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暗闇を背景にして、パチパチと火が踊る。
本日のメニューは、焚き火ではじけた焼き栗、川魚とクレソンを大きな葉っぱで包み蒸し焼きにして、酸っぱい野生のリンゴとクルミのソースをかけたもの、潰したイネ科の実を煮込んだ薄いお粥のようなスープ、そしてデザートに木苺。
どうしても温かいものが飲みたくて作った不恰好なお椀や鍋は、ちょうど良い形の流木を拾ってきて、内側を燃やしてくりぬき、砂で磨き上げた。木なので火にかけることはできず、水を張って熱した石を入れ、地道に湯を沸かすしかないけれども、愛着のある品々だ。
最初のうちは苦労していた食料採集も板についた。仕掛けを作って魚をとり、渋のあるドングリや山菜は川の流れにさらしている。
本当は鳥の一羽でもしとめたいところだが、石を投げても距離も方向も全くのノーコンで無理を悟った。諦めも時には必要ということにしておこう。
それにしても、今日のご飯は美味しかった。
ずっと塩気のない食事に辟易していたのだが、嬉しいことに三日前発見した温泉が、ほんのりと塩気を帯びていたのだ。温かいお湯に浸かれる喜びもさることながら、思いついて温泉の湯で料理を作ると、一味も二味も違う。日常の食事から考えれば塩気ともいえないほどの微かな塩味だが、調味料のない食事に一ヶ月慣らされた舌には十分な味つけだ。
夕食後、私はお椀に入れたヨモギのお茶を啜りながら、膝を抱えて焚き火を見つめていた。
この火は、キリモミ式で熾したものだ。なにしろ反射板は日中、それも条件のいいときにしか使えない。火種をどうやって保管していいかわからなかったし、どんな獣がいるかわからない暗闇で火を焚かないでいるのは不安だ。森を歩いていると獣の気配を感じ、時折鹿の姿を目にすることもあったが、積極的にこちらに近づいてくることはない。しかし、危険な動物がいないという保障もなかった。
なにより、一人きりで暗闇に包まれるのは、恐ろしくてたまらない。しかし、懐中電灯は電池が切れるのが怖くて、よほどでないとつけられない。
一分足らずで火を熾せるようになるには、相当な時間と手の皮の犠牲を要したが、人間、死活問題となれば大概のことはできるものなのかもしれない。
風もなく穏やかな夜。レモンイエローの大きな月は中天に差しかかろうとしている。
多少の風雨はあったが、森は幸い大規模に荒れることはなく、私が住まわせてもらっているうつほは今のところ概ね快適だ。
一度雨が二日間降り続いたときは、川原に幾筋も流れができ水かさも大分増したので、一段高いところに居を構えたのは幸運だった。
誰かと話をすることもないので本来不要だが、私は宇津保物語から名を借り、住処の木のウロをうつほと呼んでいた。物語と違って超常現象が起きるわけではないが、私にとってこのうつほは安らげる安全地帯、大袈裟に言えば聖域のようなものだ。
焚き火が消えないよう枝をつぎ足して、わたしはうつほに入った。柔らかな枯れ草や落葉を厚く敷き詰めた寝床に、胎児のように丸くなる。温泉に入るついでに、泡立つサボンソウで洗ったスーツはすでに型崩れして久しいが、お日さまと草の匂いがする。
うつほの壁の出っ張りには、持ち物や木の実、燻した魚を入れた、蔓で作ったカゴを連ねて吊るしてある。おばあちゃんから教わったのを思い出しながら編んだものだ。
彼女から教わったことは、いつも思いがけない場面で役に立つ。
おかげで、私は曲がりなりにもこうしてひとりで生きて行ける。
燻る熾火をぼんやりと見ながら眠りについた私の夢の中、久しぶりにおばあちゃんが出てきた。
「凪ちゃん、大きゅうなっても、人はひとりではよう生きられんよ」
昔みたいに、眉尻を下げて困ったように笑いながら。