第〇一話「少女」
本日が自分の誕生日であると気付かぬまま、わたしは目を覚ました。
布団にこもりながら時計を覗くと、午前五時を差している。
もぞもぞと蠢いて、眠たい目を撫でる。
瞬き二回。
口元によだれの跡を感じる。口を開けながら寝ていたのだろう。わたしはそれを一舐めして、指で拭った。
わたしは布団から出る。それから朝の習慣を淡々と行う。まずは偉いことになっている寝癖を櫛でとかす。うなじを突く毛先がこそばゆい。洗顔・歯磨き・体操を終えてから朝食を食べる。あくびを漏らしながら布団を押し入れに仕舞う。朝の日差しを浴びながら三十分ほど小説を読み、茶葉が切れかかっていたのでメモ帳に書き留めておいた。机に置いてある書類を流し読みしながら脳を仕事モードへ切り替える。だいぶん覚醒してきたので寝間着から黒のスーツへと着替えて、午前七時頃にわたしは部屋を出た。
灰色の廊下を歩いて向かう先は、自分の部署である。部署は廊下を真っ直ぐ行った奥のところにあって、距離はそう遠くない。
歩きながら色々の記憶を掘り起こす。部屋で流し読みした書類を思い出して、それを再読する。そうして今日の予定を検討する。わたしはこの時間が好きだ。今日一日の計画を立てるのはとてもわくわくする。今日も充実した一日を送りたい。
と、そうして色々のことを思い出していると、ふと頭の中にある単語が浮かんだ。
誕生日。
そうだ。今日はわたしの誕生日だ。
「…………」
だからといって何というわけではない。今日が誕生日であるからといって、そしてそのことに気付けたからといって、歩く足を止めたりなんかはしない。誕生日プレゼントを生まれて一度も貰ったことのないわたしにとって、誕生日など取るに足らない事柄だ。今ようやく気付いたことからも、それのどうでもよさは計り知れる。
わたしは今日から十七歳となる。世間的に十七歳を迎えたといえば大概が高校二年生となるわけだが、わたしは高校に通っていないので女子高生という肩書きを名乗ることが出来ない。別に名乗りたかったわけではないけれども、しかしそうだからといって、わたしはフリーターというわけでない。わたしは十七歳でありながら職に就いている。職に就いているからスーツを身にまとっているのである。
わたしのする仕事はどんなものか。それを言うのは、しかし憚られる。というのは、わたしの働く組織はとても簡単に語りつくせないものだからだ。むやみに長ったらしい講釈をするのもどうかと思う。なにぶん第一話ということでわたしも読者もいささか緊張しておられるだろうし、最初の話で細かく設定を固めておくと後々動きづらいという事情もあるので、ここは一つ曖昧な印象を言うだけで勘弁していただきたい。
というわけでわたしの組織を印象的な一言で表すと、それは、裏組織である。
名をコンフィデンスという。
自らの属する組織・コンフィデンスを裏組織呼ばわりするのには訳がある。長々と紹介するつもりはないし全貌を表せるとも思わないけれども、これだけは言っておかなければならない。まず何と言っても取り扱う仕事が表沙汰にできるものではない。全部が全部そうであるとまでは言わないが、大抵が命の危険を伴う。取引・諜報・工作・暗殺などなどを請け負っていれば合法的な組織だとは言い張れまい。
わたしもこの組織の一員であるから、そういうことには手を染めている。悲惨な光景だって飽きるほど見てきたし、弱者から大切なものを毟り取ることも多々だし、それに――返り血も浴びたことがある。
しかしわたしがコンフィデンスを裏組織という最大の所以は、裏切りに対する制裁の惨さにある。裏組織というものは存在がばれてしまうことを何よりも恐れているため、情報を漏らした裏切り者には宗教よりも厳しい制裁を与えるものなのだ。極道でもそう、マフィアでもそう、コンフィデンスでもそう。拷問をして苦しめた末に殺す。裏切ればこんなに酷い目に合うのだぞ、と見せしめをする様は裏組織特有のものである。
もちろんこちらもわたしは見てきた。時にはわたし自身が裏切り者を始末することもある。だからコンフィデンスを裏切ろうとは思わないし、仕事には精力的に取り組む姿勢を保っている。
目的地・自分の部署に着いた。わたしは誕生日云々といった浮付いた事々を忘却して思考を打ち切り、それから扉を開ける。
……そのためにドアノブを握ったところ、その瞬間を狙い澄まされたかのように扉が内側に開いた。後からすればこれは全くの偶然だったから、狙い澄まされたかのようにと言うのは自意識過剰というものだったけれども。
勢いに吸い込まれたわたしは、倒れこむように部屋へ闖入する。そうすると部屋の中から扉を開けたであろう人物の懐にもろに潜り込んでしまった。
「ふが」
変な声が漏れた。
わたしの身長は平均よりもやや低く、またその人物の身長が高かったのが災いした。そのせいで男性の胸に泣きつく女の子みたいな状態になってしまったからだ。いやこの身長差が無ければ接吻していたかもしれないと考えると不幸中の幸いと言うべきかもしれない。
「あ、ご、ごめんなさい」
慌てて言いながらわたしは人物の前に立つ。
そうして目の前の人物を見上げたわたしは、面喰った。
わたしがぶつかってしまった人物は、コンフィデンスにおける最高権限者であるところの伊行生死血会長だったのだ。
伊行会長は微動だにせず言う。
「何をする」
「いや。あの。ちょっとこけてしまいまして」
「気をつけろ」
伊行会長は荘厳さのある中年男性である。身長が高くて肩幅が広い。会長と言われて納得させられるだけの威厳が確かとしてある風格だ。
その伊行会長にわたしは睨まれている。ただ単に見下ろされているだけなのかもしれないが、頭一つ分の身長があるとそれほどまでの厳めしさをひしひしと感じ、圧巻というものがあった。
伊行会長は動く気配がない。扉の先に伊行会長が立っておられるから、わたしとしても動くことができない。はたと気付き、もしや伊行会長が動かないのはわたしが扉の前に立っているからなのではと思い及んだ。お互いにお互いを通せん坊しているというわけだ。
わたしは身を退いて伊行会長に道を譲る。
しかし伊行会長は尚も動かなかった。
しばしの沈黙にわたしは汗を垂らす。
やがてわたしは我に返り、一つの質問をした。
「あの。会長。ところでどうしてわたしの部署から出てこられたのですか?」
伊行会長は普段なら会長室におられる。他の部屋に足を運ぶことは滅多にない。コンフィデンスには階級制度があって、AからFまでの六クラスで分けられており、数が若いほどに待遇や報酬が良くなるシステムになっている。その中でも最高に位置しているAクラスの部署に出向くのならまだ分かるけれども、わたしの所属である部署・Bクラスに来られることは異常事態と言ってもいいくらいだ。それは、無名の雑誌に一人だけ大物作家を起用するくらいのミスマッチである。そこに居るというだけで異様なのだ。
わたしの問いに、伊行会長は答える。
「お前に用事があったからだ」
「用事?」
なるほど。つまり伊行会長は、わたしに会うためにこの部署に来られたというわけだったが、肝心のわたしが部署に居なかったため出てきたというわけだ。
しかし、はて、用事とは何だろう。理由が分かったというだけで異様さは拭いされていない。コンフィデンスの基本的原則として、組織から何らかの通達を受けるときは、媒介を通じて言い渡されるのが通常だ。けれども今回の場合はそれに当てはまらず、最高権限者である伊行会長がじきじきに言い渡すという話になっている。それだけで用事とやらの只事でなさが暗示されているわけだが、さて、果たして。
「干于」
伊行会長は、わたしの名を呼んだ。
「お前もそろそろAクラスに昇進したいと思い始めている頃だろう」
「え。えぇ。あい」
緊張しすぎて、「はい」と言うべきところを「あい」と言ってしまった。
わたしと伊行会長はそんな砕けた間柄でない。
わたしの突発的な馴れ馴れしさには特に応じず、伊行会長は言う。
「お前は何時までもその程度の地位でのらくらしていい人材ではない。周囲からあまりよく思われていないと聞いているが、乃公はお前の能力を信頼している」
「お褒めにあずかり光栄です」
わたしの礼に、伊行会長は少しの間を置いた。
それから興味深いことを言う。
「デフォ戦士という組織については、まだ話していなかったな」
「デフォ戦士?」――なんだ、その寝ぼけた名前は? 聞いたことのない組織だけれども――「そうですね。聞き覚えがありません」
「軽く説明すると、乃公たちの組織・コンフィデンスが裏の頂点だとするのなら、デフォ戦士は言わば表の頂点だ。表の難事を取り扱う――それがデフォ戦士」
「好敵手ということでしょうか?」
「そうだな。コンフィデンスとデフォ戦士との立ち位置は大体そんなところだ」
伊行会長は様相を厳めしくする。
「デフォ戦士は、彼女を中心にして動いている組織と言える。彼女はこの業界において最強という称号を欲しいままにしていて、その称号に恥じぬ力を備えている。こんなことを言うべきではないが、コンフィデンスにおけるAクラスの人間を動員しても彼女には傷一つ付けられぬだろう。彼女あるところに不可能はなく、ありとあらゆる事象を残さず余さず解決してしまうという。彼女は、そう、まさに生きた伝説と言うべき存在」
一転し、伊行会長は厳めしい顔を和らげて、笑うように言った。
「邪魔なのだ」
老獪の邪悪な笑みを受けて、わたしは僅かに竦む。
暗澹とした黒い霧が、伊行会長の後ろに立ち込めているようだった。
再び厳めしい顔付きに戻って、わたしを睨む伊行会長。
「乃公の言わんとしていることは分かるな?」
「え。ええと」
わたしはたじろぎながら答える。
「いえ。済みません。よく分かりません」
この答えは、わたしの本心だ。今の会話の流れでどこに繋がっていくかなど予想できなかった。
まずデフォ戦士とかいう組織そのものが初耳である。コンフィデンスに対立した組織があるとは露とも知らなかった。わたしが無知だったからだろうか……いや伊行会長は「まだ話していなかったな」と仰っていた。とするとそれは、故意に教えていなかったと考えるのが妥当だろう。そうであれば今までわたしがデフォ戦士とやらを知らなかったのも当然なのかもしれない。
次に気になるのは、そのデフォ戦士に属している彼女の存在である。話を聞くだけでも彼女の最強さ加減は尋常でない。Aクラスの人間を動員しても傷一つ付けられぬというのは、流石に誇張表現が入っているような気がする(もしもそれが本当だとしたら、好敵手と言える間柄に成り得ない)のだが、それでも普通という枠を大きく超えている。少なくとも誇張表現を交えなければならないほどに伊行会長は警戒しているわけではあり、彼女という要注意人物にはそれほどまでの存在感があるのだと思わせる。
しかし以上の話を総括してみても、次に繋がる話が見えてこない。
まさかAクラスの人間を動員しても傷一つ付けられぬ彼女に対して、Bクラスのわたしが立ち向かうというような話にはならないだろうし……。
そんな話になったらお釈迦様もびっくりだ。
「なんだ。分からぬのか。乃公の言わんとしていることは――」
伊行会長は静かに仰る。
「彼女を倒せ――という任務をお前に与えることなのだ」
わたしはびっくりした。
お釈迦様もびっくりだ。
「え? えっ? あの。あのっ」
おや。これはどうしたことだ。会長はご乱心か? それともわたしに死ねと仰るのか?
わたしは手をわさわささせて焦る。
本気で命令されているのなら死ぬ覚悟を決めるつもりだけれども、出来れば詳しい事情を教えてからにしてほしいというのが正直な感想だ。
伊行会長は動いて、廊下を歩き始める。
「詳しい話は会長室でする。付いてこい」
「いや。えっと、えっと。その彼女って、Aクラスの人間を動員しても傷一つ付けられぬなんですよね?」
「そうだ。彼女はAクラスの人間を動員しても傷一つ付けられぬのだ」
「Aクラスの人間を動員しても傷一つ付けられぬなのに、どうしてBクラスのわたしが……ですか?」
「大丈夫だ。策がある」
「策って、いや、そんな。だとしてもどうしてわたしなんですか? Bクラスの人間はわたし以外にも沢山いますよ?」
「なんだ。嫌なのか?」
「いえ。そういうわけではありませんけれど……」
「なに。深く考えることはない。が、そうだな。お前を選んだ理由を強いて言うなら――」
伊行会長は言った。
「乃公からの誕生日プレゼントだとでも思っておけ」
――これが、十七歳となったわたしの、生まれて初めて貰い受けた誕生日プレゼントなのだった。