真似をいたしますわ」と小手を翳した。周吾は首をかしげた。
「おれの真似、ですか?」
「桐さまも、お母さまも、こんなふうにはなさいませんもの」
美里はちいさく笑った。
「……? 桐之はともかく、お母君とは?」
「だって母上は、とても可愛らしい方ですもの」
親鳥は掴んでいた獲物を仰向けて子へ渡した。親子はもう随分と高く飛んでいた。
*
「やっぱり今日もここにいたな、桐之」
息を切らせて顔をあげた桐之は、返事もせず陰気な面持ちを相手へ向けた。地面へ放った木刀がカラリと音をたてた。
「手が血だらけじゃないか」
周吾は呆れた。実のところ、桐之の体面を慮って美里へは告げなかったのだが、剣道において桐之はこの一年まったく昇級していなかった。桐之は年を経るごとに、ゆっくりとだが、焦燥を濃くしているようだった。周吾も、同輩の新田卯松もいずれは剣道の師範から折紙をもらえるであろう。桐之にはその見当もなかった。
「桐之、手が治るまでは練習は師範に禁じられていたんじゃなかったのか」
桐之の掌は、豆がつぶれて血が滲んでいた。
「…………うまくできないんだ。師範は稽古に来るなと言うけれど、そのわけもなんだかよくわからないことをおっしゃるし……」
「よくわからないことって?」
桐之は木のそばに座りこんで、顔を両膝に埋めた。
――――桐之、わたしは人生とは求道であるとおもっているよ。仁の道を求めつづけて、剣術にもその答えがあるのではないかと。だから剣道をつづけているのだ。
…………剣は、人を殺めもするのにですか?
周吾も桐之の隣に腰をおろした。
「……美里どのがあんたのことを心配していたぞ。それに、あんたの変化に戸惑っておられたようだぞ」
「美里どのに会ったの?」
「気晴らしにふらついていたら、偶然にも寺でな。隼の親子をみておられた」
「そう…………」
桐之は上げた面を、また膝に戻した。
「すこし前に、師範に申しあげたんだ。剣がもっと上達するようにこれからはもっときちんとしますと」
「もっときちんとって、なんだ?」
「稽古をたくさんして、漢籍も読んで、剣道のことをもっときちんと習うと。友だちと遊びに出ることもやめますと。でも師範は困った顔をされたんだ。それから……、なんだかわからないことをおっしゃった」
『今はそれでよいのかもしれないよ、桐之。だがそなたは、ひとをいたわったことがあるか?』




