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昼食の席にスタンフォード卿が着くことはなく、リーヴさんの姿も見当たらなかった。
食卓に並ぶカトラリーは朝食と同様必要最小限で、やたらとナイフやフォークをとっかえひっかえすることはない。それでも、他人に給仕をされクルー先生を意識して行儀作法を気にかけながらの食事は、軽い緊張感を伴った。
もぐ、と皮が香ばしいローズマリー風味のオーブンポテトを咀嚼しながら、清潔で明るい卓上を見渡す。
というか作法うんぬんより、ここ暫く下手をすれば草の上に胡坐をかいて手づかみで食べるという、シンプルかつワイルドな食事風景だったので、その落差の激しさが腰が落ち着かない要因の大部分を占めているのだ。
そうは言っても、もちろん堅めに焼いたパンに、お酢とハーブを効かせた瑞々しい野菜のサラダや、具沢山のトマトスープといったやや軽めの食事は、他の人に倣ってパンでお皿を拭い最後の一口まで美味しくいただいたけれども。
食後溜まった手紙の返信を書くというエリカは、心なしか足取りが重い。思わず出てしまったと言いたげに、可愛い顔に似合わないため息さえ吐いている。
令嬢にもいろいろと面倒なことがあるのだろう。
『お茶の時間に、たぶん、アリアンさんのジンジャークッキーが出るよ』
甘いものが好きみたいだし、元気を出して欲しくて胸の前でぐっと拳を握りながら声をかける。
『本当?じゃあ、がんばるわ!』
思いの他励みになったらしく、エリカは真似をして小さく拳を握り、行進するように足を踏み出しながら自室へと引きあげて行った。
『失礼ナギさん、よろしいですか?』
クルー先生と二人で微笑ましくその後姿を見送っていると背後から声がかかり、隣に立つ先生の肩がぴくっと動く。振り返ると、食事中リーヴさんに代わって給仕を努めていたトリスさんが立っていた。
『なんでしょうか』
振り仰ぐようにして見ると、長身を屈めてくれる。窓からの光を反射する眼鏡に遮られて定かではないが、視線は合っているようだ。
『御用がないなら、書斎に来てくださるようにと、旦那様から伺っております』
『わかりました。ありがとうございます』
クルー先生に向き直り会釈をして書斎に向かおうとすると、一瞬彼女の口が何か言いたげに開いて閉じた。私が首を傾げると、何でもないといった風に再び口の端が上がり、ゆるゆると首が振られる。
私が踵を返した後ろでなにやら火花が散った気配がしたが、関わるべきではないと勘が告げたので、足を止めずにその場を後にした。
くわばらくわばら、君子危うきに近寄らず。これ以上厄介事に頭を突っ込んでたまるもんか。
この屋敷に来て三度目になる重厚な扉の前に立ち、昼間のこと、今度は金具を打って訪いを告げる。
ほどなく応えと共に扉が内に開いて、リーヴさんの微笑付きで室内へと招き入れられた。
『よく来てくれた』
ローテーブルの脇に立っていたスタンフォード卿は、片腕を広げて私を鷹揚にソファーへと促す。向かいに腰を下ろした怜悧な顔には、あるかなしか苦いものが混じっていた。
私の顔を見て眼光を緩め微苦笑した彼は、ふっと息を吐いて掌で自らの眉間を撫でた。
『エリカが戻ってきて気が緩んだのでな。その間棚に上げておいた仕事に追われているのだ。もっともそれはエリカも同様だろうが』
年のせいかな、と溜息をつく顔は、いつものように凪いでいる。
『エリカは手紙の返事、書くのが、大変そうでしたよ』
強張りかけた表情筋をほぐしながら答えた。
『スタンフォード卿も、お疲れでしょう。……別の問題もあるようですし』
早く本題に入ってください、という思いを込めてにっこりと目の前の顔を見据える。
沈黙したスタンフォード卿の表情は変わっていないが、肩が細かく震えている。
やばい、生意気過ぎたかな。誰譲りかは知らないが、無鉄砲で子供の頃から結構損をしている。
でも、回りくどいことは根本的に性に合わないのだ。それに、私ごとき小娘が腹芸で相手になるような人ではないのは、この屋敷での短い滞在で既にわかっているつもりだった。
『あの……』
おずおずと声を掛けたとき、対面から小さく破裂音がした。
慌てて覗き込むと、スタンフォード卿が口元に手を当てて笑っている。
『っつ、くく、いやすまない。はぐらかすつもりではないのだよ。リーヴ、君が正しかったな』
『恐れ入ります』
疲れのせいか、リーヴさんの冷静な返答が更にツボにはまったらしい。スタンフォード卿は暫く声を殺して笑っていたが、やがて目の端をリーヴさんが差し出した手巾で拭い、真顔に戻った。
『この話は、家中でもごく限られた者しか知らない。』
それを心得てくれ、とスタンフォード卿は言外に告げる。
私は神妙に頷いた。
『エリカが攫われた時、何かを要求する文はどこからもなかった。それで捜索に手間取ったのだ。』
思い出したのか、卿は藍色の目に苦々しい表情を浮かべながら続ける。
『下手人は、村はずれに住んでいた男だということだ。』
卓上に広げた地図、当地スタンフォードだと教えられた地点に銅色の硬貨がパチンと置かれる。
『領民の話によると、事件の前の数日、男はいつになく羽振りのよい様子で、酒場で派手に遊んでいたらしい。そうだな、リーヴ』
視線を受けてリーヴさんがすっと前へ出る。
『はい。あまりにも金遣いが荒いので不審に思った酒場の主人が尋ねたところ、割のいい仕事が入ったと言っていたとか。酔いが回って口数が増えると、これは前金だが仕事を済ませれば更に大金が入るとも言ったそうです。ろくに働きもせずに酒場に入り浸っているので普段から鼻つまみ者でしたが、その数日、酔いつぶれる頃には妙に据わった目をして、ぶつぶつと何やら呟いていたと。』
それって。
『だれかに……金でつかわれた、ということですか?』
やはりというか当然というか、黒幕がいたのか。
『君が渡してくれたあれらの荷物だが』
スタンフォード卿が、脇に置かれた私が死体から追いはぎした荷物に向かって顎をしゃくる。
『この剣、そのような者が持つにしてはどうも鋼の質が良すぎるのだ。しかも、柄に彫られた……が削り取られておる』
気遣うような視線をくれたリーヴさんに大丈夫と目顔で頷いて、まじまじと木彫りの柄を眺める。確かに卿が指した先、本来ならば家紋風の幾何学模様が描かれていたらしい部分は判別できないよう意図的に削られていた。
『それとな……』
言うか言うまいか逡巡しているような口調。
卿はしばし口を濁していたが、私の顔を見て溜息混じりに続けた。
『旅支度は、一人分しかされていなかった。』
一人分?
怪訝に思っていると、リーヴさんが低い声で引き取った。
『当時村に来ていた行商人から聞き出した情報です。サザランドまでは馬でどのくらいかかるかを聞かれた後、そこまで行けるだけの日持ちのする食糧を一人分くれ、と言われたと。旅慣れていないので、勝手がわかるものに見繕わせたのでしょう』
覚えのある地名が出てきた。以前どこまで行こうとしていたのだと聞かれて、とっさに口にした地名が話題にのぼって内心焦る。
パチッ。
サザランド、と書かれた点の上に銅貨がもう一枚乗せられる。
『馬はこの村で手に入れたものではないようだが、あの馬格ではここからサザランドまでのような長距離の移動は、やはり一人しか無理だ』




