第〇四話「事件」
わたしは意識を取り戻した。
察するにわたしは生きているらしい。
どうやら死ぬのはまだまだお先のようだ。
どこから何を始めていいやら見当が付かないが、まずは分かることを出来るだけ描写することとする。体勢は寝ている。後頭部の下に枕があるのと全身に温もりを感じることから推測するに、どうやらわたしは布団に入っているようだ。目を瞑っている状態から勘定すれば、明るいとは特に思わない。眩しくもなく暗くもなく中途半端な明るさである。周囲からの音は殆ど遠い。どこかで生活音めいたものが聞こえることから、ここはどこかの家なのだろう。ごうんごうんという揺れるような機械音(洗濯機?)も聞こえる。推測を纏めて結論を出すと、恐らくわたしはどこかの家で布団にこもり寝入っている状態にある。
わたしは目を瞑ったままで思考を開始した。目を開かないのは、起きたことを周囲に知られたくないからである。近くに人が居るかどうかは不確定だけれども、仮に居るとするのなら寝起きで応対するのは少々不味い。頭が寝惚けていると、うっかり口を滑らせてしまう恐れがある。それで作戦が失敗してしまうかもしれない。そのような愚を犯すわけにはいかないので、頭が冴えるまでは狸寝入りを極め込むべきだ。
さて思考するべきことは沢山ある。
まず彼女のことを左右田さんと呼ぶべきかどうかだ。これは会話文でという意味でなく地の文でという意味である。口では左右田さんと呼んでおいて腹では彼女と呼んでいると何だか印象がちぐはぐだ。それに留まるだけならまだいいが、どうかすると何かの折に腹で考えていることが口から漏れ出るということもある。本心では敵としてみているということが彼女に伝わってしまうことがあれば、やはり作戦は失敗に繋がってしまう。それは避けたい。避けたいので、そうなる前から心の方でも自分を偽るようにするのが良いと思われる。そのため登場人物の心理をも演じ切る舞台の役者のように、彼女――否、左右田さんを心から慕うように意識することとしよう。
さてその左右田さんに関する考察をちとやってみる。左右田さんは、わたしの人生において類を見ないタイプの人間だった。最強・悪魔という呼び名とは程遠い愛着ぶりを目の当たりにして、どう対応したものかと辟易してしまう。何せ出会い頭にハグである。しかも人一人を気絶させるほどに強烈なハグである。抱かれた身としては堪ったものでなかったが、左右田さんが少女好きであることは確かとして見て良さそうだ。本人の口からも「あんたみてえなちんまい女の子が超々々々大々好きなんだよ」と明言されている。
とするとわたしは、さらに気に入られるよう左右田さんに対して媚を売るよう振る舞うべきだろうか。黄色仕掛け作戦の要点は相手と仲良くなることにある。だからこの手を活かして逸早く仲良くなれば、ぐっと成功へ近付けるかもしれない。
だがしかしそれには大きな問題がある。というのは、わたしが可愛い子ぶっても違和感しか無いように思うのだ。ここまで付き合ってきてくれている読者ならばもはや周知といっても過言ではないように、本来わたしは冷酷なキャラクターである。可愛さとは縁遠いダークな人格が売りである。恋も知らず愛も知らず可愛い点がどこにもないこのわたしが諂いながら媚を売っても、きっと景気はさっぱりだろう。仕事に私情を持ち込むべきではないけれど、第一に恥ずかしい。もしも媚を売ったことが見抜かれて、そのうえ冷笑までされようものなら作戦に取り組む気概をあらかた失ってしまう。愛嬌を振り撒くのはわたしに出来ないことだ。ゆえに可愛い子ぶるのは諦めよう。
自然体で行く。それが何よりだ。
左右田さんに対する考えはこれで大体のところ纏まった。もう起きたことを気付かれても構わないだろう。こちらから体を動かしてもいい。
わたしは、体を解すように全身をぐっと伸ばした。
すると、妙な快感が体を走った。
「…………」
動きを見せたのに反応がない。誰かが傍に居れば何らかの音があるはずだ。無意識の感動詞か、反射的な体の動き。それらが一切ないとなると、近くに人は居ないと考えるべきだろう。
いやそんなことよりも快感である。何故だかは分からないが、体を動かしたら不思議かつ敏感な気持ち良さが全身に生じた。布団が気持ちいい。布と体が摩擦し合うことによって不可解な気持ち良さがあったのだ。
どうしてだろう。
わたしは自らの体をくねらせた。そうするとまたも快感が肌を走った。吐息が乱れてしまいそうな気持ち良さだ。喩えるならそれは、新品の毛筆を指先で弄んでいるときのような擽りに似ている。それを全身で感じている。この気持ち良さは、もはや事件だ。特に胸の辺りを擦ると火照るような興奮があり、とても甘美な快感に襲われてつい口からよだれが……。
はっと目を見開いてわたしは、我に返り自らの胸を急いで確かめた。いや我を失ったような闇雲さで自らの胸をぺたぺたと叩くように調べた。服の中に手を入れたわけでもないのにそこには布の感触が無く、そうして布団を気持ちよく感じる理由を得心した。
わたしは服を着ていない。
素っ裸だ。
え? なして? どうして?
はてなで頭が埋め尽くされる。
確証を得るべく布団を開いて、自らの体を見定めた。見定められた自らの体は、予想に違わず裸だった。上も下も上着も下着も丸切り何も身に着けていない。誰が見ても(誰にも見せたくないが)裸の一言である。
何故だ。
わたしは推察する。自分がどうして裸でいるのかを推察する。まず真っ先に言っておかなければならないのは、これがわたしの意思によるものでないということだ。わたしは服を脱いだ覚えがない。となるとわたしが裸でいる原因は、催眠術でも掛けられていない限り誰かに脱がされたからという訳になる。
誰に脱がされたか。それも重要だが、どうして脱がされたのかも同様に重要だろう。むしろこれが最重要事項かもしれない。事によると操の危機さえ考えられうる。どうしよう――まだ処女なのに、どこだか分からない場所に連れ去られて布団に寝かされてしかも裸で……。
と、わたしは気付いて、上半身を起こし、自分の居るこの場所を見渡してみる。
わたしの居た場所は、六畳一間だった。特に衒いのない普通の部屋。尤も他人の部屋というものが普通どういうものであるのかを知らないわたしが普通と評しても、それが世間で言う普通と同じかは保証しかねるところだが。保証しかねるが、目ぼしいものが無いのは事実である。部屋の真ん中を陣取る卓袱台、その上に散乱している物の数々からは生活感が見受けられるけれども、部屋の雰囲気は、庶民感のある一人暮らし風と言うしかない。調度も普通のものばかりだ。
窓の外を見ると夕日である。わたしが最後に起きていたのは正午過ぎくらいだったので、今は六時くらいだろうか。正確な時刻は分からない。そう思いながら視線を動かすと、掛け時計を発見した。これにより正確な時刻が分かった。勿論ずれていないことが前提となるが、現在の時刻は六時ほどである。わたしの推測は的を射ていたようだ。
六時間も気を失っていたのか。
初っ端から大変なロスを食ってしまったようで、失敗を悔やむ心持ちになる。
気を取り直して部屋を見渡すけれども、ここは正確に言うとどこなのだろうか。左右田さんと出会った無人の町からどれくらい離れた所に位置している場所なのだろうか。わたしは、いったい誰の手によってこの六畳一間へと連れて来られたのだろうか。
左右田さんか?
わたしを連れ込んだのが左右田さんだとして、そして話を戻すことととして――では服を脱がせた理由とは、さてないったい何なのか?
分からない。
……何が何だか分からないというのが本音である。わたしを六畳一間へ連れ込んだ事。連れ込む場所を六畳一間に選んだ事。わたしが裸で居る事。それら三つの謎が頭をぐるぐると回る。
回る。回る。回る――ふと。
「あれ? ……え?」
さらにもう一つの謎が頭の中へ飛来した。
あれ可笑しいなと思いながら自らの手や髪を見たり触ったりする。
気付く、自分の体に血が付いていない事を。
不気味――不可解。
どういうことだ? わたしが気絶した因は、血塗れの左右田さんにハグされたからだ。血塗れの人間と密着すれば、わたしの体にも血は付着する。実際わたしは、自分のスーツや顏に血が付くことを焦っていたものと記憶している。それなのに摺られた頬さえもが綺麗になっているのは何故だ?
四つ目の謎……。
待てよ。類推して考えてみると――血が付いていない謎と服が脱がされている謎とには繋がりがあるように思えてきた。この直感はきっと的を外していないはず。体に血が付いていないのは、気絶している間に誰かがわたしを洗い流したからなのだとしたら――発展して、服を脱がされた理由が、例えば血塗れの服を洗うためだとしたら。
服と体から血を洗い落とした――?
そういえば――ごうんごうんという揺れるような機械音が何時の間にか聞こえなくなっている。
洗濯機? いや……乾燥機?
音が消えたのは、洗い終わったから?
耳を澄ます。足音は聞こえない。誰かが近付いてくる気配は感じられない。
と。
「お! 起きたの! お八四三! 服かわいたから持ってきたぜー」
「……!」
音もなく開いた障子――それから、左右田さん。
わたしとは違ってちゃんと服を身に着けている――あのボディペインティングかと見紛うほどにタイトなシャツと、脚の付け根さえ見えかねない小さなホットパンツだ。むろん血は無い。
左右田さん、見ている、わたしの肌を、まじまじと。
状況を客観視する。日常的風景を思わせる変哲のない六畳一間。胸の辺りで掛け布団を掴みながら部屋に入ってきた人物を見詰めている裸のわたし。黒のスーツ及び下着などを片手で持ちながらわたしを見下ろしている左右田さん。その一こまを俯瞰するような視点で想像する。
想像して理解が追いついて、顔が熱くなってくる。
「え、え、ぉ……へぅっ」
耳がもげそう。
呂律が回らない。
顔面が爆ぜるかのような、
激烈なる羞恥心を感じた。
「あ、あ、ああ、あ、あ……」
「ひゃはははぁん。一先ず一安心ってところだな。いやぁてっきりくっきり干于たん死んじまったんじゃねーかなとワタシ心配してたんだぜ? 危ねーよな。もしも干于たんがあのまま目覚めなかったら、代わりにワタシが目覚めてたかもしれねーぜ。なに? なにに目覚めるかって? んなもん決まってら、死体愛好にだよ。裸体の死体に恋したい! なんつってなー、ひゃはははははん!」
飄々としたふうに笑い、後ろ手ならぬ後ろ足で障子を閉める左右田さん。
それからわたしの傍まで歩いてきて、その場で胡坐をかいた。
わたしは、掛け布団を胸の辺りにまで寄せる。
恥ずかし過ぎて焦っているような態で左右田さんの顔を見る。
「あ、あ、あああああの……」
死にたかった。
こんな恥ずかしい思いをしなければならないのなら、最初から意識を取り戻さなければよかったと思った。
左右田さんは笑む。
「んふぅー。そう恥ずんなよ。真っ赤なお顔がキュート過ぎるぜ? ひゃはははん。あ! そう言えば干于たん! ワタシとちゅーしねえ?」
「い、いや。いやいや。そんな……思い出したみたいに提案しないでくださいよ。その気はありませんよ」
「干于たんのもっちり頬っぺたを甘噛みさせてくれよ」
「い、いやです!」わたしは自らの頬を手で隠す。「……それからルビを振れるようになったからって無暗に当て読みを乱用しないでくださいっ。読みにくいこと夥しいですっ」
「へへは。いーじゃねーか。ワタシは当て読みが得意なんだよ。それと干于たん。前、前」
「……? ……ふぉわっ!?」
しまった。
頬に手を当ててしまったから、掴んでいた掛け布団がずり下がってしまった。
急いで掛け布団を掴み直す。
「みみみみみみみみ見ないでください!」
「ひゃははん。なぁに言ってんだよ。今さら隠すこたぁねーだろーよー」
「……今さら?」
「おうよ。気付いてると思うけれど、干于たんの体に血ぃ付いてねーじゃん?」
「……はい」
「気ぃ失ってる間に誰かから洗われたってことじゃん?」
「はい」
「ワタシが洗ったんだよ、干于たんの体」
「――っ!」
え? え? え? え? え?
待って待って待って待って待って。
確かにそれなら裸である謎と血が付いていない謎とが解決するけれど……。
嫌だ嫌だ嫌だ。
認めたくない認めたくない。
初対面の人に裸を弄られた(洗われた)なんて――認めたくない!
顔が破裂しそうになるのを感じながらわたしは言う。
「そんな、そんな。嘘、嘘、嘘ですよ」
「嘘じゃねーさ。ワタシは嘘を吐かねーんだ。知ってるか? 嘘ってのは虚しい口って書くんだぜ? でもワタシの口は虚しくねーだろ? だから嘘は吐かねーんだ。閻魔大王も舌を巻いて逃げるほどの正直者だぜ」
ちょっと意味の分からない謎理論(というか絶対それも嘘だろう。「嘘吐きではない」という言葉は如何なる場合でも出鱈目である)はさて置き、「そんな、でも、そんな」とわたしは感情的になって猛反発する。
しかし左右田さんは、
「ふんふん。まあ干于たんが信じたくなければそれはそれでいいのさ。世界ってのは本人の認識でのみ成り立ってるんだからな。信じたくない事を存在しないように扱うってのも別に間違いじゃあねーとも。多くの場合、現実逃避は戦略的撤退なんだからよ。さて置きだ。干于たんはよー、そんなこと気にしてる場合じゃねーだろ? 干于たんが優先すべきはそんなことじゃなくて、謎解きだろ?」
と言った。
不意を衝かれたわたしは、「……え?」というように唖然とする。
理解が追いつかないままで左右田さんは言葉を続けた。
驚くべきは、立て続けに発された言葉の正確さである。
「干于たんが謎に思ってることは二つってところだな。六畳一間へ連れ込まれた事。連れ込む場所に六畳一間が選ばれた事。そうだろ?」
「え。あ。は――はい。そうなんです、けれど」
どうしてそこまで分かるの――? と、わたしは内心で当惑した。確かに謎を解くのが当初の目的だった。わたしを六畳一間へ連れ込んだ事。連れ込む場所を六畳一間に選んだ事。わたしが裸で居る事。血が付いていない事。そのうち後半の二つはもう解決したから、残るは前半の二つである。二つ――つまり左右田さんの言ったことは正鵠を射ている。その二つも出来るだけ早く解決したいと思っていたけれど……こうも正確に思っている事柄を読み当てられると咄嗟にどう反応すればいいのか分からない。
左右田さん自ら会話を引っ張ってくれるのは嬉しいのだが、
心を読み当てられたことのほうがよほど不気味な謎である。
けれどもそれには触れず左右田さんは言う。
「お悩み解決してやんよ。順番を前後して、まず六畳一間……つーよりアパートを選んだ理由。これは、ま、ここがワタシの家みたいなもんだからさ。正確に言やあ組織の派出所だぁな」この場合の組織とは、デフォ戦士のことを差すのだろう。「次の謎・六畳一間へ連れ込んだ事への答えは、どうせ同棲するって話には成ってたし、ならいっそどっちかの家よりも派出所のほうが手っ取りばやいと思ったからかさ」
「はあ。なるほど。そうですよね」
わたしは生返事した。
謎は解決したけれども、あまり達成感が無い。
左右田さんは立て続けに言う。
「これから二人三脚でやってくわけだけど、ま、あれだ。干于たん。ちゅーしてもいい?」
「……いやいやいや」
わたしは丁重にお断りした。
ここまで話してきて思ったけれど、この人、相当やばい。
会話の流れをぶった切って余りにも唐突に接吻を迫ってきた。
しかも二回目。
明らかに常人とは思考回路が違う。
話し方も所々で常軌を逸している。
未知との遭遇とはこういうことを言うのか。
冗談で済んでいるからまだいいけれども――少しばかり恐怖を覚える類の不可解さだ。
全く以て――先が読めない。
「あの左右田さん。それよりもなんですが――」
その中でわたしがいま最も気になっていることは一つ。
最も強く感じている左右田さんの謎は――
「どうして、あの、心を読み当てることが出来たんですか?」
「あん? なんだ? ずいぶん妙ちくりんなところを気にするんだな」――いや誰だって気になるでしょ――「ぱぱっと謎が解決できて何か不満か?」
「いえ不満ではないんですけれど……。ただ不安は感じます。だって心で思ってることをずばりと読み当てられたら、怖いですよ」
「わはははは。怖いんならおねーたまに抱き着いてきてもいーんだぜ? ほら! おいでおいで!」
いや、だから。
会話の流れをごちゃ混ぜにしているあなたが怖いんですって。
わたしは言う。
「まさか当てずっぽうですか?」
「うんにゃ。当てずっぽうじゃあねえ。まあ当て推量であることは否めねーけれどな――初歩的な読心術だよ。知らない間に知らない場所へ連れて来られたら大体こういうこと考えるだろうなーってふうに目途を付けただけ。後は会話しながら干于たんの性格を分析したって感じ」
「……分析」
わたしは反復した。今まで交わしてた適当な会話にはそういう意図があったのか。心理テストみたいなことを会話中に紛れ込ませていたということか? それで突拍子もないことを言っていたというのか?
分からないが――もしもそうだとしたら、げに恐ろしい。
…………。
けれども――だからと言って流石にあそこまで具体的に読み当てるのには納得できないものがある。
さらに何か裏があるのではないか?
わたしは追及する。
「本当にそれだけで読み当てられるものなんですか?」
「んー。確かに前々から知っていたのならともかく、今日会ったばかりで言いたいことを正確に読み当てるのは難しいな。ジョセフ・ジョースターじゃあるまいし」
「何かまだ種があるってことですね?」
「……へへ。どうやら秘密には出来ねーってところか。しゃあねえ。答えてやるよ――本当の答えをな」
左右田さんは諦念したように笑った。
おお、とわたしは思う。
最も大きい謎・左右田さんの謎に――迫れたようだ。
明かされる答えによれば――左右田さんのことが少し分かるかもしれない。
期待が高まる。
わたしは言った。
「どうして読み当てれたんです?」
「当て読みが得意だからさ」
「…………」
謎理論な返事だった。