2.その少女の夜話
少女はやはり、魔女だった。しかし、人を捕って喰うことはなく、菜食主義に近いらしい。 一通りのことが済んだ後、クリストハルトは少女の黒髪を撫でながら、その話を聞いていた。
それは、クリストハルトが丁度10歳の頃、少女が産まれる前の出来事。
少女の母は、時の魔女と呼ばれていた。大層な名前だが、時の魔女にはそれに見合うだけの実力、存在しないとまでいわれることのある時の魔法を使えたのだ。時の魔女は都近くの森の奥に住み、静かに暮し、時の魔法は森での忘れ物を探す時にしか使わなかった。
あるとき、昔話によくあるように、とある若い貴族が狩りの折りに宿を求めてきた。時の魔女は快く部屋を貸し、食事でもてなし、馬をなだめて手入れをした。そのときに、若い貴族は戯れのつもりで、時の魔女と関係したのだ。その、たった一度のことで時の魔女は新たな命をその身に宿した。
時の魔女は、ひっそりと、子を産むつもりでいた。
しかし、戯れが本気へと変貌した貴族は、時の魔女を森の外へと連れ出し、別邸に住まわせた。
「森で孤独に暮す年頃の女性を、日の当たるところへ導き、面倒を見ているのだ」
若い貴族はそう周囲に吹聴したが、実際のところ、体のいい監禁だった。それを善しとしなかったのが、若い貴族の父親だった。
「息子が別邸に入り浸っている? しかも別邸に、どこの誰とも分からぬ女を住まわせているだと?」
若い貴族の父親が息子の時の魔女へ傾倒していると知ったとき、魔女の体は、すでにゆったりとした丸みを帯びていた。
「あの女は時の魔女! 我が息子は人肉を食らう魔女に唆されたのだ!」
有力者の言葉は瞬く間に広がり、尾ひれがついて一人歩きし始めた。
人の手による堕胎が罪とされていたこともあり、若い貴族の父親は2つ策を打つことにしたのだ。
「狂言誘拐」
目を伏せがちに語っていた少女が、クリストハルトの目を見た。
「時の魔女が子どもを誘拐し、その肉を食べていたと、罪を被せるために、10歳のあなたを、誘拐することになっていたの」
成績もまあまあ、真面目だが優等生ではない、極々普通の地方領主の三男坊。丁度良く変えのきく、けれど人の噂話になる程度の身分。溜息を打ち消すために、クリストハルトは少女の額に口づけた。
「あの時の僕は、今にも死にそうな、大層貧弱な少年だった」
「ええ、鏡で見た時にそう思ったわ」
「あのままの僕が誘拐されていたら、僕はどうなってた? 君はどうなってたんだい?」
少女は再び目を伏せた。思案するように艶やかな唇が微かに動いて、少女の頬がクリストハルトの胸に触れた。
「私が時の魔法で、鏡で見た通りなら、薬で眠らされたあなたは、少しばかり何かにかじられて、湖の底で冷たくなっていたわ」
少女の長いまつげが瞬くのを感じながら、クリストハルトは少女の肩を抱いた。
「私は産まれ出ることもなく、温かさを知らないままだったわ」
その華奢な肩が震えた。ああ、なんて恐ろしい夜話。そう思いながら、少女の背に手を当てて、少しでも温めてやろうと努めた。幼いころ、クリストハルトの母は風邪で震える少年にこうしてくれたのだ。その母も、4年前に亡くなったけれど。
しばらくして、少女はクリストハルトの青い眼を見た。
「けれど、今、私は温かいわ」
クリストハルトの頬を両手で包み込むと、少女は熱を持った唇を重ねた。それは、触れ合ったような、僅かな時間。少女の唇は恥ずかしそうに、ありがとう、と言葉を紡いだ。クリストハルトはその言葉を唇で受け取り、少女を抱きしめた。柔らかな身体と甘い香りが、今まさに自分の胸を押す豊かなふくらみが、体の芯を痺れさせる。
「僕の方こそ、感謝するべきなんだ。もしあの頃のまま生きていても、いまのように仕事はできなかった。心も、体も、自分も、他人も、今の方がずっと良い」
少し力をゆるめると、「よかった」という言葉と少女の口づけが胸に響いた。
「アンティア、君が僕に教えてくれた、だから僕は誘拐されずにいまここにいるんだ」
なめらかな肌伝いに、肩から背中へ背中から腰へと、指は流れてゆく。
「あなたが言われた通りの方法で身を守ったから、私は……っ……ん……」
アンティアは反射的に緊張した体を小さな吐息とともにゆるめて、短く刈り込まれた髪へ長い黒髪を預けた。ゆっくりと動く指を感じて、まぶたを閉じた。
明日は休日、小瓶の酒はまだ半分以上残ってる。日曜日が来る度に1冊ずつ増えてゆく本達に、学生寄宿舎で愛用していたあの鏡、簡素な寝台しかない小さな部屋、窓辺に置かれたらヴァンデュラの冠を、満ち足りた様子の月が照らしていた。
活版印刷が我々の世界よりも早くに開発されている様子。