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本文中に、現代日本においては法で禁じられている行為が出てきますが、それを推奨するものではありません。ご了承下さい。
小鳥たちのさえずりが朝の訪れを告げる。木漏れ日はあくまで優しく、吹く風は爽やかだ。
が、私の目覚めは最悪だった。
足が痛むし、地面に直接丸まって寝ていたせいで全身が軋む。もし今鏡をのぞけば、ひどい顔をしていることだろう。
首を傾けると、バキョッと嫌な音がした。
呻きながら外へ出て、思い切り反り返り伸びをすると、頭上に広がる鮮やかな緑の梢が目に飛び込んできた。
振り返って、朝の光の下で改めてねぐらにしていた木を見ると、感嘆の息が漏れる。
たくましい根は絡みあいながら周囲に伸び広がり、太い幹を地面に縫いとめている。
雷で一度折れたのだろうか、見た目より大きなウロの内部はところどころ黒く焼け焦げているが、周囲の樹皮は分厚く盛りあがり、縁を巻き込んで入り口を狭めていた。ウロの上部からはねじくれた太い幹が二本に分かれ、梢を持ち上げる枝々を支えている。
周囲にこれより高い木は幾らもあるが、年月を経てなお生命力に溢れた姿は、どっしりとした王者の風格をまとっていた。
惚れ惚れと木を眺めていると、不意に腹が鳴った。
お腹が空いた。自慢じゃないが、私は三食きっちり食べる派なのだ。
目を覚ましたのも、鳥に起こされたというよりは空腹に耐えかねた結果だった。
思い返せば昨日帰宅してから今まで何も食べていなかった。口にしたのは川の水だけだ。
食料を確保しなくてはならない。私はギョロギョロと周囲を見渡した。
殺気を感じたのか、地面を啄ばんでいた小鳥が数羽、けたたましく鳴きながら飛んでゆく。失敬な。
鳥が飛び去った後の地面に緑色の球体が幾つも転がっている。これは・・・・・・
「クルミ!?」
駆け寄って手にすると、私が知っているものより一回り大きい。
靴でぐりぐり踏みにじると果皮が砕け、中から茶褐色の硬い核が現れた。幸運なことに、ウロのある大きな木はやはりクルミだったようだ。
嬉しくなってあちらこちらに転々と散らばっている実を拾い集めたが、バケツ半分ほど集まったところで、はたと気がついた。
すぐに食べようと思えば、果皮を取り去った後水に漬けて、残ったカスや渋を洗い流す必要がある。
昨日の川は小高いこちらからはよく見えるが、昨日登った斜面を降りていかなくてはならず、億劫だ。
近くに水がないか探してみることにしよう。
伊達に田舎っ子なわけではない。水がありそうな場所になんとなく見当はつく。
学校に特に親しい友達もおらず、施設に年の近い子供が継続していなかったため、私はよく山で遊んでいた。
小さな頃は迷子になって先生にこっぴどくしかられたこともあったが、大きくなるにしたがって判断力がついたこともあり、過疎で荒れかけた里山は私にとって庭のようになっていた。
古い図鑑を片手に歩き回り、草や花の名前を覚え、木の実を摘む。悲しいことがあると、気がすむまで大きな木に寄り添っていた。
高校進学のため田舎を離れたときは、山が恋しくてたまらなかったものだ。
山のことや食べられる植物を教えてくれるおばあちゃんもいて、一緒に草もちを作ったり、時代劇をみたりした。私が中学の時に亡くなってしまったが、たぶん向こうが思っていた以上に、今でも私の中で大きな存在として残っている。
クルミの果皮が腐り落ちるのを待ちきれずに、そのまま割ってべとべとの手で中身をかき出し口に入れ、エグさのあまり半泣きになった幼い私に、笑って方法を教えてくれたのも彼女だった。
ビニールカッパに拾い集めた青いクルミを包み、お守り代わりの懐中電灯をポケットに突っ込む。
地面には厚く木の葉が積もっており、足元が覚束ないので、足をこれ以上挫く前にパンプスのヒールは思い切って折ってしまった。
手近にある枝を折ったり、草に結び目を作ったりして道しるべをつけながら、水場を探す。
大小の広葉樹が立ち並ぶ森は薄暗いが、樹冠の合間から時折柔らかな光がちらちら踊り陰鬱な雰囲気はなかった。
私が見た限りでは人工物はおろか、人の手が入った形跡もない。
熊や猪と鉢合わせたくはないので、用心のため大袈裟に音を立てながら獣道を辿り、窪地へと向かう。
程なく微かな水音が聴こえ、飛び越えられるほどの小さな流れに行き当たった。
私の山スキルはまだ衰えていなかったようだ。
自画自賛しながら、音を立てて冷たく澄みとおった水を飲み干す。ついでにばしゃばしゃ顔を洗うと、生き返る心地がした。
クルミが流れていかないように、緩やかな水を石や枝で塞き止め、やや上流の浅瀬の石の上で果皮を砕き、水に放していく。
一心不乱に作業を片付け、一息ついてお手製のダムに塞き止められて浮いているクルミの方を見やると、茶褐色の中に何やら白く光るものが混ざっている。
近づいてよくよく見ると、それは小さな川魚だった。流れてきた屍骸かと思ったが、手に取ると僅かに痙攣を繰り返している。
「もしかして・・・・・・」
昔読んだ宮沢賢治の童話の中に、現在は日本では禁じられているという漁法の話が出てきた。
あの話では、クルミではなく山椒を使っていたが、私は気づかずに小規模な毒もみ漁をやってしまったのではないだろうか。
誰にも見られていないというのに、前科一犯になってしまったような居心地の悪さだ。
どうするかしばらく躊躇ったが、小魚はありがたく食材として頂くことにした。
餓えて死んでしまっては元も子もない。
だれ一人私の生を望んでくれる者がいなくても、いや、だからこそ私は生き汚いのだ。
空腹のせいで思考が殺伐とするのかもしれない。早いところ何か口に入れなくては。
急いでクルミ同士ををこすり合わせて洗い、仕上げに川底の砂で凹凸の渋を磨りおとす。続いて平らな石の上に置き、上からもう一つの石を振り下ろして打ち砕いた。
ヘアピンで中身をほじくり出して口に入れると、脂の甘さに頬の内側がキュッと縮み、唾液があふれる。食べ難さにもどかしい思いをしながら二、三個平らげた。川魚も生のまま頭から放り込む。内臓のほろ苦さがクルミの脂と予想外にマッチして、場違いに上品な味わいだ。
食べることへの純粋な喜びを、長らく忘れていた。宛先のない感謝の念が自然とあふれる。
空腹感が和らいで人心地つくと、余裕も出てきた。この流れは、昨日見た川に繋がっているのだろうか。
「探検してみよう」
私は残りのクルミを持って、川沿いを下流に向かって歩き出した。
何かしていないと不安になる気持ちに蓋をして。
川魚には寄生虫がいるおそれがあるので生食はしないでください(念のため)。
クルミは栄養価が高く1個あたり約35キロカロリーあり、2個でご飯1膳分に相当するそうです。