第〇二話「作戦」
「彼女は悪魔のような存在だが、しかしあくまでも人間だ」
伊行会長はその台詞を皮切りに黄色仕掛け作戦についてを話し始めた。
時は八時半。
所は会長室。
目測して十八畳くらいの広い部屋。扉からの正面奥には一畳ほどの面積である重鎮な木製デスク(携帯電話らしきものが中央に置かれてある)があり、伊行会長はそれに座っている。対してわたしは、伊行会長に対面する位置で姿勢良く立つ。
作戦名・黄色仕掛け作戦。
廊下を歩いている際に教えて貰えたのはその名前のみだった。
肝心の作戦内容はこの会長室で教えるとのことだが、さて如何に。
伊行会長は言う。
「むろん悪魔であろうとそうでなかろうと、彼女がコンフィデンスにとって邪魔であることには変わりは非ず。邪魔者は除かねばならぬ。そのために行うのが黄色仕掛け作戦だ」
伊行会長は、机に両肘を乗せて手を組み、それで口元を隠すようにした。ゲンドウのようなポーズである。
それから言う。
「とは言うもののいきなり作戦内容を語るのは止す。正当な理由を無くして部下を動かすのは、乃公の流儀でないからだ。降って沸いた話を盲目的に信じろと言うのは無体というもの。そんなことでは信頼関係など気付けまい」
わたしは、伊行会長の心意気に何か賛美の言葉を送るべきだと思ったけれども、それは横槍を入れるような無粋に思えたため黙し続けた。
信頼――それは、コンフィデンスにおける標語である。人間関係において最も重んじるべきは信頼であるというのがコンフィデンスの基本理念だ。
信頼するということは、自分を相手に託すということである。それが出来る人間は、それだけで関係が円滑になる。組織というのは人間関係の集合体だから、信頼できる人間がとくに重要視される場所なのだ。
信頼を重んじるコンフィデンスだからこそ、裏切りに対しては残酷極まりない罰を処す。託してきた相手を裏切るというのは、その相手の人間性を根こそぎ奪ってしまうという最悪の泥棒だ。精神的な殺しだ。決して許されない。
惨く殺す。
そういう風に信頼関係を重んじるコンフィデンスだから、例えば他人に消極的な態度を取る人間は疎まれる傾向にある。自ら信頼関係を築こうとしない者には風当たりが厳しくなってしまいがちだ。自己開示しない者には信頼できない。可哀想だがその人物は腫物扱いされるのがコンフィデンスにおいての法則である。
……まあ、それはわたしのことなのだけれど。
「信頼というものは美しいものだ。乃公は太宰治の走れメロスが好きでな。名場面は、何と言ってもセリヌンティウスが『私を殴れ』と言ってきたところだ。あのシーンこそがメロスとセリヌンティウスの強固な信頼関係を物語っている」
「なるほど。鋭い意見だと思います」
わたしは感心するような声で相槌を打った。ずいぶん昔にいちど読んだきりで忘れかけているわたしでは、そんな風に相槌を打つくらいしか出来ることがなかった。
憶えているのは冒頭の『メロスは激怒した』くらいである。
内容は、走っていたことくらいしか思い出せない。
咳払いしてから、伊行会長は言う。
「とかく話すからには土台まできちんと話す。それでこそ信頼関係は築けよう。干于。なるたけ手短にだが、黄色仕掛け作戦を行うその理由を今から話そう」
伊行会長は手を解いて、前傾姿勢を崩して椅子に凭れた。
「主に話す事は三つある。一つ目・彼女に目標を定めるのは何故なのか? 二つ目・彼女を倒すのは何故なのか? 三つ目・彼女を倒すにはどうすればいいのか? この三つだ」
そう言って伊行会長は、右手で三本の指を立てた。
妙な立て方だった。
立てている三本の指のチョイスは、奇怪なことに人差し指と中指と小指である。こちらに晒されているのは手の甲なので確認できないが、恐らく残った親指と薬指はくっつけて輪っか状になっているのだろう。
というかそれは、どう見てもショッカー・サインだった。
……知ってて使っているのだろうか? だとしたら今わたしはイギリス式のセクハラを受けているわけになるのだけれど。
「一つ目・彼女に目標を定めるのは何故なのか? 彼女に目標を定めるのは、デフォ戦士が彼女に頼った組織だからだ。コンフィデンスとデフォ戦士が拮抗しているのはバランスが互い同士で均一となっているからであり、デフォ戦士における働きの比率は九割近くが彼女で占めている。デフォ戦士の実戦部隊は彼女しかいなく、彼女を倒せば組織全体が瓦解するのは想像に難くない――従ってデフォ戦士が彼女に頼った組織ゆえ、彼女に目標を定めるのだ」
言って人差し指を仕舞う伊行会長。
立っている二本の指は中指と小指。
奇怪な指の形が、さらに奇怪となった。
「二つ目・彼女を倒すのは何故なのか? 彼女を倒すのは、コンフィデンスに突っかかってくる邪魔者だからだ。デフォ戦士は表と裏の住み分けを弁えぬ組織であり、ことコンフィデンスに対しては酷く敵対的な態度を取る。コンフィデンスの本部・つまりこの場所を突き止めるのに躍起になっていることからも、乃公たちを壊滅させる気でいることが窺い知れる――従ってコンフィデンスに突っかかってくる邪魔者ゆえ、彼女を倒す」
言って小指を仕舞う伊行会長。
よりにもよって中指が一本だけ立つ形になってしまった。
小指一本を立てられるというのも、それはそれで挨拶に困るところだったが。
「三つ目・彼女を倒すにはどうすればいいのか? 彼女を倒すには、仲間を送り込むことだ。表の人間は正義感が強いため独善的思考に陥りやすく、敵と見なした相手には聞く耳を持たぬ、彼女を説得するのには仲間が適任だ。子供向けの物語では主人公が悪役を説得するシーンが多々見られるが、あれが単なる価値観の押し付けでしかないことを彼らは自覚していない、主人公を揺らがせるのは悪役でなく何時だって仲間の存在だ――従って仲間を送り込むことで、彼女を倒す」
言って手を開く伊行会長。
全ての指が仕舞われて握り拳の形になると思い込んでいたから、これは予想外の展開だった。
予想外というか、もはや意味不明だった。
というより、げ、大変だ。伊行会長の指さばきに翻弄されていて話を聞くのが疎かになってしまった。
「まとめに入る」――あ。よかった――「一つ目・彼女に目標を定めるのは、デフォ戦士が彼女に頼った組織だからだ。二つ目・彼女を倒すのは、コンフィデンスに突っかかってくる邪魔者だからだ。三つ目・彼女を倒すには、仲間を送り込むことだ。以上で黄色仕掛け作戦を行う理由を話し終える――何か質問はあるか?」
「いえ。何一つございません。たいへん分かりやすいご説明でした」
「そうか。ならよい」
わたしは話を理解できているかを確認してみる。
わたしたちはデフォ戦士を倒したい。デフォ戦士を倒すには、彼女を倒すこと。だから彼女を倒す。
彼女は邪魔者だ。邪魔者は倒さなければならない。だから彼女を倒す。
人間は味方に弱い。彼女は人間だ。だから彼女は仲間に弱い。
悪魔のようでも人間だから、
あくまで彼女は人間だから。
仲間に弱い。
うん。確かに理解できている。
「そうして諸々の事情を経て導き出された結論・黄色仕掛け作戦の具体的な活動内容は――彼女と同棲する事となった」
「同棲……」
「同じ空間内で生活を共にしつづければ弱みを漏らすだろうという寸法だ。人は基本的に弱い面を隠すものだが、同じくして弱い面を見てほしいという欲望も兼ねている。真の自分を受け入れてほしいという渇望――それは、どれだけ強い者でも感じている不満だ。誰からも認められぬまま生きていくことは出来ぬ」
一秒の間。
「黄色仕掛け作戦は、そこに付け込む作戦だ。人は信頼した仲間になら心を開く。開かれた心の中にある弱さ――これを見つけるのが作戦の目的。そのために同棲して逸早く仲良くなるのが作戦の動きなのだ」
「なるほど」
わたしは得心した――黄色仕掛け作戦の主意を。
要するに、
裏切りだ。
相手を裏切る前提で信頼関係を築く。コンフィデンスにおいて忌避されている行為をこなす。
そうと分かれば、なるほど任命されたのがわたしであることにも合点が行く。コンフィデンスにおいて最も蔑まれる悪徳・裏切りを行うのに人格者は適さない。信頼することを重んじている者であれば裏切ることに強い抵抗感が生じる。その点わたしはBクラスという地位に着いておきながら消極的な性格だ。信頼するのが下手っぴだからこそ裏切りの任務にはぴったりである。適材適所。これはわたしにしか出来ない作戦だ。
けれどもわたしは何となく好い気持ちがしなかった。
浅い理解で格付けされたかのような気持ち。
分かってないのに分かっていると言われたときの気持ち。
そんな気持ちが胸の中に蔓延する。
鬱陶しがられるだけだろうから、その気持ちを吐き出すことはしないけれども。
伊行会長は言う。
「三か月前から作戦の土台作りを行っていて、この同棲するというのは作戦の最終段階だ。話は付けてあるから同棲までの手順は煩わせない。残りはお前が『やる』と答えてくれるのみ。今回の作戦を成功させた暁には、Aクラスの昇進を約束しよう――言うまでもないが、失敗は死だと思え」
「…………」
「干于千――乃公の信頼に応えてくれるか?」
伊行会長は問うた。
わたしは答える。
「はい。喜びに喜んでやらせていただきます」
「正しい返事だ」
がたん、と伊行会長は席を立って、デスクの上に置いてあった携帯電話らしきものを手で掴み、それからわたしの方に向かってきた。
「これを持って行け」
「なんですか、これ?」
「携帯電話だ」
携帯電話らしきものではなく、そのまま携帯電話だった。
わたしは携帯電話を受け取る。
「通信内容が傍受されぬよう作られた自社製だ。エシュロンにも引っかからぬ。作戦中の動きはこれで指示する。仲介人はCクラス情報部所属・喇叭叱咤だ」
「分かりました」
「さて」
伊行会長は半回転してわたしに背を向けた。
「これで話すべきことは大体のこと伝え終えた。後は現場に向かってもらうのみだ」
「…………」
「いちおう訊いておこう。緊張しているか?」
「……そうですね。久々の大仕事ですから。でも――」
わたしは、貰った携帯電話を両手でぎゅうと握る。
この黄色仕掛け作戦はわたしにとって一世一代の大仕事だ。作戦の成否によってコンフィデンスの未来までが掛かっている。そのことを意識すると緊張しないわけがない。成功すれば、わたしは組織の英雄になれるかもしれない。けれども失敗すれば、わたしのせいで組織が壊滅させられてしまうかもしれない。責任重大という言葉にも限度がある――この作戦は、わたしの器量を遥かに超えているように思えてならない。
だけど彼女を倒せる作戦はこれしかなく、
彼女を倒せるのはわたししか居ないのだ。
必然性と必要性を双肩に担ったならば、わたしがすべきは未来を悲観視することでなく、未来を切り開くこと。
誰にもできないのなら、わたしがやらなければならない。
たとえ失敗が死を意味したとしても――だ。
やらなければわたしは豚、
できなければわたしは死。
それらを避けるために、わたしは何がなんでも黄色仕掛け作戦を成功させてみせる。
「が……」わたしは固唾を呑む。「頑張りますっ」
「ああ。乃公はお前を信頼している」
伊行会長のその言葉を聞いて、わたしは少し気を落ち着かせた。
気を落ち着かせて、そこでわたしはふと疑問に思った。
「伊行会長。ところでこの黄色仕掛け作戦はいつごろ発動するのでしょうか? それによっては早いうちに準備しておいたほうがよいと愚考しますけれど」
「それか。それはだ……」伊行会長は部屋に飾られた時計を見る。「今は八時五五分か。向かうまでに三時間かかるから……」
伊行会長は、背を向けた姿勢のまま顔を横向けて言う。
「作戦は今日の正午から行われる。だから干于。お前は五分で本部のヘリポートに向かう必要がある」
「え?」
ちょっと待って。
会長室からヘリポートって、どれだけ速く行っても十分程は掛かる距離なのだけれど。
それを五分で……?
「彼女は遅刻する人間が許せない人種だから、一刻も早くヘリポートに向かえ」
「え? えっ!? あ、あのっ?」
「服装などはそのスーツのままでもいい。速くしなければ出会ってそうそう腹にいいものを貰うぞ――行くのだ干于。遅刻せずに彼女との待ち合わせ場所へ向かえ。それが今作戦の第一命令だ」
「は、はいっ!」
わたしは大慌てで会長室の扉に向かう。
走りながら携帯電話をスーツの内ポケットに仕舞って、そうして会長室を後にした。
後ろから、声が聞こえる。
「彼女との信頼のために――走れ干于」
会長は激励した。