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第〇三話「悪魔」

 左右田右左口そうだうばぐち――最強と謳われて悪魔と恐れられる彼女の名前は、そうという。

 時は正午。

 所は屋上。

 バブルの煽りを受けて未来的都市を開発しようとするも中途で放棄されてしまった無人の町(ゴーストタウン)。再復興する目途が立たないまま今日に至るこの場所は、しかし完全に忘れられた場所というわけでもなく、時たまこうして人目に付かない待ち合わせ場所という一面を見せている。今回わたしがこの無人の町(ゴーストタウン)に来たのは、そう、彼女とコンタクトを取るための待ち合わせ場所としてここが選ばれたからだ。

 廃墟と呼ぶべきビルディングの屋上には一脚の机とそれ用の椅子が四席ある。建設が進めばビヤガーデンでも目論んでいたのかと予想させるけれど、それにしても広い屋上に一つだけの机というのは実に物寂しい。聞こえる音と言えば烏の鳴き声くらいのもので、どうにもこうにも一人で座るのには落ち着かない場所だ。

 わたしは、ヘリコプターに用意されていた黄色仕掛け作戦用の書類を思い出して、頭の中で再読する。意識するべきは、わたしと彼女が同棲するその理由。わたしはデフォ戦士に送りこまれるスパイとなるわけだが、してそのデフォ戦士内におけるわたしの立ち位置というのは彼女の助手(、、、、、)になるのだという。

 助手という役割、

 新人という設定。

 だから慎ましやかなキャラクターを演じていなければならない――少なくともコンフィデンスでの干于千を見せないように立ち振る舞いには十分注意することだ。デフォ戦士に入団するという気概を見せつつも底のところでは十七歳らしく。いつものような冷酷さは表さずに過ごす。間違っても人殺しの経験があることを悟られてはならない。そのような不自然さが露呈してしまえば、作戦は失敗に結び付く。

 詐欺師のような平常心を保つこと。

 わたしはそれを念頭に置いた。

 そうして席に座って、室内に繋がる扉を見やる。

 今か今かと彼女を待ち望む。

「…………」

 わたしはヘリコプターの操縦士と交わしていた会話を思い出す。

 彼女の名前は『左右田右左口』であるという事。

 それともう一つ――「デフォ戦士と敵対している男がここ・無人の町(ゴーストタウン)に逃げ込んでいるかもしれない」という発言。さらに操縦士は「現在その男は、左右田右左口に追われている最中かと思われます」と言う。そうして最後に「干于さんもお気を付け下さい」――と。

 その言葉から察するに「デフォ戦士と敵対している男」というのはコンフィデンスの人間でないのだろう。何か別の組織の人間か、それとも個人で敵対している人間なのか。分からないが、わたしがその男に襲われる危険性があるから操縦士は「お気を付け下さい」と言ったはずだ。

 考えられるのは、その「デフォ戦士と敵対している男」がわたしを人質にする場合。

 そうならないように――「気を付け」る。

 気を引き締めれば何ら問題はない。

 わたしにだって護身術の心得はある。

 心配はいらない。

 だからわたしは待つだけ――

「……………………」

 なのだけれど……。

 どうしたことなのだろう。

 約束の時間である正午はもう過ぎている。現在時刻は十二時五分だ。五分が経過している。

 わたしは時間にルーズな人でもまあ許せる性格の人間なのだけれども、しかしどうだろう、時間に厳しいと噂されている彼女自身が遅刻するというのには何か腑に落ちないものを感じる。遅刻そのものに対して何かを感じるというよりも、相手は許さないけれど自分は許すという信念の矛盾みたいなものが看過できない。その矛盾が胸中で感じているもやもやの大部分だ。それは理不尽と換言してもいい。

 わたしは理不尽を感じてもやもやしている。待てば待つほど次第にもやもやは大きくなる。

 理不尽……と言うもののそれを訴えかけられる程わたしは度胸のある人間でない。そもそも理不尽というものは胸に仕舞い込むからこその理不尽なのだ。訴えかけることができればそれはもう理不尽でない。何故ならば理不尽というものは、どちらか一方が妥協しなければいけない場合に生じるものであり、そして自らが妥協する側になった時にこそ感じるものだからである。

 納得できないままに妥協させられる――それが理不尽。

 理を尽くさない――だから理不尽。

 人間関係に納得できない事・理不尽に感じる事が多過ぎてわたしは孤立する事を望んだ――自分が妥協する側になるのは嫌で、そうなることを避けるために出来るだけ一人でいるようになり、いつの間にか一人でいることを好むようになり、一人でいることの居心地の良さを覚え、何故だか一人でいることのほうが高尚な気さえして、そうして何時しか皆の側もわたしを孤立させるようになっていた。

 自分から孤立していた時には思わなかったのだけれども、不思議なことに孤立させられていると気付いた時からまた理不尽を感じるようになってきた。

 寂しいから?

 それは分からない。けれども寂しいからという理由ではあってほしくない。仮にそうだとすれば如何にも滑稽だ。哀れすぎて笑いも誘えない。

 今さら孤立したことを嘆いても仕方がないからわたしはわたしのままで生き続けるし、失ったものの代わりに得たものも多かったからこれはこれで成立している人生である。そう悲観する事ではない。ただ――まあ、自分が違う選択肢を選んでいたならと想像しないわけではない。

 女子高生になっていたかもしれない自分が友達と遊ぶ――そんな人生を妄想したって罰は当たらないから。

 これからわたしの演じる新人というもの――それを有り得たかもしれない人生として見て。

 選ぶ余裕のあった選択肢なんて、わたしの人生には無かったような気もするけれど。

 一歳からの十六年を組織で過ごしてきたわたしには選択肢なんてなかった。わたしの意思でどうこうできた事なんて何もなかった――なんて、そんなふうに運命を悪者扱いするのは流石に被害妄想が過ぎるか?

 まあいいさ。

 どんな運命によって人生を左右されているとしても、遅刻されて待たされるくらいの理不尽は甘んじて受け入れてやろう。

 その程度の理不尽は数にも入らない。

 ――訳も分からないままに生かされ続けている理不尽さに比べれば。

「……嫌だな」

 はあーっ、と肺の中の空気を溜め息に変換して放出する。

 それからわたしはがっくりと撓垂れて机に寝た。

 薄暗いことは考えぬが吉だ。

 思考を打ち切る。

 瞬き強く。

「……がんばろっ」

 すぐにわたしは起きて、気合いを入れるために頬を強く二回しばいた。

 あ。い、痛。

 思ってたより痛いっ。

 どうやら力を入れ過ぎたようだ……。

 けれどもまあ大丈夫。

「よし」

 気持ちは切り替えた。

 さあ、わたしは何時まででも待つぞ。

 どこからでもかかってきなさい(何が)!

「っ――!?」

 突然――揺れた。

 ビルディング全土が振動した。

 何だ? 地震? いやそれにしては……短い。

 たった一度の揺れ――それだけで治まった。

 一度の揺れだけで治まる地震なんてあるのだろうか?

 何か分からないけれど、胸騒ぎがする。

 変なの、で済ませて良いような問題ではない気がする。

 危機感が上り詰めてくる。

 わたしは心構えをする。

 何が来ても対応できるように、万全の心構えを――。

 しかし。

 それから変化が現れたのは、揺れてから一分後のことだった。

 扉が――

「っ!」

 扉が、開いた。

 誰かが入ってきた。いやここは屋上だから出てきたというべきか。

 わたしは座ったままで身構える。

 入ってきたその人物――女。

 彼女……?

 あれが左右田右左口――なのか?

 ここに来る女ということは、それ以外しか考えられない。

 彼女が――左右田右左口。

 だが。

「ふうぅぅー」

 彼女は、わたしに目をくれるでなく、額に腕を当てて暢気な感じに風を受けている。

 ビルディングの屋上ということで吹いている風はやや強い。その風を受けてなびくのは、胸まで伸びている長い黒髪である。彼女は清涼な風を受けるままに受けていて、そうしてそこはかとなく満足したような笑みを浮かべていた。もっと言えば、まるで一仕事を終えたかのような満ち足りた表情だ。

 彼女は、綺麗に整った顔もさることながら高い身長も相まって実に魅力的な容姿を有していた。女のわたしでさえも素直に格好よく思う。胸も大きく、脚も長い。服装は、まるでボディペンティングかと見紛うほどにタイトなシャツと、脚の付け根さえ見えかねない小さなホットパンツ。総合して言えば彼女は、綺麗なお姉さんと呼ぶのに相応しかった。

 だが――たとえ彼女にどれだけの爽やかさや美しさを飾り立てたとしても、全身に塗れている血(、、、、、、、、、)を前にすればそんなものはいともたやすく消え失せてしまう。

 ()()()

 全身が朱色で覆われている。

 それは、生理的な嫌悪を催させる凄惨さ。

「っ……」

 わたしは、口から出てきかけた何かを呑みこみ直す。

 わたしだって人を殺したことはある。返り血だって浴びた事がある――けれどもこの死臭と血の臭み、それから滑り落ちている鮮血の多量さは度を越してどぎつい。

 風に運ばれてくる臭みが、わたしの鼻孔を犯す。嗅覚を狂わせる、鉄の臭い。

 マグマのように流れている血は、目に入れるだけで喉の奥を狭める。

 ……デジャビュという言葉をご存知の方はまあまあ居るかと思われるが、その反対の現象であるジャメビュを知っている方はどれくらいの人数おられるだろうか? 初めて見た事なのにどこかで見た事があるような気がすることをいうのがデジャビュだけれども、その反対であるジャメビュは、見た事があるのにも関わらず初めて見たような気がすることを言う。

 今の私は、そのジャメビュを感じている。

 人を殺したことがあるのにも関わらず、人殺しに対して初心なまでの拒否感を覚えている。

 あの血を見れば彼女が今まさに人を殺してきたことは予想が付く――それ以外の要素で血塗れになるなんてことはありえない。

 最強――悪魔。

 人殺し。

 返り血。

 血? 殺す? 武器らしきものは持っていない――殴殺? 拳だけで人体を破壊したと言うのか? ……見てみれば右手だけは一点の曇りもなく真っ赤だ。

 もしかすると先ほどの揺れも彼女の仕業?

 思い出す、操縦士の言った「デフォ戦士と敵対している男がここ・無人の町(ゴーストタウン)に逃げ込んでいるかもしれない」という情報を。

 彼女が殺したのは、その男?

 ビルディング全土が揺れるほどの力をもってして男を殴り殺して、そうしてやってきた……というわけか?

 わたしの知識からすればそれ以外の結論は導き出されない。

 最強と呼ばれる彼女の力はそれほどまでに途轍もないものなのか。

 ごくん。

 と固唾を呑む。

 落ち着け。最強であれ悪魔であれ彼女は仲間となるのだ。わたしと仲間。いくら何でもわたしにまで襲ってくるということは無い。無いはずだ。

 平然と振る舞え。

 妙な動きをするな。

 そうでなければならない。

 万が一わたしが仲間でなくスパイであるということが露見してしまったら……。

 ……だからわたしは平然と振る舞うべきだ。

「あなたが――」

 わたしは立ち上がって、彼女に尋ねる。

左右田右左口(そうだうばぐち)さんですよね? 初めまして。今日から左右田さんの助手を務めさせていただく干于千(かんうせん)と申します」

「……ん?」

 彼女は気付いたようにこちらを見る。

 わたしは近付きながら言った。

「話は既にお聞き済みですよね? 確認のためというわけで一応のこと確認させてもらいますけれど」――確認って二回言っちゃった! ――「今回あなたがここに来たのは、わたしの研修を請け負ってくれるため。デフォ戦士に入団するにあたって、稽古を付けさせてくれるからで宜しかったですよね?」

 彼女は、裏の読み取れない無表情でわたしを見下ろす。

 まじまじと、ねっとりと、値踏みするように見やる。

 視線に耐えながら、わたしは返事を待つ。

 恐怖を我慢する。

「あ?」

 低い声でそう聞き返した。

 飛び上がりそうになった内心を落ち着かせて、わたしは言葉を重ねる。

「どうかしましたか? もしかして話を聞いて――」

「あんたが?」

 遮られて、尋ねられる。

 循環する血液が逆流するような恐ろしさ。

 覚えず過呼吸になる。

 彼女は鼻で笑った。

「あんたが? ワタシの助手になりたいっつう干于千……? へえー」

 心拍数が跳ね上がり、

 いやでも表情が歪む。

 何を言われるのかの予想が付かない。

 未知すぎる彼女。

 わたしは、わたしは、わたしは。

 落ち着け。落ち着け。怖くても落ち着け。

 落ち着きやがれ。

 全身から、汗。

 ねとねとと、気持ち悪い。

 何か不自然だったろうか。

 不自然だったのだろう。

 考えてみれば、十七歳らしくというのならあのまま怯えているのが正解だった。

 血塗れの人間を前にして平常を保とうとするなんて不自然すぎる。

 失敗した。

 失敗して、だからばれてしまったのか――?

「あの」

 怖いから、怖いから、怖いから。

 わたしは口を開いて。

 逃げたいけれど。

 でも。

 瞬間。

 にやあと笑って――

 彼女は――

「うっひょぉ! まじでかー!? ラッキィィ! かーんわいぃ少女じゃねえかぁ!」

「っ!?」

 いきなりわたしを抱きしめてきた。

 なんかもう立ちながら抱き枕を抱きしめる感じに。

 っていうか、うえ、力強いっ! 苦しいっ!

「ひゃははははははははぁん! いやーワタシってばあんたみてえなちんまい女の子が超々々々大々好きなんだよっ! うははははは! ほれほれ! 頬擦りしちゃおーぜ!? 頬擦りは愛の仕草だからなっ! ほら! ほら! ほらほらいいだろ!? ほらほらほらぁ! うおーれずりずりずりずりずりずり! じゅるりぃ!」

「ぎああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!?」

 止めて止めて止めて止めて!

 顔に血が刷り込まれるから!

 汗と血が混濁して大変なことになるから!

 スーツも血で汚れてるから!

「やべー! 鼻血が出てくる! もう既に血塗れだってのに今にもまして血が出てくる! うへぇ! 頭がくらっとしてきたぞ! トリップ状態! まさにトリップ状態っ! 脳内麻薬がどばどば出てきてやべー! 脳漿が大変なことになっとる! 神経という神経がビンビンの敏感になっちゃってる! おへぇ! アヘる! 顔がアヘってくる! 快感すぎて死ぬわこれー! いひひひひひひひひひ! ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ!」

「ひいいやあああああぁぁ! いやっ! いやああああああぁぁぁぁぁぁ!」

 っていうか臭い!

 血が臭すぎて違う意味で頭がくらくらしてきてる!

 誰か、助けて!

「つーかごめんなー! 待たせちゃったなー! 寂しかった? 寂しかったよなぁ。ワタシが居なきゃ寂しいに決まってるもんなー。ごめんなー! でももうそんな思いはさせないから! もうお前を一人にはさせないからー! 未来永劫一心同体だぜー! ――うらっ!」

「むごふっ!?」

 おっぱいに圧迫された!?

 息が出来ない!

 やばい!

 解けないし!

 ちょ、冗談抜きで……。

 脳髄が熱くなってきて、すうっとしてきたんですけれど……。

「可愛いなぁ! 可愛いなぁお前ぇ! えぇ!? 干于たん! ワタシのことはおねーたまと呼んでいーからなっ! おらおら! ワタシのおっぱいどうだ!? やらけーか? きもちーか? うりうりうり! おねーたまのおっぱい独り占めしていーんだぞー? おねーたまも干于たんのこと独り占めしちゃうかんなっ!」

「ぶっ! ふぼっ! おぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼば!? ぶぼっ……!」――あ。意識が――「ぶ……。……、……っ」

 わたしは呼吸困難で気絶した。

 あるいは酸素欠乏で死亡した。

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