イギリスの貴族らしきもの
中途半端です。細かいところは詰めずに書いて載せています。とにかく回りくどい文章を書きたかったがために、なんだかよく分からんものができました。妻を亡くして自堕落になった兄と、兄を立ち直らせたい妹のある日の会話。
馬の嘶きを聞き取り、ロウシアが玄関ホールへ飛び出たときには、靴もズボンの裾も泥まみれにした兄のレナードが、扉に半身を預けるようにして姿をみせたところだった。
「まあ、お兄さん……っ!」
駆け寄るロウシアをみとめたレナードは、力なく笑って片手を挙げた。妹のそれと同じ、肩を越す明るい茶色の髪は、数刻前に邸を出たとは信じがたいほど乱れ、後ろに撫でつけられていた毛が顎の先にまで落ちてきていた。
慈悲深く神の御使いであるかのごとく清らかなと評される面持ちは、いまはどこか悄然としていながら、緑柱石色の眸は明らかに酩酊している色を伝えていた。兄の身体を支えようと開けられたままの扉の向こうを見て、ロウシアは蒼白となった。
そこにあったのは一頭立ての軽装馬車、信じがたいことに御者はそのまま兄レナードであるらしかった。
「お兄さん、おひとりで……!? どうしたってこんなに酔って馬車を引くなんてことなさるの!」
「カールザイが気分を悪くして倒れてしまったんだ、だから俺の乗ってきた馬車をあいつに貸して、俺はあいつの馬車で帰ってきたわけだよ」
「一緒に乗ってらしたらよかったじゃない、カールザイさまをこちらにお連れになればよかったじゃないの」
「嫌だと言うのが当然の俺の意見さ、ロウシア。ここに人をいれるだなんて。あいつだってそれはよく承知しているさ、ああ――――、エルマンはどこだい? 呼んでくれ」
レナードは妹に任せるまま、崩れ折るようにして床に座り込んだ。ロウシアは自分が夜着の姿であることも、髪が下ろされていることも思い至らなかった。何よりもまず、ロウシアのそういった抜け目に注意を払うのは兄の役割だったし、ロウシアもロウシアで普段ならばいかに家族とはいえ、いまのような自分の姿を恥じるだけの賢さはあった。ただその賢さゆえに、兄の投げやりな外見の恰好、発せられる言葉の端々の風情からして、ロウシアはここ最近感じてやまない懸念がいよいよ強く胸に迫るのを悟った。夕方、兄が出掛けたときから落ち着かぬ心地のまま、今夜は帰ってきてくれなくともいいとすら思っていた。
だが、いかなる時も厳たる面持ちを崩さない家令が、最初に兄を出迎えていなくてさいわいだったと、彼女は却って安堵した。
おそらくどこかの大きな水溜まりにでも足を滑らせたのであろう兄の状態に、邸の主を叱責することはあらずとも、家令の近頃の主に対する態度に、己の懸念が助長されるような心許なさを、これ以上、少なくともこの場では彼女はもちたくなかったからだった。彼女は兄がタイを雑な手つきでほどくのを兄とおなじ緑柱石色の眸で見つめながら、
「いまに温かくしたリネンを持ってくるわ」と家令の話題を打ち切った。
「カールザイさまは、あちらにお泊りにならなかったのですか?」
「やはりあいつには息が詰まるんじゃないか? 来たときから、一刻も早く帰りたいというような顔をしていたさ。俺だって一応は場をとりなすことはしなければね」
「ならば、せめてお兄さんだけでもサマンダ様のお邸に泊まっていらしたらどうだったの、あちらだってそれくらいのご厚意は持ちあわせていらっしゃるはずよ」
「友人とは別の理由で、言うまでもないだろう? どうしてもここに帰ってこなきゃならないわけなど。アマーリエが待っているんだ」
「……お兄さん……」
ロウシアは、その淑女の名前に肩をびくりとゆらした。そうして兄の冗談まじりの次の言葉で、自ら遠ざけて得た仮初めの安堵を、自分から壊さねばならない端緒を引き寄せてしまう愚行をおかした。すなわち、この邸の家令の名前を口にすることで、抱える懸念を当人にさらけ出してしまうことをだ。もっとも、家令がこの邸の家令であり、兄が彼女の兄であり、兄妹がこの邸の生まれであることをくつがえすことができたのなら、避けられる懸念であり愚行でありはしただろう。
「それにおまえは馬車を誰に貸したって咎めることはあるまい? たとえ家紋入りの四頭立て馬車だったとしても」
「エルマンが、いつもの気難しい調子で“承服致しかねます、旦那様”って言うのをおわかりでしょう、そんなご様子でひとりでお帰りになるなんて、お兄さん! 昨夜はあんなに雨が降っていたのよ、馬車で事故でもなさったらどうするおつもり、いいえ、ぜんたい、お兄さんはそれをお望みなのよ。お義姉様が亡くなったのとおなじことをなさりたいのよ、いつまでも、いつかそうなることをずっと待っていらっしゃるのだわ。この家に帰ってこなきゃならないだなんて、ご本心なの? 最近はずっとお酒と賭け事にふけってばかりいらっしゃるじゃない。最近? 最近ですって? お兄さんが変わりはじめたのは最近なんかじゃないわ、どこかおかしいとわたしがいつも感じるようになったのが最近だという話よ! ほんとうはこの家のなにもかもを、いよいよ無くしておしまいになりたいのでしょう?」
ロウシアの心は、かなしい怒りでいっぱいだった。兄の冗談を冗談で応酬しようとして失敗してしまった。
「俺がアマーリエとの思い出を手放すとは、いよいよこの兄は見損なわれたらしいね」
「見損ないやしないわよ! わたしにそうしてほしいのはお兄さんじゃないの。お兄さん、お義姉様が何を願っていたと思う? 簡単なことだわ、こんなに皮肉で簡単なことってあるのかしら、お義姉様は、お義姉様はね――――」
「おまえはどうなんだい、ロウシア」
「わたしが何だっていうの、お兄さん……」
兄の疲れたような、けれどもはっきりと深い慈愛をにじませた笑みを向けられて、ロウシアは身を硬くした。
「オルグレン伯爵のご子息――――、そんな青い顔をおしでないよ、ロウシア」
「お兄さん……! わたしは、どんなに立派なかたであってもお兄さんのことを悪くおっしゃるかたに、どうあっても好い感情など浮かばないわ。それに立派なかたは人を悪しざまに言うなど、ぜったいにしないのよ」
「人の賞賛して然るべき長所、あるいは非難に値する言動……、それらを臆することなく真摯に指摘してこそ立派な人物と言えようよ。つまり、かのご子息はそのことに胡坐をあいたとしても誰のはばかりも受けることなく立派という言葉に慢心していられるわけだ」
「お兄さんこそ、昔はそうでいらしたじゃないの! そんな皮肉を言って、ご自分を貶めたおつもりなの? それでも、いまのどんな姿だって、わたしのお兄さんはただひとりなのよ」
ロウシアは、兄の口から出た予期せぬ人物の名に慄いた。件の人物は、先ごろ伯爵主催の舞踏会にて、兄に轟々たる非難を向けたのだった。確かに兄は、酒に酔って上位貴族に対し粗相をしてしまった。けれど、衆目のなかでなんたる屈辱であろうか! もう二月も前のことであるが、ロウシアは件の人物の灰毛と深い藍色の眸が蔑んだようにこちらをみる様を思い出すと、いまでも怒りにうち震えるのだった。兄があの人物を立派に思うなど、ああ、どうしたことだろう……。
彼女は、レナードが、ついに胸の前で手を組んで身を震わせた彼女の姿を観察深くみまもっているなど、知る由もなかった。同時に彼は、かの人物が妹の双眸に、妙なる光を見出していることを気づいてもいた。レナードは、ベストのボタンを外しながら、満足気な息を吐いた。
「アマーリエも俺にとってはただひとりだったよ」
けれども、レナードが発するであろうその言葉をロウシアはもう予感していた。
ついにかなしみは決壊し、怒涛のごとく彼女を襲った。彼女は、兄の風貌で彼女の好きなところをあますことなく思い出そうとした。慈悲深いと評されるのは、彼の顔立ちによるものだろう。短く太い眉にさほど高くない鼻、やや下がり気味の双眸に、花を讃えるかのごとくの微笑みをかたどる唇。
緑柱石色の双眸はその宝石に反射する光を思わせる揺らめきを宿しているから、眸はより大きく、神の祝福をうけたような清廉さを彼を見る者の目に映す。
いつも、ゆるく首のうしろで縛っている明るい茶色の髪は、重みのあるロウシアのそれとは違って、彼女の憧れだった。彼はあまり上背のあるほうではなかったが、均整のとれた身につつむ衣裳は、質素であっても彼が着ると不思議に華やいでみえた。
けれど、いまやどうだろう。兄の何もかもが精彩を欠いているではないか。彼のすべては、風化した絵画の残像のようだ。
人は色彩をうしないながらも、誰かを慈しむことができるのだろうか。兄は、義姉と真逆のことをしようとしている。兄だって、こんな風に義姉を愛していたいのだろうか。賭け事にのめり込んで、散財し酒に溺れ、家を傾けるほど堕落するように――――。
義姉であったアマーリエは願っていたはずだ。自分が死んでも、兄がけっしていまのようにならないことを。思い出は風化しようとも、それに縋るようなことはしないでほしいと。義姉は馬車で事故に遭ってこの邸まで運ばれたとき、まだ自分を保っていた。彼女は兄だけを一心にみつめていた。愛するものを前にして、彼女はそのとき残酷だった。縋るくらいなら、自分たちの思い出はなかったことにしてくれと。
けれど義姉の兄に対する精一杯の愛情だったに違いない。兄はそうでなく、義姉との思い出とともにすべてを葬り去ろうとしているのだ。ロウシアの懸念は兄の言葉で確信に変わった。
「なにを考えているの、お兄さん!? わたしを、わたしをひとりにするつもりなのね!?」
「おまえはひとりになどならないよ」
レナードは気だるげな動きでロウシアの頬に手を伸ばした。だがその表情は驚くほど慈愛に満ちたものだった。ロウシアは瞠目した。かつての兄がそこにいるようだった。
風化した絵画はみるみる光を放ち、色は息を吹き返した。時を遡り、遠き昔に神の御使いが在った頃の、生きた輝きが具現化されたかのようだった。
「かわいいロウシア」
緑柱石色の眸を細めて、レナードはゆっくりと瞼をおろした。
迷走に次ぐ迷走……。いや、多分兄は死んでません。本当は妹の恋愛メインで書きたかったのに、導入部が長すぎて着地点を見失いました。あんなイケズな分からず屋嫌いよと言いながらも、お互いに気になる存在という筋で行きたかったのですが、霞になってしまいました。
それと、当初の設定は二人は貴族ではありませんでした。中流階級の設定で書いていたのですが、それで妹の相手が伯爵だとあまりの身分差のためややこしくなるので、伯爵よりは下の階級ということにしました。
お付き合いくださいまして、ありがとうございました。