1.とある少年の話
王都学院は1世紀程昔にひらかれ、当時すでに古城と呼ばれていた城を改築した学舎が現在でも使われている。いかにも由緒正しい伝統校であることを誇るように、蔦が絡み付くがまま、風雨に晒されるがまま、頑健に立ち続ける東塔の最上階に、とある少年はいた。深みのあるブロンド、赤みの目立つ肌、くすんだ青い眼、薄い唇。現代ではとんと揃わない古めかしい組み合わせで、当然、あまり子女に人気がある方ではない。学院に少女は少なく、いても勝ち気な姫君ばかりで、大人しい少年には目もくれない。
激しく雨が打ち付ける窓を見て、声変わり前の少年は、浅くため息をついた。
「僕が誘拐される? まさか、誘拐犯はどうかしてるよ」
少年は貴族ではない。まして王族でも、高位神官の親戚でも、成金商人の息子でもない。極々普通の、地方領主の三男坊だ。実家は長兄が継いで領地では従来通り農業と林業を推奨し、次兄は学院で技術職員をしている。
「あの鏡の女は、きっと魔女に違いない。そうだ、そうに違いない」
自室の鏡に突然浮かび上がった女の姿に、少年は下の方から上の方まで震え上がったのだ。白い肌、黒い髪、灰色の眼、赤い唇。初対面の少年の名を呼び、警告してきた。
「魔女は人を捕って喰うというけど、あの魔女は本の挿絵より美人だったなあ」
どうせ捕って喰われてしまうのだ、せめて苦しまずに逝けるように、あの美しい魔女に気に入られるようにしよう。そうだ、魔女の言う通りにしていよう。
魔女の言いつけはこうだ。
髪を短く刈り込み、クコの実を1日3粒食し、赤い岩石の粉末を石鹸に練り込んで使い、夜寝る前にラヴァンデュラの冠を枕元に置き、目覚めたら月桂樹の冠を被り朝日を浴びること。常に、水晶を持ち歩くこと。
幸いなことに、学生寄宿舎が全室個室だったこと、そして友人が少なかったこともあって、少年の異変にほとんど誰も気付くことはなかった。
そのまま月日は流れた。少年はあれから3年後に王都学院義務課程を修了し、5年の高等課程、さらに4年間の専門課程を修了し、王都で5本の指に入る大商人の店で働き始めて6年が経っていた。少年はすでに声変わりし、少年ではなくなっていたが、魔女の言いつけを守って生活していた。
少年は青年になった。それも、多くの人が憧れる魅力的な青年に。
ある月の美しい晩、青年は静まり返った3番街を歩いていた。少し遠回りをして、借りている共同住宅へ向かうのが日課だ。明日は休日。青年は、店で少し安く手に入れた高級酒の小瓶を手にして、気分が良かった。
明日のブランチはそこの喫茶店でホットサンドにしようか、いや、あっちの食堂でガレットを食べようか、と思ったときだった。
衝撃が、胸、いや、腹へ。生暖かさが、脇腹から背中へ、ずり落ちて腰へ、服がぺったりと肌についてきた。ああ、何が起きたんだ。青年はぶつかってきたそれを、おそるおそる引き離そうとした。
「ありがとう」
青年に抱きついた少女が青年を見上げた。闇夜にとけ込む黒い髪、月の光を受ける白い肌、星のような灰色の眼、熟れた果実のような赤い唇、純白の質素な衣服の少女。あの時の魔女! 驚く青年の左手を、少女は、両手で包み込んだ。
「あのときに言った通りにしてくれたのね」
事務仕事でややかさついた青年の左手を、少女は自分の胸へと押しあてた。
「あなたのおかげで、私は今、生きています。ありがとう、クリストハルト」
名前を呼ばれて青年は、あいていた右の手で目の前の少女を抱きしめた。突然現れた天使のような少女を、裸足で薄着のわけを聞きたいのもあるから、本と鏡と寝台くらいしかない自分の部屋へ招待することに、クリストハルトは決めたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
この話の副題は、クリス君の下心。幼いころからってのが、書いてて怖い(笑)
ちなみにラヴァンデュラはラベンダーのこと。