金蘭の契り(七)
「あーあ……。これはまた派手に……、割れちまったなあ……」
大人びた口調でこぼしたのは、藤間周吾である。
磨きあげられた床の間に、水たまりが広がっていく。花瓶のおおきな破片が、赤子がむずがるように、ごろりごろりと首を左右に振っていた。活けてあった菖蒲が、黒光りした床板に、目にも鮮やかである。飛んだ木刀が床の間の壁にゆるく跳ね返って、静まりかえる道場の床に大儀そうに落ちた。
「桐之、なんと言えばいいやら…………」
ほとほと困ったという態で、周吾は頭をかいた。
桐之は蒼白になって、言葉も出ないまま周吾をふり返った。
「しゅうご…………」
「うん」
「われ……、割れたよ」
「うん」
踏みこんで刀を斬り結び、競りあい、間合いをとり、もう一度相手へ斬りかかろうとしたとき、木刀が手から滑り、すさまじい勢いで後方へ回転しながら床の間の上段にあった花瓶へ直撃した。道場に充ちていた喧騒を突き破るほどの音であった。
「これが真剣だったら、相手はやられていたんじゃないか?」
なにもこんなときに、と桐之は思う。
こんなときに、いつも以上の力が出ることはないではないか。踏みこみは上々だった。ふり上げた勢いは、一気呵成に相手を討ちとるものにおもえた。だが手は滑った。それも後ろへ。
「それは……、いいことなの?」
藤間周吾はつとめて明るく桐之を慰めようとしていたが、桐之の助けにはならなかった。
「…………討ちたい相手がいたなら」
「そんな相手なんかいないよ」
「いまは、おれが相手だったろう?」
「…………周吾はなにが言いたいの?」
とりあえず片付けよう、と周吾が口にしたとき「鈍くせぇやつが、またやりやがったかあ?」と割ってはいる声があった。
「…………新田」
周吾はあからさまに厭そうな顔をした。袴に脇差姿の新田卯松はそれに気づくか気づかないか、いつものごとく標的を桐之へ定めこちらへ向かってきた。
「三好よぉ。おまえ、あれ、どうするんだ?」
卯松は顎をしゃくって床の間を指した。
「どうするって……、謝るよ。師範に」
「どう謝るんだよ」
「どうって…………。木刀がすべって花瓶にあたってしまいましたと、頭を下げるよ」
「頭を下げる? それだけか?」
桐之は新田卯松が意味することをとれず、当惑した。卯松は薄ら笑いを浮かべていたが、それはとても年相応といえる振る舞いではなかった。
「あれがさあ、師範がことさら大事にしているものだったら、どうするんだ?」
「そんな…………。わからない。師範にお聞きしないと」
「目上の人のものを壊したんだぜ? わからないで済むかよ?」
卯松は桐之にしつこく絡んだ。卯松が剣術の稽古に道場をおとずれるのは、だいたいが昼の部からで、それを避けて桐之と周吾は朝の部へくるのが常だった。今日も早朝から道場へきて、師範が稽古をつける刻限まで門下生同士で練習をしていたのだった。
「おい、新田。もうよせよ。だいたい、桐之が花瓶を割ったことはおまえには関わりがないだろう」
「おれは、三好が師範にちゃんと報告して謝るのかを見届けるべきだとおもったんだよ。うそをつくかも知れねぇしなあ」
「うそ? 桐之がか? なんのために? みんな見ていたのに?」
三人のやりとりを遠巻きにしていた他の門下生たちを、周吾はぐるりと見渡した。
「こいつは気が弱ぇだろう? だれかが見張っていてやらないと、ほんとうのことが言えないんじゃないかとおれは心配したんだよ」
「そういうことは、余計な世話ってんだ」
周吾はそう吐き捨てた。
「……なんだと?」
「あんたはいつも桐之に文句をつけるな? ほんとうのところは、桐之と仲よくしたいのか?」
「はあ? 気色のわるいこと言ってんじゃねえぞ、藤間。こいつは、いつだって鈍くせぇじゃねえか。いまだって、師範の大事な花瓶を割ったじゃねえかよ」
「それなんだがな。おれは、そんな大事なものをこんなところに置いておいた師範だって迂闊だったとおもう」
「……迂闊だぁ?」
卯松の目が据わってきた。桐之は、いつ新田卯松が暴れだすともしれず、戦々恐々とした。花瓶が割れたときから静まりかえっていた道場は、いまや張りつめた気に充ちていた。花瓶も水たまりも菖蒲もいっさいがそのままで、はやくきれいにしなくては。周吾も周吾で、いったいなにを言いだすのだろう。
「師範の見込みがだめだったんじゃないか? 木刀をつかうこんなところに、花瓶のような割れものがあれば危ないさ。げんに割れたわけだし」
桐之はいっそ感動したし、気を失いそうにもなった。
「そう。そのとおりだな。周吾の言うとおりだ」
師範が道場に姿を現したからだ。




