第廿一話「逮捕」
わたしは、列に並びながらフライト時刻表を見上げた。
アメリカ行きの飛行機が出る時刻は十三時二十分と示されてある。現在時刻は十三時ジャスト。二十分前ともなると、そろそろ飛行機に搭乗しなければならない時間帯だ。まあ空港へ到着したばかりであり、そのうえ急いで搭乗したいわたしにとってはそろそろも何もないのだが。
列が進んで、前へ歩く。
もうすぐでわたしの番だ。
空港内にいる人だかりをちらと見やる。コンフィデンスの追っ手が来ていないかどうかは常に確認しておかなければならない。露骨にならないようさり気なく周囲を確認する。
もしも追っ手を見付けた場合はすぐさま逃げよう、とわたしは心に決めている。空港へ来てチケットまで買ったとはいえ、逃亡するというのが大局なのだ。無理だと思ったらすぐに海外逃亡を諦める、その心構えが大事なのである。
わたしが左右田さんを諦めたように。
「…………」
なんて思いつつも――
ごく。
「……ん。案外おいしいかも」
それに温かい。
と感想を呟かせたのは、缶珈琲のBOSSカフェオレである。
左右田さんを諦めたように――などと思ったものの実際のところ全然わたしは諦め切れていない。いま飲んだ缶珈琲も左右田さん繋がりのことだ。黄色仕掛け作戦の初日、干于千素っ裸事件の後、左右田さんは「ワタシのおすすめはカフェオレだけど」と言ってきた。言うならば思い出に耽るためとしてそのおすすめをいま飲んでいる訳だが――いやはや、諦める諦めると言いながら全く諦め切れてない自分に苦笑が出てしまう。
ペアリングを見てデートを思い出したり、裸になって事件を思い出したり、缶珈琲を飲んで食後を思い出したりする。こんな未練がましい自分に呆れて、だけどこんなことも偶にはいいかなんて思ったりして――
やれやれ。どうやらわたしは、今回の裏切りに対してかなり浮付いているようだ。大それた自分の行動にわくわくしている。まだ成功するかどうかも分からないのにも拘わらず、逃亡していることを純粋に楽しんでしまっている。今まで束縛され続けてきた場所・組織から逃げる、それが無性に楽しい。自由とはこういうものなのかもしれない。
まったく不謹慎なものだ、と笑みを浮かべながら思った。
「…………」
わたしは手に持っているチケットを見てみる。アメリカのニューヨーク行きのチケット。先ほど空港で購入したものだ。予約を入れていなかったので多少高くついたけれど、オープンチケット(帰りが指定されてないチケット。簡単に言えば片道)の方を購入したので十万円以下には収まった。空席があったのは本当に幸いである。
列が動いた。わたしの番が来た。
「ええと」
わたしは財布を取り出して、パスポートを受付に渡した。
いま見せたパスポートは前に述べた通りコンフィデンスで発行した偽造パスポートである。偽造パスポートとはいっても見た目は正規のものと何ら変わりない精巧なものだ。聞いたところによれば発行の仕方そのものが本物と同じ方法を取っているらしい。それにこの偽造パスポートを使って飛行機に乗った経験もあるのだ。見破るのはおよそ不可能である。
受付は、わたしの顔とパスポートをにらめっこする。
わたしは堂々たる態度をとって平然と振る舞う。嘘などの類は、たいてい態度から怪しまれるものだ。態度さえ堂々としていれば嘘がばれることはない。顔を睨まれたら睨み返すくらいの心持ちで取り組めばよい。
「……干于?」
受付の男がわたしの名を言った。
「干于千さんですか?」
「……? はい。そうですが」
何だ。名前を確認された。昔の時は名前の確認などされなかったはずだが、最近になって仕様が変わったのだろうか。このごろ偽造パスポートに関する事件が起こって、審査が厳しくなっているとか? それとも単にわたしの名前が物珍しかったからだろうか?
表情に出さずにそう訝しんでいると、受付は、後ろに立っている警備員の男にとつぜん耳打ちし出した。
何だ。おい。何なのだ。わたしの名前を確認して、警備員に耳打ち? どうしてそんなことをする。……もしかして偽造だということが見抜かれた? まさか。この偽造パスポートは使ったことのある代物だ。見抜かれる訳がない。ならば何故?
耳打ちされた警備員の男は咳払いして、わたしの方を向いた。
そうして言う。
「申し訳ありません。干于千さん。少しご同行を願いたいのですが」
「はい?」
わたしは訊き返した。それと同時に内心で焦りを感じる。
「どこへ、でしょう?」
「空港の警備室へです」
「…………」
落ち着け。慌てるな。取り乱したら、それこそ一巻の終わりだ。
まずは当然の反応を返す。わたしが正当な一般市民だったとして、その場合の反応を返すのだ。わたしが正当な一般市民だった場合……当然、どうして警備室なんぞに行かなければならないのかを訊き返す。
「警備室……? え? ど、どうしてでしょう?」
「少し疑わしい点がございまして」
「疑わしい、ですか?」
「はい」
言葉が詰まる。否、言葉が詰まっている振りをする。ここでさらに質問を返すのは怪しいかもしれない。出来るだけ何も分かっていない振りをするのだ。
「ご同行願えますか?」
と念を押してくる警備員。
わたしは渋々そうに言う。
「はあ……。よく分かりませんけど、まあ……」
よく分からないことには取りあえず従っておく。それが大抵の当然である。任意的な質問を投げかけられているが、ここで拒否すれば怪しまれるだけだ。怪しまれれば、結局のところ警備室へ行かざるを得ない。下手な動きはしないに限る。
「分かりました」
わたしはそう答えた。
すると警備員の男は迅速に動く。わたしはパスポートを財布へ入れ直して、それから同行した。淀みなく歩く警備員の後ろに付いていく。周りに居る人々がこちらを見てくるが、あまり気にしないようにした。人の目を気にしていたら疑われるかもしれない。出来るだけの平然を装って暫く歩いて、そうして警備室へと到着した。
警備室の様相は、ドラマなどで見られるような如何にもな警備室だった。灰色の絨毯。事務用のデスクが無数に並べられてあり、その上にはデスクトップPCや積み重ねられた紙の束。人も多く、忙しなく動いている。目測でみるにそこでは六人の警備員が働いていた。
わたしはそこの応接スペースへ連れられて、ソファに座らされた。持ってきた缶珈琲も机に置く。
同行してきた警備員の男も対面に座って、座ると同時に問うてきた。
「お嬢ちゃんの名前なんだけど……、干于千で間違いない?」
先ほどとは違った馴れ馴れしい口調に舌打ちしたくなったものの、何とか抑えてわたしは平然と答える。
「はい。間違いありません」
「私の名前は右利切身というんだ。以後よろしく」
「はぁ」
妙に名前を確かめて来るなという引っかかりを覚えつつ、挨拶もそこそこにして、わたしはカフェオレを一口飲んだ。
その裏で考える。……正直に言うと、この状況は殆ど予想していなかった。警備室に連れられるとは予想外の展開だ。わたしが脅威として見ていたのはコンフィデンスの追っ手だけであり、警察のお世話(というのはまだ話が早いが)になるとは思っていなかったのだ。いや思ってはいた。思っていたからこそわたしは拳銃を廃校へ置いてきたのである。最低限の措置だけは取ってきたつもりだ。
しかし現実として警備室へ連れて来られている。こんなところへ連れられるのには明確な理由があるはずだ。どうして連れて来られているのかはまだ謎だけれども――パスポートが偽造だとばれたから? それは考えにくい。それ以外で警察の厄介になるようなことと言えば――
あ、と。
わたしは一つ思い当たることがあって、動揺しかけた。
人殺し。そうだ。人殺しか。尖始末の任務、あれを誰かに見られていたとか。誰も居ない廃校だと思ったが、実は近くに人が居たとか。わたしの顔を見たその誰かが警察に通報して、顏や服の特徴を説明して似顔絵を描いたりして、その似顔絵が全国(あるいは近辺)の警察機構にまで流されて、そしてパスポートを見せる段――似顔絵の顔と一致しているのではと疑い、ここへ連れてきた。
なるほど。そうとなればわたしが警備室に連れられた辻褄は合う。海外への逃亡を未然に防ぐためとして空港の警備員に情報を与えていたとするのならば、それはどんぴしゃだ。
……自分の推論に感心している場合ではない。もしもそれが本当だとすれば、事態はさらに大変だ。殺人罪ともなれば即逮捕も免れない。死刑さえ考慮すると、逮捕されることだけは絶対に避けなければならない。どう誤魔化したものだろうか? 返り血が付いてないことや凶器を持ってないことを強弁するしかないだろうか?
最悪、ここからも脱走するしかないか――
「その」
わたしは質問する。
「疑わしい点……というのはどういうことですか?」
何はともあれ訊いてみないことには進展しない。状況がまずくなれば、その時に即した対応をその場で考えるとして、まずは情報収集だ。先ほど言われた「疑わしい点」とやらを掘り下げることにする。
警備員の男・右利警備員は唸る。
「うーん」
右利警備員は腕を組む。その状態で渋い表情を取った。心苦しいことでもあるかのようなその顔付きは、わたしを不安にさせる。
「上から命令されたんだよね」
右利警備員はそう前置きした。上? 上とは、上司のことか? よく分からない前置きだ。上から命令される、それこそが仕事というものではないか。わざわざ前置きする事ではないだろうに。
わたしは言う。
「上?」
「私も警備員になって長いけども……、まあ、だからといってずーっと正義漢として居られるわけじゃないということは経験として身に染みている。人間というものは誰しも二面性のあるものだ。善い面と悪い面、その二つがあってこそ人間は人間らしいものだと思うんだよ」
「……はい?」
意味が分からなかった。
いったいどんな思惑があって初対面の女の子に善悪論を説くというのか。しかも右利警備員の言っている善悪論は、何か不穏なものを感じさせるそれだ。正義の名の元にある警備員が悪を肯定している、まるで自己弁護するように。もっと言えば自己の行いを正当化させるためのように。聞かされる方としては、その口振りに何となく危機意識を喚起してしまう。
直感だが――やばい、と思った。
ここからの展開には、わたしにとって不利なことが起きる――そう予感させられる。
「あの……、仰る意味を図りかねるのですけれど……」
「干于千が来たら捕えるようにと命令されているんだ」
「?」
右利警備員は言った。
何だその変な命令は? 尖を始末したことを目撃されて、人殺しの容疑者としてここにわたしを連れてきたのならば――その命令はおかしい。何故なら目撃情報だけでは、わたしの名前まで流出するはずがないからだ。顔や服装なら分かるだろうが、干于千を捕えよというのは道理に合わない。
頭がこんがらがってくる。名前がキーとなっているとすると……やはりパスポートなのだろうか。偽造パスポート。考えてみれば昔に使用できたからといって現在でも使用できるとは必ずしも断言できない。近年になって警備システムが強化されて、それで見抜かれてしまった?
わたしは缶珈琲を持つ手を握るようにする。
右利警備員は言う。
淡々とした口調で。
「済まんが――お嬢ちゃんを逮捕させてもらう」
「はっ!?」
わたしは驚いて、後退りするかのように立ち上がる。
馬鹿な。おかしい。何を言っている。逮捕だと。罪状も言わずに。いきなりすぎる。
ふざけるなというより――混乱。
頭がはてなで埋め尽くされる。
「どういう――ことですか?」
「命令されたんだ、上からね」
上から――その上とやらは、いったい何を知っているのだ。何を知ってわたしを逮捕せよなどという命令を出したのだ。
焦りを隠しきれないわたしは、荒くなった語気で右利警備員を問い質す。
「わたしに何の罪があるといんですか!?」
「私はよく知らん。ただ逮捕しろと命令されている。こんなことは私もしたくないんだが……悪く思わんでくれ」
「訳が分かりませんよ……。命令って、上って、誰のことなんですか!? 何の理由も無く逮捕なんて、そんなことできる訳ないじゃないですか!」
「表の組織ならな」
右利警備員は酷く落ち着いたもので――わたしを諭すかのように言葉を話す。
わたしは動揺を隠せない。感覚が蘇る。黄色仕掛け作戦の真意を教えられた時のあの感覚。
表の組織ならな?
その言葉の差す意味は――簡単に想像が付く。
逆説的に考えればよいだけのこと。
表の組織では無い。
要するに裏組織からの命令なのだ。
わたしを逮捕する理由は、裏組織なのだ。
裏組織。
それが何を差すかなんて明白。
予想が現実に変わる。
予感が事実に変わる。
変貌する――その瞬間を。
わたしは迎え入れたくなく。
目を瞑りたく。
耳を塞ぎたく。
けれどわたしは――
「コンフィデンスからの――」
「――っ!!」
どうして? へまなんてしなかったはずだ。追っ手は来なかった。あの運転手が本部へ戻っている訳もない。どこからだ。どこから情報が漏れて、ここに流れ込んできた。こんな空港の警備員に流れ込んできたのは何故だ。
そう思った頃には――
握っていた缶珈琲を握りしめ、右利警備員の顔に浴びせかけていた。
「ぐわっ!?」
「っ!」
空になった缶珈琲を投げ捨てて、警備室から出るために全力で走る。
ソファを転げるようにして応接スペースから出ていく。でんぐり返しするように飛び出て、絨毯に膝を付けて、出口に向かって走って行った。
今は、どうして漏洩したかなんて気にしていられない。そんなのは後回しにして、今はただ逃げなければ。
「お、追えっ! 追えー!」
カフェオレを浴びせかけられた右利警備員は叫ぶ。
その叫びに召集するように、警備室に居る警備員の全てがわたしを追ってきた。
後ろだけでは無い。
前からも来る。
通せん坊する者も居れば、こちらへ向かってくる者も居る。
「止まりなさい!」
一人用の通路に三人も立っている。とても通れそうにない。
だが知るか。
「っ!」
「――!? ぐぉッ!」
こっちに向かってきた者の脛を蹴飛ばした。
その者は痛みに耐えかねて蹲る――間もなく、わたしは横を通る。
「ぐっ!」
しかしその者は、刹那、横を通るわたしの脚を掴んできた。
「ぅああっ!」
体のバランスを失って転倒するわたし。
そして――
「抑えろ! 抑えろー!」
「女だからって手加減するな!」
「捕まえろ!」
「動くなーッ!」
と複数の警備員が素早くやってきて、瞬く間にわたしは抑えられてしまった。
頭を。
背中を。
右腕を。
左腕を。
右脚を。
左脚を。
抑え付ける。
動けないように――逃げられないように。
それは全く容赦のない拘束だった。背中に二人も乗っている。右腕も左腕も絨毯に抑え付けられている。右脚も左脚も押し付けられている。後頭部へも手加減がなく、下顎が開けられいくらいに力強い。動こうと思っても完全に動けない状態だ。今わたしを抑え付けている人数は、計六人。見なくても、触覚だけでそうと分かる。
「が……ぐ……ッ! さ、触るな……! 触るなぁ……っ!」
それでも必死に動かそうともがく。抑え付けられている右腕を精一杯に上げようとする。
が、
「動くなッ!」
「ッ! ぅぅぅぅぅぅ……ッ!」
圧迫される。筋肉が潰れるのではないかと思うほどに強く、抑え付けられる。
痛い。死ぬほど痛い。
ふ、ふざ――
ふざけるなよ。十七歳の小娘にこんな大掛かりで拘束しやがって。お前らに倫理観は無いのか。
そう憤りたくとも、顔を絨毯に押し付けられているのでそれすらも叶わない。
「済まんな」
右利警備員の声がした。後ろから近付いてきているようだ。
歩く音。歩く音。
「コンフィデンスに頼まれてしまってな――立場上、私たちはどうしても逆らえんのだよ」
歩いて。歩いて。
わたしの顔の近くまで来て。
その場所でしゃがみ込む。
「フー……! ふ、ぅ……ッ!」
「抵抗するな。そう抵抗してもいいことは何もないぞ。あまりに抵抗が酷いと、こっちも力加減が出来なくなる。動けば動くほど、自分の首を絞めるだけだ」
知ったような口を効くな。
わたしがどれだけの意思でコンフィデンスを裏切ったのか分かるのか。
捕まったら死ぬ。文字通り死ぬ。ならば必死になって当たり前――必ず死ぬのだから、必死になって当たり前なのだ。
死ぬくらいなら――首絞めだって大いに結構。
「おおおぉぉ……ッ!」
「うお!?」
「お、抑えろ!」
わたしは本能的な力を使って体を起き上がらせる。人間はふだん力を幾分かセーブしていると言う。そのセーブされた力を発揮して、無理やり起き上がるのだ。
が、右利警備員は、
どこまでも抵抗するわたしに苛立ったようで、
呆れるように、
「……。もう外せ」
と言い、
「はっ!」
それを受けた警備員は、
わたしの右腕と、
わたしの左腕を、
ぼぎっ、
ごぎっ、
――曲がらない角度に曲げて、
「があああああああああああああああああああああぁぁあああああああああぁぁぁぁぁーッ!!」
脱臼させた。
衝撃的な痛みが走る。
関節を外された上腕骨と橈骨・尺骨。
無理やり、あまりにも無理やり。
壊された。
破壊された。
前腕の感覚が失われる。
さっきまで動かせたものが、動かせなくなる。
「がああああぁ! あああああああぁぁあああああああッ! ああ……ッ!」
さらに右利警備員は、
無言で、
わたしの後頭部を鷲掴みにして、
「……っ! ――ごぶぉッ!!」
絨毯に打ち付けた。
下げる、などという生ぬるいものでは決してなく、さながらわたしの顔面を押し潰すように。
五月蝿い小娘を黙らせるために。
「げぶ……! ご……ッ、ほぁ……」
顔の痛みは想像を絶するほどに強烈で、わたしの体力は根こそぎ奪われた。
息が切れ切れ。
口と鼻から血が出てくる。
だらだらと垂れ出て、口元が熱い。
血生臭くて、呼吸すらままならない。
鼻の骨は骨折したかもしれない。
死ぬような痛み。
痛み、単純な痛み。
痛みが痛い。
ただの痛みによる――涙も。
零れて、零れて。
泣きじゃくりたくなるような――痛みが、痺れるように痛い。
腫れる、火傷するみたいに腫れる。
殺してほしくなる痛みが顔面中に広がる。
蠢くように。
じわじわと。
痛い、よ。
わたしの頭を押し付けたままで右利警備員は言う。
「抵抗するなと言っただろう。いいか。これはコンフィデンスからの命令なんだ。暴力に訴えても構わないとこっちは言われているんだ――裏組織からの権限があるから、こっちは何をしてもいいんだぞ。これ以上抵抗するようなら本当に酷いぞ」
「あ……、う……」
何を偉そうに――とは言えない。
完全に汚職じゃないか――とも言えない。
戦意は喪失した。
抵抗する元気は失われた。
もう指一本さえ動かせない――脱臼させられていなくても動かせない。
萎むように、全身から力が抜けていった。
「…………っ」
「抵抗するんじゃないぞ」
わたしが静かになったものと見えてか、右利警備員は力を弱めた。
喋れるくらいには、顔と絨毯の間に余裕が出来た。
わたしは言う。
「はー……はー……ゆ、ゆ……」
「ゆ?」
口から漏れ出る血液を、
涎みたく垂らしながら。
「ゆ――許して……」
「…………」
「許、して、くらさい……お、おぉ……けふ……、ゆ、許し――許し、許して」
わたしは懇願する。
哀れに、浅ましく、同情を乞う。
お願いします。
もうやめてください。
これ以上痛いのは嫌なんです。
もう抵抗しません。
逃げようなんて思いません。
わたしが悪かったです。
馬鹿な事をしました。
何だってします。
奴隷にだってなります。
だからやめてください。
もう痛くしないでください。
これ以上――乱暴しないでください。
痛いのは、もう、嫌なんです。
許して――ください。
「ゆ、許して……許して――ください」
顔面を絨毯から起こせない。
涙が垂れる。
鼻血が垂れる。
口からは、涎と血。
べったりと絨毯に染み込んでいく、わたしの体液。
目の前で染み込んでいく。
目の前。赤色。
まざまざと、目の前で。
そんなものをこんなにも近く見せ付けられるのは、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
誰か、助けて。
「別に怒ったわけじゃないんだが……」
右利警備員は申し訳なさそうな声で言う。
「本来なら私だってこんなことはしたくない。正義を夢見て警備員に就任した私にとっては、本当に心苦しいことだ。出来ることならお前を逃がしてやりたいとさえ思っている」
しかしだ――と、右利警備員は続ける。
「人はな、理想だけでは生きていけないんだ。やりたくないこともやらなくてはならん、そんな時が何時か来る。今がまさにその時だ。だから済まんな――悪く思わんでくれ」
そんな責任逃れな言葉に対しても――わたしは嫌悪感を抱くことさえ出来なかった。
反抗的になどなれようはずがない。
死んじゃう。痛みの末に死んじゃう。これ以上抵抗したら、本当に死んじゃう。
やだあ。
死にたくないい。
死にたくないよお。
あ、あ、あ、あー、あああああー、あ、あああ、あー、う、えう、う、う、うううう、え、おえ、うううう、うおえ、ううううう、うー、えう、えう、ううううー、お、おえ、い、いいいいいいいー、いいー、いいいいい、いいい、いい、いいいいいいいいいいいー、いい、いいいいい。
死にたくない。
生きているから、死にたくない。
潔く死ぬとか無理。
失敗なんて御免被る。
「ご、ごめん、な、さい……。ごめ……なさい……。ご、べ、んうぅぅ、な……さい……」
助けて。
誰か、助けて。
助けて――左右田さん。
来る訳がない。
「謝らんでいい。どうせ謝られても許すことはできないんだ。私じゃなくコンフィデンスの意思なのだから」
右利警備員は、髪を引っ張って無理やりわたしを見上げさせる。
首を引きつる体制になり、めちゃくちゃ辛い。
「だからお嬢ちゃんはもう大人しくしてなさい」
大人しく?
大人のように――諦めろと?
……あんまりだ。
諦めるなんて堪ったものではない。
そんなの納得できるものか。
諦める? 大人のように? 大人しく?
そんなの出来ない。
諦めたら死ぬのだ。
大人しくしていたらそのまま何もできずに終わるのだ。
そんなことなら大人になんてならなくていい。
子供のままでもいい。少女のままでもいい。わがままでもいい。
醜くても浅ましくても無様でもいい。
諦めるなんて、出来るはずがない。
今のわたしに出来るはずがない。
抵抗できない、けれども諦めたくない。
――許して、わたしを助けて。
この最悪の状況から救って。
「…………。もういい。諦める気はないようだから、落としてやれ」
「はっ!」
言い付けられた複数の警備員は、わたしの体制を仰向きに変えさせた。
両腕を脱臼され顔が血塗れになった今のわたし・極限にまで疲弊したわたしは、その唯一無二のチャンスを生かして脱走することが出来ずに為すがままとされる。
そして一人の男に首を絞め技を掛けられて――
「ご……おぉ……」
息が出来なくなり、窒息状態になる。
横で右利警備員は言う。
「失神している間に手錠と足枷を付けさせてもらう。まあその様子だと手錠は必要ないかも知れんが、形式的なものと捉えてくれ――コンフィデンスにお嬢ちゃんを引き渡すが、そこへ私も同行する。ここに居る六人の部下も一緒だ」
やめて。
お願い、助けて。
失いたくない、気を失いたくない。
「お嬢ちゃんは裏切り者としてきっと処刑されるんだろうが……これも定めと受け取ってくれ。裏切り者は報われない運命なんだ。それがこの世の定めなんだ」
そんなこと言わないで。
離して。
こ、こ、こ、呼吸、が、ががが、出来なくくくくく。
意、識……が、途切れ――
「恨むんなら自分を恨んでくれ。間違っても私を恨むんじゃないぞ」
失神する瞬間、わたしは思った。
こいつ、最低の大人だ。
そんな最低の大人に取り押さえられてしまうなんて――情けない、どうしようもなく情けない。
無力な自分が救えない。
「かふっ」
わたしは失神した。
意識を失って、記憶が飛ぶ。
そして目覚めた時、わたしはこれを上回る地獄へと落とされる――




